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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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これは東大寺で会った僧兵スタイルの人たち昨日より東大寺ではなく、西大寺関係の記述を『続日本紀』から拾い出しておりました。
これが思いの他、少ないです……(゜゜)

何せ、この寺がいつ建立されたか、このような事からして書かれていません。
注釈に『西大寺資材流記帳』の内容が紹介されていて、それによれば天平宝字八(764)年九月十一日、恵美仲麻呂(正確には恵美押勝ではありません)の謀反が明らかになった時、孝謙太上天皇が乱の平定のために七尺の金銅四天王像を造り、寺の建立を誓願した事より始まるそうです。
う~ん、聖徳太子ですね、まるで( ̄∇ ̄;)

そして翌、天平神護元年には、四天王が完成して伽藍建設が始まりますが、吉備由利四王堂に奉納したという、一切経の奥付の日付は同二年の十月八日になっているので、像の完成をこの頃と見る研究者もいるようです。
いずれにせよ、この頃には四天王を安置する堂が完成していたようで、十二月十二日に女帝の行幸が見えています。
この四天王像、現在も江戸時代再建の四王堂におられます……と言いたいところですが、

まがつみは いまのうつつに ありこせど ふみしほとけの ゆくへしらずも

會津八一が詠んだとおり、邪鬼だけが奈良時代の物で、踏みつける四天王は何れも平安時代以降に作り直された像だと考えられています。

造西大寺司の人事が見えるのは、神護景雲元年二月、長官には佐伯今毛人、次官には大伴伯麻呂が任命されています。
この後の記述も大部分が司の人事の事で、具体的な建設の様子はほぼ分かりません。

しかし、伽藍配置は宝亀十一(780)年に記された『資材流記帳』に基づいて元禄時代に描かれた図などもあり、おおよその所は想定できるようです。
『続日本紀』にも『法院』・『嶋院』・『兜率天堂』・『東塔』・『西塔』などが見えています。
『法院』では曲水の宴を行っているので池が有り、『嶋院』と同じと考える事も出来ますし、対になった院とも考えられそうです。
『兜率天堂』は別名『弥勒堂』、三十数体にも及ぶ仏像が安置されていたそうです。

これらの堂の内でもっとも有名なエピソードを持つのは東西の塔ですが、これについてはまた、記事を改めまして……σ(^◇^;)
いずれにしてもこの巨大伽藍、女帝の存命中には完成せず、宝亀年間をほぼ費やして形を成していったようです。
僧寺の西大寺の対として尼寺の西隆寺(現在のサンワシティビルや奈良ファミリー一帯にありました)も、同時並行で建立されたのですが、こちらの記事は更に少ないです。

ところで、造西大寺次官に任命された大伴宿禰伯麻呂という御仁、チョッと面白そうな予感(~_~)
確か氏長の家持と同年代なのに、出世のスピードはこちらの方が速いという、大伴氏内でも変り種かもしれませんし、単に機を見るに敏な人なのかもしれません。
では次は、この御仁のプロフィールでも拾ってみますか……で、今回の主人公は誰よ、藤原雄田麻呂?蔵下麻呂?種継?( ・◇・)?(・◇・ )?
 
何とな~~く、BGMに御神楽の朗詠を聞いております……『阿知女作法』は癖になるかも( ̄Ω ̄)
 
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