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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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八月、一度の更新もないまま放っておいてしましましたσ(^◇^;)
果たして九月はどうなりましょうか。
そういう訳で、たまには執筆中の戯言でも。

延暦22年12月に、陸奥国大国造に任ぜられた道嶋宿禰御楯という人がいます。
多分この人の名前、征夷大将軍の坂上田村麻呂とセットで覚えている人も多いと思います。

道嶋宿禰氏は、陸奥国牡鹿郡の郡領を務める一族です。
この一族でダントツに有名なのは、道嶋嶋足という人。
嶋足さんは、何度か氏姓が変わっています。
最初は丸子嶋足、次に牡鹿連嶋足、更に牡鹿宿禰嶋足。
天平神護2年に道嶋宿禰嶋足となっていまして、この後、陸奥国大国造にも任命されています。
道嶋宿禰は、この人の縁者に与えられた氏姓で、この後は一族でも本家筋となるようです。

次によく目にする名前として、道嶋大楯という人がいます。
宝亀11年3月22日、陸奥国伊治城で起きた伊治呰麻呂の反乱の時、真っ先に血祭りに上げられた人です。
道嶋大楯は牡鹿郡の大領、伊治呰麻呂は上治郡の大領となっていますので、どちらも陸奥国の出身者で、陸奥按察使の信認を得ていたようです。
この時の陸奥按察使は紀広純、呰麻呂はこの人も殺害しています。
大楯は呰麻呂を常に下手に見ていたと書かれているので、この二人の間に何らかの確執があったのは確かです。

道嶋御楯の名前は、延暦8年6月3日の紀古佐美の奏上文に初めて見えます。
北上川での大敗戦時の、指揮官の一人だったようです。
次に名前が見えるのは延暦21年12月8日、鎮守軍監外従五位下で、陸奥国大国造に任命されています。
次は延暦23年正月28日、征夷副将軍の一人として見えます。
更に大同3年6月9日、陸奥鎮守副将軍に任命されます。

名前が大楯と御楯で、同じ楯の字が使われているところから見て、この二人は親子か兄弟といった近しい関係で良いのでしょう。
都で武官になっていたとしても、出身は陸奥国だと考えてもおかしくはないと思われます。
 
さて、こんな事を適当に調べておりますと、嶋足が最初に名乗っていた丸子氏、このご先祖は関東辺りの出身と考えられるという説にぶち当たります。
これを踏まえると、大楯が伊治呰麻呂を侮っていた理由が、何となく分かるような気がします。
もしかしたら道嶋氏は、陸奥国の人達と一線を画した位置にいたのかもしれません。
そこに都で衛士になり、武功を挙げて大出世した同族の嶋足が現れたのでは、その思いに拍車がかかっても不思議ではないでしょう。

呰麻呂の反乱が、陸奥三十八年戦争の途中で起き、その後の戦火拡大に繋がっているのは確かです。
これだけの長期にわたって戦乱状態にある第一の理由が朝廷の介入だとしても、他の要因がない事は絶対にないでしょう。
陸奥国内での、派閥や利害の対立はあってしかるべきもの、殊に朝廷から官位や役職をもらって優遇された人達は、嫌でも反乱勢力と対峙する事になります。
そのような人達でも、都から来た将軍らよりも、遥かに国内の事情は分かっているはず。

延暦20年、蝦夷の二人のリーダーが五百余名の同胞を率いて降伏したとあります。
この停戦交渉の際して、先のような陸奥生まれの官人らとの折衝は、必ずあったと思います。
ここで道嶋御楯が何をしたか、史料には何の記述もないので不明です。
しかし、いくら長年に渡って征夷大将軍が陸奥で指揮を取って来たにしても、この人だけでは在地勢力を抑える事は絶対に適わなかったでしょう。
朝廷側に付いていても、同じ地で育ち、同じ言葉をしゃべる人達の説得に耳をかしたのではないでしょうか。

この停戦の結果、二人の族長は京都に送られ処刑されるのですが、こうなると征夷大将軍以上に立場が悪くなるのが御楯たちです。
大国造の称号をもらい、鎮守副将軍にもなっている事からも、朝廷はこの人を陸奥経営の柱の一人に見ていますが、以前にも増して立場は微妙になって行く事でしょう。
果たしてこの後の道嶋御楯は、陸奥国に帰ったのか、都で生涯を終えたのか、これまた史料に残らないので不明です。

私は、この辺りを調べていると、ドラマや小説などに常連で名前の出て来る人よりも、この人がいつも気になるのですが……
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ツイッターなんぞを人並み(?)に始めてみたところ、こちらが全くの疎かになってしまいました。
ブログを始めるとHPを更新しなくなり、ツイッターを始めてしまうとブログさえ顧みなくなると、周囲でも言っていますが、私も人並みにその例に漏れないようです。
しかしながら、TLとやらを眺めていると、フォローしている方のリツイート行為によって、特に興味もない呟きの数々を読み飛ばすどころか、眺め飛ばすのに忙しくて、これじゃ自分が何か呟く気もなくなっちまうぞ……と、ここ最近はかなり放棄気味になっております。
放棄が宝亀と変換されるのは、まぁ、IMEのお利巧さん加減ですかね(^_^;)

そんなボヤキはさて置き、進まないどころか後退しているかもしれない原稿を前に、逃避的な事を考えておりました。
歴史上の出来事を物語にするにあたり、主人公をいわゆるヒーローなりヒロインにするのには、私としては結構な抵抗があるとは、今更公言する事でもありません。
そして対抗する脇役を悪党にするくらいなら、主人公にも悪党になってもらった方が、話が進むような気がするのは、私が天邪鬼なためだと思います。

でも、敵役(かたきやく)は悪人であった方が、話は絶対に分かりやすいのでしょう。
だから主人公は、良い人でなければ収まりが悪いのだと思います。
単発の歴史ドラマの大抵は、このセオリーに乗っ取っているような気がします。
NHKが時々、妙に気負って作る古代史ドラマもこの路線でしょうか。

ところで、こういう話って面白い訳?(゜_゜>)?
殊に、描かれる時代や人物にある程度の思い入れのある人にとっては、『ただの物足りない粗筋にしかなっていない』とか、『今更こんな古めかしい歴史観、見せ付けられたくない』とか、『かなり変!通り越して腹立って来る』という類の意見を何度か聞いた事があります。

そして更なる疑問……歴史好きの人のどの程度が、完全無欠のヒーローを求めているの?(゚_。)?(。_゚)?
例えば、聖徳太子は聖人君子じゃなければだめなの??
いやいや、ギャグ漫画の主人公にもなれる、ってのは横に置いておいて(-_-;)

かつて、政治家としての厩戸皇子に「私の手はとうの昔に血に塗れているのだよ」と呟かせ、晩年にはそれらの行為に導かれるように仏教に傾向して行く姿を描いて、何やらの物議を醸し出したような書籍(文学作品ではありません)もありましたっけ。
これが世に出た頃(40年位前かなぁ)にはセンセーショナルだったのかもしれませんが、今じゃ、小説などでも違和感もなく描かれる厩戸皇子の姿なのでしょうけどね……

まぁ、私がこんな与太事を今更考えたところで、更なる答えが出るとは思えないんですけどね、我ながらσ(^◇^;)
別に悲劇のヒロインのレッテルを貼られている人物が、とんでもない嫌われ者ワガママ女でも、文武両道のヒーローが、ヘタレなセルフ俺様男でも、私の中では一向に構わないから。

こんな事よりも、今の主人公が主体性持って動いてくれるように、せいぜい、無い知恵絞らなければ……我ながら本当に信じられないのが、未だにこの人物の外見的なイメージすら固まっていない事。
これじゃ、動いてくれる訳ありませんわε-( ̄ヘ ̄)┌
『忍者ブログ』でエディターを変更してくださいと再三言っているので、何度目かのトライアルをしてみたのですが、改善したとされている項目すらも直っていないので、またもあきらめてHTMLに戻しました。
何せ、文字サイズすら変えられないって、一寸、エディターとして致命的でないの(・_・;)

7c1ddd14.jpeg藤野清麻呂が藤原式家の連中と面つき合わせて、白壁中納言家の噂話をしているシーンを書いていたのですが、ここでふと妙なというか、今更な事を考え始めました。
考え始めたのは私であって、清麻呂君ではありません、念のため?( ・◇・)?(・◇・ )?

何を考え始めたかと申しますと、白壁王の三男(次男という向きもあられましょうが、うちでは三男です)の出家の理由です。
三男(次男か)って誰?早良王という人です。
史料によれば、直接名前は出て来ませんが、この人は十一歳で出家したと考えられます。
この時、父親の白壁王は既に従三位、非参議ながら皇族官人としてはかなりの上臈という位置にいます。
一般的認識において何もしていない皇族に対して、三位を与えるほど、当時の官界は形骸化してはいないでしょうから、この階位には何かの意味があると考えてもおかしくはないと、私は常々思っております。

時は天平宝字四年ですから大炊天皇が高御座に就き、皇家の主流は舎人親王家に変わるかと思われていたはずです。
元年の政変で北宮家(高市皇子家)も新田部親王家も排除され、長親王家の上臈らは、それ以前に文室朝臣を賜姓されて皇統からリタイアしています。
況してや壬申の乱から既に九十年が経過している頃、ここまで皇嗣問題が逼迫していて、近江系(天智天皇系)を蚊帳の外に押しやっている余裕というか理由が、いつまで続くものなのでしょう。
志貴親王家は舎人親王家と並ぶ、皇嗣候補と見られていた可能性を果たして否定できるものなのか、常々疑問に思っています。

こういう状況で、ここからは私の勝手な設定下における戯言?(゚_。)?(。_゚)?
長男は三年前に出家して、今は唐律招提の台所になくてはならない人となり、次男は内舎人として任官し、時の為政者に目を付けられて娘婿になっているという状況。
次男と同母の三男、異母の四男はまだ十代前半とはいえ、藤原南家や北家を始めとした諸氏らから、どういう対象として見られていたのか……
更に言えば、この家の正妃は先帝の内親王で、七つになる女王がいる。
成人した図太い二人の息子は大丈夫と思えても、これら年若い諸王らは太政官入りを目前とする父親には、かなり気がかりな存在だったのかも……
まだ五男坊は生まれていないので、皇統に関わって来るのは内親王腹の娘という事になるか。
十一歳の三男と七歳の次女、この二人の何に父親は悩んでいたのだろうか

(゜_゜>)、どうもすっきりとまとまらない。
ともあれ、この先、うちの清麻呂君が巻き込まれるのは、三男坊の事ではなくて次男と五男の事。
もしかして、この人につき物(?)の猪とは、実は白壁王家の次男の事かn(ー_ー?)ン?
あの御仁は偶蹄目というよりも、夜行性肉食系のような気もするんだが(・・?
何のイメージやらヴィジュアルかと申しますと、今回の主人公のです。
年は山部王よりも四つ歳上なので、天平宝字八年で三十二歳、現在の基準で言えば十分に青年でしょうが、この時代の基準で言いますと、正真正銘のオジサンです。
だからと申しまして、現在の四十代以上のイメージにもしたくないのが悩みどころ(^^ゞ

それよりもこの御仁、生真面目は良いにしても、根暗にしようかオチャラケにしようか、一層の事、壊れた人にしてやろうか……生真面目に壊れるって、どういう性格だ?
まあ、いつものように、ます動かしてみれば、大方の事は定まってくるでしょう。
ちなみにこの御仁、地方出身者と考える方向もありそうですが、私の現在の設定では都生まれの都育ち、何度かは父親の赴任先の地方で過ごした事もあるという程度。
見た目はヒョロリと背が高くて、あまり武官然としていない。
少しばかりこもり気味の声だが、滑舌は決して悪くない話し方をする。
藤原雄田麻呂に言わせると、
「風貌や印象は別物なのに、この壮士が種継と並ぶと、妙に似ているように思えるから奇妙だ」

こんな具合に極めて曖昧な事しか考えておりません(゜∀。)

ところで、いつもメインで使っているノートPCの電源アダプターが寿命のようで、現在、メーカーに在庫状況などを問い合わせております。
そういう訳で、こいつはネットブックで打っております。
キーボードとディスプレーが小さい以外は、特に不便はないのですが、メールソフトとサーバーの相性なのか、メールが送れないのに困っています。
いずれ必要に迫られれば、フリーメールでも何でも使いますけどね。
もう一つの問題は、容量の都合で、フォトレタッチソフトを積むのがやや不安……
ここで使う画像の加工とか、職場のPCで休み時間にやったら怒られるだろうなぁ(~_~;)
四の五の言うな、俺はナタだ。物語は天平宝字八年の九月から始めるつもりです。
それにしても、ネットブックのキーボードは小さくて打ちにくいです゚(゚´Д`゚)゚
そしてこのIME、ちょいと奇妙な変換をしてくれます。
それよりも、ユーザー辞書がどうなっているんだ?

では話を戻しまして、主人公を変更する事と致しました。
多分、話のはじめでは、右兵衛府にいる事になりますが、その内に近衛府に転属になります。
すると、やたらに濃い上官が待っていそうな予感です。
その少し前に、またも女帝が頭を痛めそうな事件が起きますが、この事件に主人公が関わった形跡は見当たらないので、まずはこのでっち上げから考えなかればなりません。
そして絡んでくるのは、件の山部王と藤原種継のコンビ?

これからまた、この主人公の周囲の武官をはじめとした面々のプロフィールを探り直す作業が再開します。
資料は大昔に作ってあるのですが、これを見直しても時間経過が頭に入らない……よって、叩き込むために再検討するつもりです。

しかし、これから静岡に行かねばならない。
戻ってくるのは三日の朝……何が心配かって、シマコは何度も経験しているけれど、ナタははじめてのお留守番。
この二匹がもう少し仲良しだったら、私もさほど心配しないのだけれど(゜レ゜)
とにかく、もう何時間かしたら、初詣客に混じって出かけます。
京都駅で待つのは寒いだろうなぁ……今日の橿原は、雪が降ったり止んだりでした。
これは劇団『時空』本公演のリハーサル風景……(^。^)本日の画像、十六日に石舞台公園の風舞台で行われる、劇団『時空』の本公演のリハーサルシーンです。
衣装を着けての画像は、本番のお楽しみm(__)m

そして本日の戯言は、この画像とは全く関係ありません。




性懲りもなく、西大寺の続き……

この大寺には例に漏れず、東西の二塔があり、それぞれの基壇が残されています。
『続日本紀』に最初に記事が出て来るのは東塔の方で、礎石の事が記されています。

神護景雲四年(770年・十月に宝亀元年に改元)二月二十三日 西大寺の東塔の心礎を破却す

知らなければ通り過ぎてしまうような『石落神社』何でもこの石、東大寺の東の飯盛山より運んだ石で、最初、数千人の人で引いたものの一日に数歩程度の距離しか動かず、時にはうなり声まで上げてくれるという迷惑な存在です。
とにかく人手を増やして九日がかりで引いて来て、加工して基壇に据えたものの、巫女や覡が石が祟っていると言い出す始末……(--〆)
そこで芝を積み焼いて、酒を三十斗以上もかけて砕いて道のバラスにしたところ、これが高野女帝に祟って不予となったというから、どこまでも厄介な石です。
仕方無しに、これを拾い集めて人や馬が踏まないように、境内の清浄なところに集めたと結んでいます。
この場所、確か、現在の門前にある『石落神社』だったと思います。

『東塔跡』:芝生の部分が八角形の基壇こんな事やってるから、東塔の建立は大幅に遅れたようで、ともする内に高野女帝は崩御します。
財政難の折、太政官としては、女帝の希望した『八角形七重塔』(技術的にもかなり困難?)のプランを、通常の『四角形の五重塔』に変更する事に致しました。
これは発掘によって確認されているそうで、現在復元されている東西塔の基壇の下に、八角形の基壇が見つかっているようです。

この八角形七重塔というプランは『日本霊異記』下巻に見えていまして、左大臣の藤原永手がプラン変更を行ったために地獄に落とされていると息子に訴えて、供養を頼んだ云々……という事になったのだとか。
永手の息子で仏門に入ったのって、誰なんだn(ー_ー?)?

西塔の記事としては、宝亀三年四月二十八日、“西大寺の西塔に震(かみとき)す”と見えます。
落雷で焼けたのでしょうか、この事を占いますと、近江国滋賀郡の小野社の木を切って塔を造ったための祟りだと出たので、社に封として二戸を追加したとあります。
この西塔、宝亀七年七月十九日にも落雷がありました。

何で、どちらの塔も、わざわざ正史の『続日本紀』に祟りましたなんて、書かれているのやら……
巫覡が祟りと言い出し、更に卜(うらな)うと表現されているのですから、神祇官が卜をたてているのでしょう。
何となく、神仏ではない存在の意図を考えてしまうのですが……σ(^◇^;)
造西大寺司には、大迷惑な話ですねぇ……(ーー;)
 
これは東大寺で会った僧兵スタイルの人たち昨日より東大寺ではなく、西大寺関係の記述を『続日本紀』から拾い出しておりました。
これが思いの他、少ないです……(゜゜)

何せ、この寺がいつ建立されたか、このような事からして書かれていません。
注釈に『西大寺資材流記帳』の内容が紹介されていて、それによれば天平宝字八(764)年九月十一日、恵美仲麻呂(正確には恵美押勝ではありません)の謀反が明らかになった時、孝謙太上天皇が乱の平定のために七尺の金銅四天王像を造り、寺の建立を誓願した事より始まるそうです。
う~ん、聖徳太子ですね、まるで( ̄∇ ̄;)

そして翌、天平神護元年には、四天王が完成して伽藍建設が始まりますが、吉備由利四王堂に奉納したという、一切経の奥付の日付は同二年の十月八日になっているので、像の完成をこの頃と見る研究者もいるようです。
いずれにせよ、この頃には四天王を安置する堂が完成していたようで、十二月十二日に女帝の行幸が見えています。
この四天王像、現在も江戸時代再建の四王堂におられます……と言いたいところですが、

まがつみは いまのうつつに ありこせど ふみしほとけの ゆくへしらずも

會津八一が詠んだとおり、邪鬼だけが奈良時代の物で、踏みつける四天王は何れも平安時代以降に作り直された像だと考えられています。

造西大寺司の人事が見えるのは、神護景雲元年二月、長官には佐伯今毛人、次官には大伴伯麻呂が任命されています。
この後の記述も大部分が司の人事の事で、具体的な建設の様子はほぼ分かりません。

しかし、伽藍配置は宝亀十一(780)年に記された『資材流記帳』に基づいて元禄時代に描かれた図などもあり、おおよその所は想定できるようです。
『続日本紀』にも『法院』・『嶋院』・『兜率天堂』・『東塔』・『西塔』などが見えています。
『法院』では曲水の宴を行っているので池が有り、『嶋院』と同じと考える事も出来ますし、対になった院とも考えられそうです。
『兜率天堂』は別名『弥勒堂』、三十数体にも及ぶ仏像が安置されていたそうです。

これらの堂の内でもっとも有名なエピソードを持つのは東西の塔ですが、これについてはまた、記事を改めまして……σ(^◇^;)
いずれにしてもこの巨大伽藍、女帝の存命中には完成せず、宝亀年間をほぼ費やして形を成していったようです。
僧寺の西大寺の対として尼寺の西隆寺(現在のサンワシティビルや奈良ファミリー一帯にありました)も、同時並行で建立されたのですが、こちらの記事は更に少ないです。

ところで、造西大寺次官に任命された大伴宿禰伯麻呂という御仁、チョッと面白そうな予感(~_~)
確か氏長の家持と同年代なのに、出世のスピードはこちらの方が速いという、大伴氏内でも変り種かもしれませんし、単に機を見るに敏な人なのかもしれません。
では次は、この御仁のプロフィールでも拾ってみますか……で、今回の主人公は誰よ、藤原雄田麻呂?蔵下麻呂?種継?( ・◇・)?(・◇・ )?
 
何とな~~く、BGMに御神楽の朗詠を聞いております……『阿知女作法』は癖になるかも( ̄Ω ̄)
 
妙に絵になる二羽の鴉相変わらず天平神護~神護景雲年間を眺めております。
ここで矢鱈に目立つのは賑給(しんごう)記事です。

例えば天平神護元年二月十五日、
“相模・下野・伊予・隠岐等の国飢えぬ。これに賑給す”
三月二日
“伯耆国飢えぬ。これに賑給す”
三月四日
“参河・下総・常陸・上野・下野等の五国旱(ひでり)す。詔して、今年の調・庸十分が七八を復(ゆる)したまふ”

こんな具合にひっきりなしに出てきます。
賑給というのは、旱魃疫病で農作業が出来ずに飢饉となった人々のため、公から米などを配給する事です。
しかし国によっては二年も三年も飢饉が続いているので、賑給米も底をつき、余剰のある国から融通する事となり、その国も旱魃などで米が取れなければ、ここの備蓄も枯渇する……このような不の連鎖を引き起こし、全国的に蔓延していったようです。

とにかくこの頃、全国的に少雨のようで、ようやく降りだしたかと思えば台風に見舞われ、揚句の果てには櫻島までが噴火して新たな島が出来たりします。

これら天災や飢饉の記事が若干減った頃に増えるのが瑞祥の記事です。
天平神護三年の六~八月にかけて、各地で景雲が見られたとの報告があり、八月十六日、神護景雲と改元されます。

景雲とは彩雲とか、環天頂アーク、環水平アークの事だと思われますが、見える時には結構見えるらしいです……私は彩雲は何度か見た事があるのですがσ(^◇^;)

そして改元の後、白い鹿、白い雉、白い亀、白い鴉、白い鼠といった具合にアルビノの動物が次々と献上されます。
この類の出現は天子の徳を現すのだそうで、不徳の致すところ……のはずの天変地異の後には都合が良いのやら、矛盾しまくっているのやら?(゚_。)?(。_゚)?
何せ、瑞祥とされる動物などを献上すると、見つけた本人も、そこの国司以下の御偉い様も御褒美(位だったり物だったり)を頂けるし、場合によっては年貢の免除もありますから、ここぞとばかりに探し出そうとしたのではないかと思われます。

とにかく、重祚した女帝の時代は、その前後と比べてもかなり異様です。
異様過ぎて、どう料理して良いのやら、ひたすらに迷っている状況です。
とりあえず、西大寺建立関係をもう少し調べてみますか……ε-( ̄ヘ ̄)┌

え~、今までに何度か、非表示でコメントを頂いていた方が複数おられるようで、つい先程まで、全く気づいていない状況でした……大変な失礼をしていた事を、ここで御詫び申し上げますm(__)m

非表示コメントって、実は管理ページにも表面上出て来ないので、コメント一覧を見て始めて気がつくような状況なんです……重ね重ね申し訳ありませんでしたm(__)mm(__)mm(__)m




さて、ここより戯言……( -」)φ

春日若宮社にて春日大社の記録によれば、ここに御社ができたのは神護景雲二(768)年の十一月の事、時の藤原氏の氏長、北家の永手称徳女帝の勅命を受けて着手したのだそうです。

それ以前の天平勝宝八(756)歳に描かれた有名な『東大寺山堺四至図』(正倉院宝物)には、まだ社らしき建物は描かれず、『山階寺東松林』と『御蓋山』の間に四角く囲われて『神地』の文字が見えています。
そのため、神護景雲二年より以前には、社はなかった可能性が大きいのかもしれません。

しかし、現在見るような回廊を持つ社殿が出来たのは、平安の終わりか鎌倉の始めくらいのようで、具体的に何年かは不勉強で分かりません……σ(^◇^;)

私は勝手に、平清盛が安芸国なんぞにどでかい御社を建ててくれましたので、藤原摂関家がボウボウに対抗意識燃やして、うちも建てちゃるわ!!と建設を始め、その後、相模国の方でも、うちも遅れちゃいけねぇぞと、八幡神を勧請して関東武士の底力じゃあぁ!!と張り合ってたんじゃないかと妄想しております。
まあ、好き勝手に思っている事なので、特に信じないで下さい( ̄▽ ̄)。o0○

いずれにしろ、当初は御社殿と言えるほどの壮麗な建築ではなく、御社に瑞垣を巡らせた、現在、若宮社などに見るような姿だったのだろうと言われています。
参拝する場所も、拝殿というよりも拝屋という方が近いのかもしれません。

こういう事を踏まえながら、淳仁天皇の頃から称徳女帝崩御前後まで、『続日本紀』で宗教関連の出来事を拾い出していたのですが、やはり女帝の時代の方が記述は倍近くなります。
大和十二大寺という言葉も見え、行幸で七大寺を始め、河内の寺々まで足を運んでいます。
それに比べ、神社関係は決して少なくはないのですが、殆どは伊勢大神宮関連ばかりで、時々、出雲国造やら、宇佐八幡やら、鹿島神社やらと、地方の神社が出てくる程度で、畿内はおろか大和の記事は殆ど見えません……高鴨神(ではなく、実は一言主)を葛上郡に再び祀るなんて記事はありますが。
石上の神に封戸を施入なんて記事もありますか(゜_゜)

まあ、女帝は天平宝字六年に出家して、それ以降は僧尼を近従させていたくらいですから、御寺関係が多くても特に不思議でもありませんが。
それで東大寺関係が多いかと思えば、大して見えませんで、一番多いのは西大寺です。
称徳女帝の勅願ですから、当たり前といえば当たり前ですか。

しかし、やっぱり、はっきりした傾向が見えてこない……宗教改革や何かは今回のテーマじゃないしなぁ(゜.゜)
 
俺はナタ天平宝字三年六月十六日、淳仁天皇の詔の宣命の内に
「今より以後、舎人親王を追ひて皇(すめら)とし、崇道尽敬皇帝と称し……」と見えています。
淳仁天皇(大炊王)という人は、○○皇帝という尊号を送るのが好きなのか、その前の年にも譲位した女帝に宝字称徳孝謙皇帝、更に先の天皇には勝宝感神聖武皇帝という名前を贈っています。
いわゆる、称徳・孝謙天皇聖武天皇です。

後に自らを『今皇帝』と称させた御仁もおられますが、皇帝はひとまず置いておきまして、私の意識の内では舎人親王に天皇位が贈られたという事が常々飛んでおりまして、この尊号の事なんぞ、全く失念も良いところ、ほぼ記憶にありませなんだσ(^◇^;)
草壁皇子や、志貴親王、早良親王らへの贈位は、案外、気にしているんですがね……

ここで使われている『』という文字、勿論、崇拝の崇ですから、尊び敬うという意味です。
聞きかじりの俗説だと思うのですが、『崇』という文字が諡号に着く天皇は、悲劇的な亡くなり方をしている云々……どうも、この類には私は疎いです(゜.゜)
これって多分、崇峻天皇崇徳天皇、ついでに崇道天皇(早良親王)の事に限って言ってるんでしょうかねぇ。
何せ私、真っ先に思い出したのが崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖)ですから(^_^;)
この御仁が果たして百二十歳まで生きたかは存じませんが、悲劇的な最後を向かえたとは記憶にありません。
舎人親王にしても、悲劇的な要素があるのか否かは分かりませんが、ひょっとしたら豌豆瘡で亡くなっているかもしれません。

こんな事を思い出していて、舎人親王系の諸王らを何か引っ掻き回せないかなどと考えたものの、大炊王と和気王以降は、殆どが臣下に下ろされてしまって、来歴不明も良いところ、清原氏の話じゃ時代が違いすぎるし……再び座礁・゚・(ノД`;)・゚・

ところで先日の戯言に、和気王の事件の時、道鏡禅師小僧都でしかない云々という意味の事を書きましたが、これ、実は間違いです(^^ゞ
天平宝字八年の変(恵美押勝の変)の後、大臣禅師という位をもらったりしております。
「出家の天皇がいるんだから、出家の大臣がいたって良いのよ」という、女帝の一存だったりします。

それにしてもこの時の太政官、右大臣が藤原豊成、大納言が藤原永手、中納言は白壁王藤原真楯、参議にも矢鱈に濃~い面々が連なっております。
女帝がいなけりゃ、やっぱり道鏡禅師にゃ勝ち目はないような……(・.・;)
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