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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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大和西大寺駅から見た虹例によって、設定を見直すのとツジツマを合わせるために、昔書いた話を読み返しております。
すると、例外なく歴史上の有名人が変人として出て来たりします。

うちの設定では極めて良識人の右大弁藤原百川が、時の南家一の切れ者の中納言縄麻呂と、太政官の中庭で話をしておりました。
かなりややこしい上に、極めて危ない話です……
途中にこのような会話がありまして、書いた本人が、つい失笑してしまいました(^_^;)
それにしても、この二人、かなり緊張感に欠けた所があります?( ・◇・)?(・◇・ )?




 「この騒ぎが良い隠れ蓑となっておるが、まさか御身ら、大学頭(だいがくのかみ)を突ついてわざと揉め事を起こしたのではあるまいな」私は悪い癖で、つい勘繰る。
 大学頭の淡海三船(おうみのみふね)
)という男は、つまらない所で頭が固くて融通が利かないと、十人中十人までが認めるほどの偏屈者だ。それでも先の吉備右大臣にも負けじと劣らぬ有識者として名が通り、そちらの方面では賞賛する者も多い。
「そこまで私は悪賢うはない、大学頭が勝手に騒ぎ出してくれただけだ。さて、御身も忙しい身であられようが、山部親王(やまべのみこ)が勝手に突出した行動をとられぬよう、監視していてくれぬか。まったくあの御仁は、自ら動くのが御好きなゆえに、こちらが合わせるのに苦労する」




ここでの一人称語りをしているのが百川で、この時は四十歳くらいでしたか。
百川と縄麻呂にとってのいじられキャラは、淡海三船ではなく山部親王です。
藤氏の面々もかなり口が悪いですが、一番悪いのは皇家の御方々です。
白壁天皇にいたっては言いたい放題、やりたい放題、どんだけ自分が好きなの……ちゅう状況です(-_-;)
大体において一番のいじられキャラは主人公なのですが、そういう御仁は脇役になっても、作者にとっては存分ないじられキャラです( ̄▽ ̄)。o0○
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この抜け殻はオニヤンマのヤゴ?……奈良国立博物館にて佐伯宿禰今毛人という人は、佐伯氏で唯一、参議・公卿の地位にまで上った人です。
確か東宮坊から造甲賀宮司に出向になって、平城還都の後には造東大寺司の次官になって五位に昇格し、そこからコンスタンスな出世街道にのぼったかのように思えるのですが、とんでもない……かなり上位者に振り回された官界生活を送った人です。

大和少掾(しょうじょう)を兼任のまま、造東大寺次官に就任したのは三十歳の頃ですから、天平勝宝四年の大仏開眼の年には三十四歳くらいになるはずです。
この後、摂津大夫を経て、またもや造東大寺司に戻って来た天平宝字七年には長官に任命されました。
それが45歳の時ですから、今も昔も一番仕事に載っていた年代でしょう。
ところがこの翌年、大宰府管内に左遷……
『続日本紀』にはストレートには書かれていないのですが、宝亀八年の藤原良継の薨伝を見てみますと、この時に良継、石上宅嗣大伴家持と伴に大師(藤原恵美押勝)の暗殺を謀った云々と見えていて、これを密告された揚句の流罪同然の左遷だったようです。

この後、政界のトップが替わると筑紫に滞在したまま、肥前守大宰大弐になって実力を発揮し、都に戻った神護景雲元年には、称徳女帝によって造西大寺司の長官に抜擢されました。
女帝崩御の後、光仁天皇の御代でも、正四位下にまで上って官界の上部にいたのですが、宝亀六年に何やら不可解の事件が起きています。
これが物議をかもしまくる第16次遣唐使の節刀大使への任命です。

最初は節刀を賜って宝亀七年の初夏に難波を出向し、肥前国松浦で風待ちに入ったようですが、数ヶ月たった秋になっても出向の機会に恵まれず、時季は冬となって大使は都に戻り節刀を返上してしまいます。
しかし副使以下は大宰府に留まって、更に時期を待っている状態です。
明けて宝亀八年、四月に再び遣唐大使として天皇に辞見したのですが、ここで病気と言い出して留まろうとし、揚句に輿に乗って難波まで行く羽目になり、それでもまだ病気だと訴えていたようです……
光仁天皇がここで諦めたかというと……あくまでも大使は佐伯今毛人だとして、副使の小野石根に大使代行を命じて、四つの船は出港して行きました。

意地でもこの人を唐に送り出したい陣営と、それを阻もうとする陣営が、裏というよりも上に存在していそうな気がするのですが、どうも良く分からない事件です。
次の動きは宝亀十年九月、筑紫で少し大人しくしていろと、またも大宰大弐に任命されます。
思うにこの頃、既に天皇から皇太子に実権は移っているようで、翌年の天応元年には正四位上に叙位されている事から考えても、先の遣唐使の騒ぎに裏には、絶対に山部皇太子が関わっていると見ても不思議ではありません。


皇太子――即位した桓武天皇は今毛人を評価していたようで、延暦元年には都に呼び戻して従三位左大弁兼大和守に任命し、造長岡宮使の一人にも抜擢し、その功労で参議にまで取り立てて正三位の位まで与えます。
しかし、掌を返したように、またもや大宰府に下れと命じられるのは延暦五年の四月です。
それまで多々兼任していた役職は、参議以外は全て解任されて、大宰帥としての赴任です。
この前年の九月に起きた、中納言暗殺に続く皇太子更迭事件との関わりを誰もが思うところです。

三年後の延暦八年正月、七十一歳になった今毛人は、これを時期と骸骨を乞い官界を去り、九年の十月に七十二歳で生涯を閉じる事となります。
考えてみると、大仏造営から始まって、様々な造営事業に関わり、有能な実務屋だったために、生涯にわたって天皇の考えに翻弄され続けた人だったのかもしれません。
 
ホソミイトトンボ…明日香村にてはっきり申しまして、座礁中です(T_T)
時代全体が異様な割には、決定打がないと申しますか、かつて書いた話への影響が大きすぎて、逆に重大事が扱えないと言うか、誰も動き出そうとしてくれません。

今少しだけ考え始めた事は、以前にもどこかに書いたと思うのですが、天平宝字年間から宝亀年間にかけて姿を見せる二人の陰陽頭の事です。

一人は、大津宿禰大浦という人物です。
この御仁は天平宝字八年九月、恵美押勝(正しくは恵美仲麻呂)の乱の時に始めて名前が見えます。
この時は大津連で、密告の功によって宿禰の姓と従四位上(正七位上から)という破格の位をもらいます。
そして左兵衛佐(さひょうえのすけ)やら美作守に任命されるのですが、翌天平神護元年八月の和気王(わけのみこ)の謀反未遂事件に連座して、位も宿禰の姓も剥奪されて日向に左遷されます。

この人に代わって現れるのが、紀朝臣益麻呂という人物。
この御仁は大津大浦以上にいわく付きで、元の名前は益人といいました。
紀寺の奴婢だったのですが、父祖は良民だったので地位を戻して欲しいと訴え、庚午年籍までをひっくり返して調べた揚句、限りなくグレーのまま、孝謙太上天皇の一言で良民に戻されたという経歴を持っています。
この時に良民となった奴婢は七十六人にも上り、その内の十二人には紀朝臣の氏姓までが与えられるので、本来の紀朝臣の人々からすれば、文句の一つもつけたくなります。

大津大浦が失脚した二年後の八月、名前を益麻呂に改めたこの御仁は、陰陽員外助から陰陽頭に就任し、称徳女帝が亡くなる寸前には従四位下にまで上るのですが、その翌年の宝亀二年七月にその地位を終われるようです。
ここで新たな陰陽頭に就任するのが大津連大浦で、どうやら光仁天皇の即位に伴う恩赦で都に戻り、元の位に復されたようですが、宿禰の姓はもらえずに連姓で記されています。

この後の紀益麻呂の消息はというと、宝亀四年七月
従四位下紀益人を免(ゆる)して庶人とし、姓を田後部と賜ふ。また、去ぬる宝字八年に放免せし紀寺の賤七十五人は、旧に依りて寺の奴婢とす。但し益人一身は特に良人に従はしむ
と詔に見えています。
庶人となるのだから、当然ながら官位は没収、都の外に放逐されている可能性もあるでしょう。

そして大津大浦はといえば、宝亀六年五月に没します。
(にわか)に安芸守を兼ねて、官に卒しぬ
俄が卒にかかるのなら、現職のままで突然死という事になりますが、何でわざわざ、このような表現を取っているのか……
ちなみに大浦の没した約半月前、井上内親王他戸親王が伴に亡くなっています。

いずれにしてもこの二人、新たな政権下では邪魔だったのかもしれません。
 
鴉の目白押しって程でもないけれど……ここ何日か、天平宝字~宝亀年間の大伴氏佐伯氏の、主だった人のプロフィールを『続日本紀』で拾っておりました。
この二氏に限った事ではないのですが、天平宝字元年(正確には天平勝宝九歳・橘奈良麻呂の変)と八年の乱(恵美押勝の乱)で、一族内でもかなり明暗が分かれるようです。

大伴氏で橘奈良麻呂に連座した人は約五名、比較的プロフィールの分かる人で可能性がありそうな人も若干名おります。
前者は、古慈斐、古麻呂、駿河麻呂、兄人、池主
後者は、不破麻呂、伯麻呂といったところでしょうか。

この内で宝亀年間まで生き延びて復位を果たし、公卿にまで這い上がったツワモノもいたりします。
それが古慈斐、駿河麻呂、伯麻呂の三人です。
不破麻呂も長生きはしたようですが、卒去の記事が見えないし、極官が大蔵大輔の正五位上止まりだったようです。

伯麻呂が出世した決定打は、造西大寺次官に任命された事でしょう。
この人は家持と同世代(孝謙・称徳天皇とも同じ年かも)ですが、昇進の仕方を並べてみるとかなり面白いです。
家持という人は女帝にはかなり嫌われていて、光仁天皇にもあまり相手にされず、奇妙な事に桓武天皇からは(最初は)好かれている様子が、経歴から何となく分かります。
一方の伯麻呂は、女帝からも光仁天皇からも好意を持たれていたようで、延暦元年に亡くなった時には従三位にまで上っておりました。

もう一人の三位――といっても、亡くなった後の贈位です――の駿河麻呂はかなり大した御仁です。
恐らくは六十を過ぎてから、「陸奥を任せられるのは汝しかおらぬ!」といわんばかりにおだて上げられ(?)、按察使陸奥守、揚句に鎮守将軍にまで任命されて、しっかり武功を立てて帰って来ました。
古慈斐の息子の弟麻呂も、同じような経歴ですね……
それに比べると益立はバリバリの鎮守府派、若い頃はずっと、陸奥にいたのではないかと思われます。

こう見てみると、この家の人たちは、中央にいるよりも外に行って出世する人が多いのかもしれません。
古麻呂遣唐副使に選ばれていなかったら、もっと平凡な経歴だったでしょうし……しかし、この人、家持と並ぶ二大トラブルメーカーだな(ーー;)
こういうタイプが上司や同僚だったら、周囲は滅茶苦茶、迷惑するだろうなぁ……(--〆)
春日大社の御巫さん本日の意味無しの画像は、春日大社の講座で社伝神楽を奉納してくださいました御巫(みかんこ)さんです。

さて、今日も備忘録的な戯言ででも……
先日の戯言で、和気王の謀反が発覚した頃、新田部親王家は全滅に等しい云々と書きましたが、確かに親王の息子の孫王らは、既に故人かもしれませんが、その次の世代に伏兵(?)がいる事を忘れておりました。
それが誰かと申しますと、不破内親王の子供達です。
その父親は塩焼王ですから、新田部親王家の三世王です。

神護景雲三年五月に起きた巫蟲事件に伴って、氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)という名前が出てきます。
この御仁を皇位に就けようと、内親王や女官らが事件を起こした事が発覚し、内親王は都の外に追放、息子は土佐国に流されます。

この事件によって母親の不破内親王が、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)などという変な名前に変えられているので、息子もやはり流罪になるに当たって、お間抜けな名前に変わっている可能性を指摘されていまして、本名は別にあるのだろうと考えられています。

そして次に出て来るのは、延暦元年閏正月、氷上川継(ひかみのかわつぐ)がやはり謀反を図ったという罪状で伊豆国三嶋に流罪になります。
この三嶋、伊豆国府の有った場所(静岡県三島市)ではなさそうで、現在の東京都大島郡、つまり伊豆諸島のどこかだろうと言われています。
確かに地元の伝承には、源頼朝や弘法大師はあちこちに出没してますが、都から流されて来た皇子の類は記憶にありません……って、私が知らないだけかσ(^◇^;)郷土史に疎いヤツ(ーー;)

しかし、氷上川継の変という事件も、事前にほぼ計画が漏れていたようで、完全に手の上で踊らされているというか、かなりお粗末な書かれ方をしています。

そして前述の志計志麻呂と川継は、同一人物かもしれないし兄弟かもしれないと、研究者の意見も分かれているところです。
それにしても、どちらの事件も主導権を握っているのは、息子よりも母親と思えるのは何故(?_?)

そういえば、この事件の後、不破内親王は娘と伴に淡路島に流されていますが、ここって、この当時の皇族の流刑地なんですかねぇ……


ところで 佐野美術館の秋の特別展は『小村雪岱』ですか。
まあ、この人の美術館は京都にあるから、無理して行かなくても良いけど、この辺で一度、実家の方に帰ろうかな……で、函南にも仏像見に行く?(゚_。)?(。_゚)?
富士川のサービスエリアのプラネタリウムも行きたい、メガスターだよ!!

分かっちゃいないのはナタも同じ、毎日、シマコを追い掛け回して怒らせてます。シマコ、マジ切れ寸前

とりあえず、書き上がりましたのでインターバル……
今回も、とに~かく長い……(゜_゜)650枚くらいある
そしていつもの事ながら、悪党だらけです。
おまけに皇族密度が矢鱈に高い?

時に、お兄ちゃん、こんなに食えない人だったっけ……ってのは、湯原王なんですね。
ベスト(ワースト?)3に入る程度に悪党ですが、多分、本人は自覚無いと思いますσ(^◇^;)
今回の話の時点での、この御仁は四十代前半で、皇后宮大夫。
この人のプロフィールは九割九分でっち上げですってのは、ここでも何回か書いております。

式部省からスタートして、宮内省に移り、皇后宮大夫になってからが結構長い。
皇后宮職が紫微中台になってからは宮内卿、確か極官は右大弁だったかな……勢いで、こういう事になっているみたいなのですが、かなり滅茶苦茶な気がしないでも(-_-;)

いずれにしても、ここの兄弟の下二人は、こちらが無理しなくても悪党になってくれるから、ある意味扱いやすいかもしれませんわε-( ̄ヘ ̄)┌




そういえば今日は三嶋大社の『流鏑馬』だったんだよなぁ……来年は見に行けるかなぁ?
ってのか、関西に住んでるなら『五山送り火』とか言えって(ーー;)

そして、また診断メーカーで遊んでみました。
うめぞーあなたの二つ名は『潔白の覇者』です。 http://shindanmaker.com/260865
『潔白の覇者』って何?
かなり以前より常々思うのは、橘諸兄という人は案外、過小評価されているのではないかという事です。
チョイト奈良時代辺りに詳しい人の言い分ですと、天平九年の豌豆瘡流行で藤氏四家の主を始めとした太政官構成員の多くが病没した後、棚から牡丹餅で大納言から右大臣に推挙された人。
異父妹の光明子皇后に持ち上げてもらって出世した人。
この言い分、必ずしも間違いではないんですけどね……ε-( ̄ヘ ̄)┌

この御仁が葛城王と名乗った時代を見てみますと……
四世王として無位から従五位下に叙位されたのが27歳の時、特に早い訳でもなく極端に遅い訳でもなく、というところでしょう。
従四位下をもらったのは41歳、左大弁になったのが46歳でこの時は既に正四位下です。
そして参議に任命されたのは48歳、翌年には従三位にまで上っていますから、かなりのエリートコースを歩んでいる事は確かです。

興福寺南円堂前『右近の橘』天平八年十一月、母親が賜った橘宿禰の姓を弟と共に引き継いだ時は53歳でした。
そして翌九年の八月、壊滅的となった太政官再編に当たって大納言に抜擢、十年の正月には正三位右大臣に就任します。

さて、私の書く話の中にもこの御仁は度々、登場してくれます。
総体的な評価は、
「天皇の片腕として穏健派と言われながらも、時には容赦なく政敵を追い落として断罪して来た老獪な為政者」 by白壁王
ただ今、この御仁は浅慮な愚息の行いに苦慮しつつも、部下の白壁王に無理難題を要求しております。
この要求を白壁王の息子達は、後々まで曲解して、既に故人となった諸兄の事を仇のように見る羽目になります。

諸兄の愚息といえば、かの橘奈良麻呂……うちでのこの御仁のキャラクターは、割合にセオリー通り?(゚_。)?(。_゚)?
山部王が吉備泉を「いつかぶん殴る!!」と思っているのに対し、白壁王は橘奈良麻呂を「遣唐副使にでも任命して、諸手をふって送り出してやる……」と根に持っていたりしますσ(^◇^;)
それなのに、白壁王は大臣(諸兄)の事を決して嫌っていないんですね……何故なんだ(・・?

いずれにしても、現在の白壁王(37歳)には、決して越えられない大きな壁のような存在となっています。
何せ天平十七年現在、橘宿禰諸兄は62歳の従一位左大臣、官界の頂点に君臨して八年になろうとしていますから。
そういう訳で、この御仁は紛う事なき大物政治家の一人です。
ここまで書いた分を何となく読み直していて、
「どうして御身は、そうも自らを過小評価しておるのか」
とか何とか、藤原仲麻呂が白壁王に言っておりました。
これって、白壁王自身に限った事じゃなくて、現代の古代史の先生らにも言えるんじゃないかと、私は常日頃思っております。
いや、積極的に評価できない要因があるんですよね、研究者には……( -」)φ
この御仁が何もしていなかったような人ではないと、結果論からは言えても、証拠が何所にも無いんですからねぇ……

俺はナタ今更ですが、私のような見てきたような嘘八百で勝負した戯けには、こういう人がかなり重宝します。
白壁王が言うには、この家(志貴親王家)の兄弟は諸王らの内では厚顔無恥だと囁かれている云々……もしかして、これも過小評価の一環かな?(゚_。)?(。_゚)?

現在書いている話では、官界に二大派閥が存在しておりまして、そいつが皇后派と大臣派です。
皇后は藤原光明子、大臣は橘諸兄ですが、志貴親王家の連中がどちらに属しているかと申しますと、概ね前者です。
諸王から見れば、皇家出身でない皇后に孫王が媚びているとしか思えないんでしょう(゜_゜)

この家の四人兄弟については、ほぼ史料はありませんので九割九分がハッタリです。
病身の長兄はそろそろ官界引退を考え、次兄は中央政権が嫌で地方官ばかりを歴任、この二人は白壁王から見れば父親の年齢です。

一番の現役で活躍しているのはすぐ上の兄、湯原王です。
この人が皇后宮大夫なんてやってるのだから、臣下出身の皇后を快く思っていない諸王らには、これほど恥知らずな輩もいないのかも……ε-( ̄ヘ ̄)┌

実際の湯原王という人のプロフィールは殆ど分かりません。
生没年も不明ですし、母親が誰なのかも分かりませんので、同母の兄弟姉妹がいるかも分からないし、妃が誰で何人の子供がいたかも不明です。
壱志濃王が第二子で、尾張女王という娘がいた程度は不確かながら史料に見えまして、湯原親王という記述が見える事から白壁王の即位時までは存命だった可能性も指摘されています。
志貴親王の皇子として名前が出て来るのは万葉集のみで、続日本紀には叙位の記録どころか名前も出てきませんので、故意に削ったのではとすら思えてきます。

そのような訳で、私の話に出て来るこの御仁も、名前だけを借りたようなオリジナルキャラクターに近い存在といえるでしょうσ(^◇^;)
そして確実に言えるのは……万葉集に見える歌からの印象は、全くの無視、目指せ悪党路線?(゚_。)?(。_゚)?
あっちでもこっちでも再三ほざいておりますが、私は天平十六年の閏正月に亡くなった安積(あさか)親王は病没だと思っております。
十二年の聖武天皇の東国行幸から恭仁京の造営、更に難波遷都までを辿って行き、ここで親王の薨去という事件を経て、紫香楽行幸が行われる理由が何となく分かるような気がしてきます。

奈良の八重桜聖武天皇という方は天平元年に生まれて間もない皇太子を亡くしています。
その菩提を弔うために『金鍾山房』という寺を建立します。
これが後に総国分寺の『東大寺』になる事は、あまりに有名ですが。

十七歳になっていたただ一人の男子である安積親王が亡くなった時、近江国の紫香楽では『甲賀寺』の建立が始まっていました。
これは既に予定された行動ですので、先の皇太子の薨去の時とは違いますが、父天皇にとっては甲賀寺が親王の菩提を弔う地のように思え始めたのではないのか、そのため、遷都を決めた難波を太上天皇と左大臣に預けて紫香楽村に赴いたのかもしれません。

ここ何日か『続日本紀』と以前に作った資料を眺めつつ、こんな方向で話を考えておりました。
こう思い始めますと、誰が言い出したのか知りませんが、その辺の小説などで興味本位(もしくは根拠不明)に取り上げられる暗殺説というのが、かなり陳腐で不愉快に思えて来たりします。

大体だ、頓宮で病気になって恭仁宮に戻って亡くなったのなら、どうして頓宮での行動を問題にしないの?
平城なり恭仁なりに引き返すとしたら、ここに付き従うのは親王付きの舎人だの衛士だのにならないの??
こいつらが誰かの命でも受けてたって展開も考えられるんだよな……
確かこの時に内舎人だった大伴宿禰某、親王付きとして出向していた可能性が大きい。
暗殺説取りたいのなら、この人に何かさせる気ある???
私ゃ、毛頭ないわな……だってこの説の否定派だものε-( ̄ヘ ̄)┌

ちなみに白壁王は、相変わらずこの内舎人の名前が思い出せなくてフラストレーション気味です(-_-)
石上神宮の小国鶏この画像は特に意味もなく、石上神宮にいる矮鶏たちです。
これは今年の一月ごろに写した写真ですが、気のせいか、行くたびに毛色というか羽色が変化しているような……世代交代が早いの?単に群れのテリトリーが移動しているの??
以前はもっと白系のやつらが多かったような気がするんですが、単なる記憶違いだと良いのですけどね。

ところで、先より読み直している話で脱線しております。
何をって、登場人物の性格がかなり奇をてらい過ぎてるってのか、変に逸脱しているってのか(・_・;)

自分で書いておきながら、どうしてこういうキャラクターになってるんだと……最も打っ飛びまくっているのは早良親王だったりします。



「先の女帝の時代には干され続け、父上にも散々に牽制されて来たあの老体をわざわざ取り立てたのは兄上だ。父上が病床に付した頃には参議にも任命し、中納言にまでしたというに、あれがどれだけの働きをしたという」

「やはり天皇は、大伴卿を懐柔しようとされておられたと言われるのですか」

「そうでなければ、私が春宮大夫の解任を願うた時に反対はされなんだろう。私はそのような甘い顔は無駄だと言うた。老体が汝の父上と親交を持っていた頃を知っておられるゆえ、兄上もどこか甘い考えを持っておられる。だが、どうして事があるごとに、あの名前が出て来る。寺にいた頃から私の耳には、あれの名前は文人などではのうて、危険人物として囁かれていた。もっとも、治部省関係の役人の言葉ゆえに 、それ程の信憑性もない様に思えたが。今、こうして太政官や中務省に関わりを持って、それが真実だと次第に分かって来た」




甥を相手に言いたい事を言いまくっております。
この人、誰よりもタカ派だわ。
東大寺時代、さぞかし良弁僧正と馬が合ったと思われますし、僧正の遷化後は次期別当の座を巡っての派閥争いの真っ只中にいたと推測されます……ってのか、それらしき事、随所で言っていたりσ(^◇^;)

それにしても、どの話の中でも大伴家持って、録でもない書かれ方してるわ……
若い時は左大臣の犬みたいに白壁王に付きまとってたり、その後も融通の利かない古臭い親父だとか山部王に言われてるし、挙句の果てが危険人物扱い((+_+))
もしかしてこの御仁も、一種のいじられキャラなのでしょうか(?_?)
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