×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
本日は終日雨天ですが、橿原考古学研究所の飛鳥京跡苑池第10次現地説明会が行われました。
この画像は、推定飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)の内郭、推定内裏の井戸の辺りから、苑池の方向を見た様子です。
現在の飛鳥川は、明日香村の内では案外小さな川ですが、しっかりとした河岸段丘を見せています。件の苑池は宮地よりも一段下がった段丘上に造られているので、この状況では見えていません。ちなみに奥に見えている丘陵は、左が川原寺の後ろの山で、右の少しけぶっている方が甘樫丘です。
こちら、以前の現説でも登場しましたジオラマです。今までの調査で、このように塀で囲まれている事が分かっていました。今回は右側の塀の白いマーキングがされている位置に、門と思しき遺構が見つかったので、説明会が行われたという次第です。
あれ、画像が横倒し??( ・◇・)?(・◇・ )?
こっちも横倒し??何故だ??(゚_。)?(。_゚)??
この図の赤いラインで囲まれているのが、『飛鳥京跡苑池』として、史跡・名勝指定されている範囲です。池は間に渡堤(わたりつつみ)を設けて南北に分かれ、北に向けて排水路が伸び、最終的には飛鳥川に水が注ぐと考えられています。
この辺りの小字は出水というようで、池の水のほとんどは湧水だと考えられています。
今回の調査は、トーンで示されている範囲ですが、西側の川沿いのトレンチでは、中世以降の河川体積が見られ、洪水で遺構は残っていない事が分かりました。遺構が検出された東側のトレンチは、苑池よりも一段高い段丘の上に設けられました。
この図の南端に塀のコーナーが見えます。そして中央辺りに見える東西方向の柱列(SA00017)の位置が、塀の北端と思われます。この間に150mの南北方向の塀があるとかんがえられ、門の遺構はその中央部で見つかっています。
塀から続く柱列は、後世の農地整備などで削平されて残っていないようです。
これは池の位置の現在の様子です。残土の上に見学用のテラスを作ってくれていて、そこから見ています。白い看板の位置が、南池、渡堤、北池を示しています。
さて、今回の目玉となる門の遺構ですが……第一印象、何で4間??(。_。).。o0O?
東側(奥側)の柱列は一部壁にかかって分かり難いですが、梁行2間、桁行4間の総柱の掘立柱建物です。総柱の建物として、倉庫、楼閣、門が考えられます。現在分かっている塀の上に位置しますので、門と考えるのが妥当でしょうか。しかし、4間となると、門の中央に柱が来てしまい、おかしな構造になってしまいます。
それぞれの柱間の数値を聞いていないのですが、現地を見た様子では、北から2番目と3番目の柱間が少し広いように見え、南側2本の間が狭いように見えます。門として使われたのは1間ぶんのみで、門に付随して別施設があった可能性も考えられるそうです。
報道では大きく取り上げられましたが、現地の残りはそれ程、良い方ではありません。
柱は全て解体時に抜き取られ、柱の掘方の形も乱れているようです。そして深さとしては、30cmも無いように見えます。柱の根石もなさそうです。
上の画像を見ても包含層が殆どなく、遺物らしい遺物も今回は見つかっていないという事です。
しかし、今回の門の発見で、苑池施設の全体像の理解が、また一つ進んだ事は間違いありません。今回の調査地の南側、先の調査で2棟の建物跡が見つかった位置は、既に整地が進み、ここに苑池の説明施設を造る予定になっているそうです。
今年もいずれ行われるバーチャル飛鳥京でも、そろそろ、苑池の様子を復元するのではないかと、東大のプロジェクトチームにも期待しているところです(-ω-)/
PR
この記事へのコメント