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衣装を着けての画像は、本番のお楽しみm(__)m
そして本日の戯言は、この画像とは全く関係ありません。
性懲りもなく、西大寺の続き……
この大寺には例に漏れず、東西の二塔があり、それぞれの基壇が残されています。
『続日本紀』に最初に記事が出て来るのは東塔の方で、礎石の事が記されています。
神護景雲四年(770年・十月に宝亀元年に改元)二月二十三日 西大寺の東塔の心礎を破却す
とにかく人手を増やして九日がかりで引いて来て、加工して基壇に据えたものの、巫女や覡が石が祟っていると言い出す始末……(--〆)
そこで芝を積み焼いて、酒を三十斗以上もかけて砕いて道のバラスにしたところ、これが高野女帝に祟って不予となったというから、どこまでも厄介な石です。
仕方無しに、これを拾い集めて人や馬が踏まないように、境内の清浄なところに集めたと結んでいます。
この場所、確か、現在の門前にある『石落神社』だったと思います。
財政難の折、太政官としては、女帝の希望した『八角形の七重塔』(技術的にもかなり困難?)のプランを、通常の『四角形の五重塔』に変更する事に致しました。
これは発掘によって確認されているそうで、現在復元されている東西塔の基壇の下に、八角形の基壇が見つかっているようです。
この八角形七重塔というプランは『日本霊異記』下巻に見えていまして、左大臣の藤原永手がプラン変更を行ったために地獄に落とされていると息子に訴えて、供養を頼んだ云々……という事になったのだとか。
永手の息子で仏門に入ったのって、誰なんだn(ー_ー?)?
西塔の記事としては、宝亀三年四月二十八日、“西大寺の西塔に震(かみとき)す”と見えます。
落雷で焼けたのでしょうか、この事を占いますと、近江国滋賀郡の小野社の木を切って塔を造ったための祟りだと出たので、社に封として二戸を追加したとあります。
この西塔、宝亀七年七月十九日にも落雷がありました。
何で、どちらの塔も、わざわざ正史の『続日本紀』に祟りましたなんて、書かれているのやら……
巫覡が祟りと言い出し、更に卜(うらな)うと表現されているのですから、神祇官が卜をたてているのでしょう。
何となく、神仏ではない存在の意図を考えてしまうのですが……σ(^◇^;)
造西大寺司には、大迷惑な話ですねぇ……(ーー;)
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