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12月14日に行われた奈良文化財研究所の、飛鳥藤原第183次調査の現地説明会です。
藤原宮は平城宮とは違い、ほぼ正方形をしています。その中央に大極殿院が置かれ、左右に官衙群が広がっていると考えられます。
今回の調査は内裏東官衙に隣接する、東方官衙北地区の南西部の一角です。

この遺構図の実線で囲まれた183次と書かれている個所が、今回の調査区です。色分けは時代分けを示しています。青紫が藤原宮期、赤が7世紀後半から宮造営期、緑は同時期でも赤の遺構に切られているので、それより古い時期になります。グレーはそれ以前の7世紀前半から中期、黄色は西方位に乗らない事もあり、古墳時代かそれ以前の遺構だと考えられます。

調査区の西側の地区を南から見ています。ここで目立つ遺構は、宮に先行する道路の跡です。どうやら、宮のエリアを決定する以前に、道の普請を始めたようです。それどころか両側の側溝を掘った後、道幅を広めに変更したのか、新旧の溝が切り合っています。
この画像は、同じ地区を北から見ています。地区の西端(右側)に、藤原宮として機能した時期の建物遺構が、二軒検出されています。これらは、道の側溝を埋めて整地した後に建てられています。
いずれも掘立柱建物で、大きな方の建物(奥の水色のテープ)は梁行2間、桁行4間以上ある事が、以前の調査結果からも確認されています。大きな柱穴の間に、小さな柱穴が二つ並んでいるのは床束と考えられるので、この建物には床が張られていたようです。
この建物の北側(手前の水色のテープ)にも、やや小さな柱穴が並び、別の建物があります。

これは調査区東側エリアを東から見ています。ここには梁行3間、桁行4間の礎石立ちの総柱建物(水色のテープ)、それに先行する掘立柱の側柱建物や塀(ピンクのテープ)、更に古い塀(緑のテープ)が見られます。そして、塀よりも古い、道路の側溝らしき東西溝も検出されています。
この総柱建物、先程の床束のある建物は中心線がそろいます。その線をさらに西に伸ばすと、大極殿(奥中央の茂み)にも乗って来ます。宮造営の当初より、計画的にこれらの建物は配置されていた事が分かります。

総柱建物は一棟しか見つかっていないので、倉庫なのか楼閣なのか分かりません。礎石を置いて柱を建てていますが、周囲から瓦はあまり出ていないので、瓦葺ではなかったようです。切り合う柱穴がないので、建て替えも行われていないようです。礎石は宮地の廃絶後に撤去されて残っておらず、下に置かれていた根石が幾つか見られます。

遺物は須恵器や瓦がありますが、全体的に少ないようです。特筆すべき遺物として、礎石抜取穴の一つから、このような佐波理鋺(さはりわん)の口縁部破片が見つかっています。飛鳥時代の物で、厚さは0,3~0,4㎜しかないそうです。見つかった抜取穴の位置で、平安時代の耕作溝が止まっているので、その頃にはまだ礎石が残っていたようです。
東方官衙地区は、まだ調査範囲が狭く、全体像は全くつかめていません。未だ田園風景が残るだだっ広い場所に、本当に宮殿や役所が整然と並び、官人がひしめいていたものなのか、容易には想像ができない状況です。
藤原宮は平城宮とは違い、ほぼ正方形をしています。その中央に大極殿院が置かれ、左右に官衙群が広がっていると考えられます。
今回の調査は内裏東官衙に隣接する、東方官衙北地区の南西部の一角です。
この遺構図の実線で囲まれた183次と書かれている個所が、今回の調査区です。色分けは時代分けを示しています。青紫が藤原宮期、赤が7世紀後半から宮造営期、緑は同時期でも赤の遺構に切られているので、それより古い時期になります。グレーはそれ以前の7世紀前半から中期、黄色は西方位に乗らない事もあり、古墳時代かそれ以前の遺構だと考えられます。
調査区の西側の地区を南から見ています。ここで目立つ遺構は、宮に先行する道路の跡です。どうやら、宮のエリアを決定する以前に、道の普請を始めたようです。それどころか両側の側溝を掘った後、道幅を広めに変更したのか、新旧の溝が切り合っています。
この画像は、同じ地区を北から見ています。地区の西端(右側)に、藤原宮として機能した時期の建物遺構が、二軒検出されています。これらは、道の側溝を埋めて整地した後に建てられています。
いずれも掘立柱建物で、大きな方の建物(奥の水色のテープ)は梁行2間、桁行4間以上ある事が、以前の調査結果からも確認されています。大きな柱穴の間に、小さな柱穴が二つ並んでいるのは床束と考えられるので、この建物には床が張られていたようです。
この建物の北側(手前の水色のテープ)にも、やや小さな柱穴が並び、別の建物があります。
これは調査区東側エリアを東から見ています。ここには梁行3間、桁行4間の礎石立ちの総柱建物(水色のテープ)、それに先行する掘立柱の側柱建物や塀(ピンクのテープ)、更に古い塀(緑のテープ)が見られます。そして、塀よりも古い、道路の側溝らしき東西溝も検出されています。
この総柱建物、先程の床束のある建物は中心線がそろいます。その線をさらに西に伸ばすと、大極殿(奥中央の茂み)にも乗って来ます。宮造営の当初より、計画的にこれらの建物は配置されていた事が分かります。
総柱建物は一棟しか見つかっていないので、倉庫なのか楼閣なのか分かりません。礎石を置いて柱を建てていますが、周囲から瓦はあまり出ていないので、瓦葺ではなかったようです。切り合う柱穴がないので、建て替えも行われていないようです。礎石は宮地の廃絶後に撤去されて残っておらず、下に置かれていた根石が幾つか見られます。
遺物は須恵器や瓦がありますが、全体的に少ないようです。特筆すべき遺物として、礎石抜取穴の一つから、このような佐波理鋺(さはりわん)の口縁部破片が見つかっています。飛鳥時代の物で、厚さは0,3~0,4㎜しかないそうです。見つかった抜取穴の位置で、平安時代の耕作溝が止まっているので、その頃にはまだ礎石が残っていたようです。
東方官衙地区は、まだ調査範囲が狭く、全体像は全くつかめていません。未だ田園風景が残るだだっ広い場所に、本当に宮殿や役所が整然と並び、官人がひしめいていたものなのか、容易には想像ができない状況です。
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