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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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大和高田市の文化財講座で、県内の近代建築に関する話を聞いて参りました。
大阪には中之島公会堂綿業会館など、京都にも同志社大学旧京都府庁のような有名な近代建築がありますが、奈良も実はかなり負けておりません。

この旧JR奈良駅の駅舎などは特に有名です。
昭和9年に建てられました。

これは和洋折衷の明治建築として名高い、旧奈良県物産陳列所の建物です。

こちらは昭和元年に建てられた旧六十八銀行奈良支店、現在は南都銀行の本店になっています。

同じく六十八銀行八木支店、現在では結婚式場として使われています。

明治維新以降、お雇い外国人のジョサイア・コンドルなどの建築家が、日本人の弟子を育てて、洋風や和洋折衷の建物を数々建築しています。
ところで日本の大工さんという方々には、大変器用で有能な方が多いのだそうです。
例えば、大工だった吉村松太郎は、見よう見まねで近代建築の生駒宝山寺獅子閣を造ったとの事。
こういう土台の元に、コンドルの弟子として育った人も多いとか。
奈良国立博物館を設計した片山東熊や、東京駅の設計を手がけた辰野金吾などがその代表です。

明治から大正に活躍した辰野金吾博士が手がけた建築は、大和高田市にもありました。
高田市民なら大抵知っているのが、現在の近鉄大和高田駅の正面のオークタウンや背後のマンション群の前身です。
ここにはかつて、大日本紡績高田工場がありました。
赤レンガの外壁や高い煙突を持つ重厚な工場群ですが、残念ながら今では全く面影も残っていません。

  さて、大和高田市にも、あまり知られていないながらも、幾つか評価に値すべき建物があります。
旧産業銀行高田支店(その後、南都銀行・現在は森川商店)、旧吉野銀行高田支店(現モリモト電気)などが代表でしょうか。
特筆すべき建物で、設計者が武田五一岩崎平太郎という、昭和5年に完成した個人所有のお屋敷もあります。
しかし、あまり公にはしたくないという持ち主の意向だそうで、現在は公開はされていません。

武田五一は関西建築界の父といわれた人で、京都府立図書館京都市役所などを始として、大阪市営地下鉄の心斎橋駅など、御堂筋線の諸駅の設計でも有名です。
現在、NHKの朝の連ドラに出て来ている建築家の先生は、この方がモデルだそうですが、別に大声でいつも怒るような事はなかったそうです。

一方、岩崎平太郎は役人出身の建築家だそうで、奈良県内に多くの建物を残しています。
大和高田市のモリモト電気は、この方の設計です。
橿原市の畝傍高校の校舎や、奈良市の旧南都銀行手貝支店(現在は観光案内所)もそうです。

 これら以外にも登録文化財として認定されている建物は多数あります。
ところが登録文化財となりますと、持ち主や非営利団体などが申請して認可されれば登録されます。
大多数が個人の持ち物で、補助金も殆ど出ないので、所有者が代替わりなどで取り壊すと決めてしまえば、禁止する手立てもないという事で、最近でも幾つかの建築物が既に無くなってしまっているそうです。
これらの建物を保存したり活用したりするには、もっと市民に存在を知ってもらう必要があります。
壊して立て直すのも、一時的な地元活性には繋がるでしょうが、ある物を活用するのも、これからの時代に必要な事なのでしょう。
上代、中世ほどに古くなくても、近現代の魅力的な文化財はかなり身近にある、この事をもっとアピールして行きたいものです。
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『奈良ひとまち大学』でにゃら町(奈良町)の散策をした後、東大寺の金鍾ホールでの講演会に行って参りました。
にゃら町の事は、いずれゆっくりと散策して、何か記事を上げたいと思っております。
もっと色々、面白い物が探せそうなので(^_^)v
ちなみに画像は、マルシェ会場にいたせんと君と観光客の妙齢美人。
女性の顔が映らないようにと写真を撮ったのですが、チョッとこちらを向いてしまいました……(゜.゜)

どうでも良いけど、生せんと君さて、東大寺での講演会は、三年計画での法華堂の須弥壇修復に伴う報告の一環でして、今回は修復の経過を編集した画像で見せてくれた後、本尊の不空羂索観音像の宝冠の非破壊調査に関する報告が行われました。
非破壊検査と申しまして、主に玉類がメインになるのですが、この殆どはガラスです。
そしてガラス玉の殆どは鉛ガラスだそうです。
ガラス以外では、硬玉、瑪瑙、水晶、琥珀、真珠などが使われ、それを繋いでいるのは銀製の針金で、前の部分につけられた化仏や金具なども銀製鍍金(アマルガム法による)です。

飛鳥池工房での出土品などにも見るように、律令期には官営工房でガラス球程度の物は量産されていたようです。
日本の古代のガラスと言いますと、ペルシア・ローマ系のソーダガラスと、中国系の鉛ガラスに分かれると思いましたが、奈良時代くらいの製品は、輸入品でない限りは鉛ガラスのはずですから、宝冠の玉が鉛ガラスである事は、至極当たり前に思えます。
そうしますと、どうしてわずかながらソーダガラスが含まれるかが、問題となってきます。

これは伝世品と考えるのが妥当なのかもしれません。
ソーダガラスが現れるのは主に古墳時代、この時代の物と考えられる玉類として、硬玉の勾玉と水晶の切子玉が宝冠に使われています。
報告者の先生方は特に示唆されていなかったのですが、東大寺(というよりも金鍾寺)建立よりも以前、平城宮を建設するに当たって、あの辺りの前期古墳を幾つか削平していますから、その主体部から出土した玉類がどこかに保管されていても、全く不思議ではありません。
この可能性は随分以前から言われていまして、決して斬新でも何でもないのですが、今回の調査で科学的に素材や成分が分かった事で、更に可能性が強くなったのかもしれません。
誰もこれを言わなかったのは、美術史と科学の専門の先生だったためでしょうか?
考古屋でもいたら、絶対に言いそうな気が……σ(^◇^;)

ところで下げられた勾玉の内に一つだけ、水色のガラス製(1/3くらい欠けてます)の物があるのですが、これはどちらのガラスだったのかな……ちゃんと聞いていなかった(~_~;)
ところでどうして、ガラスに鉛だのソーダ(炭酸ナトリウム)なんぞが混じるかと申しますと、珪砂(石英砂)の融点を下げるための触媒なのだそうです。
どうも、こういう理系の知識に疎くていけません(・.・;)
 
法華堂や諸尊の修復はこの後、来年の春まで続き、初夏には再び御堂に御本尊を始めとした仏様が戻って、修復完了の法要の後に拝観が再開される予定との事でした。
奈良ひとまち大学』という催しに参加し始めて一年半というところで、内容を報告させて頂くのも久々です。
参加したい授業は数々あれど、予定が合わなかったり、人気があって抽選に漏れてしまったりと、多少残念な事はあっても、次はどんな企画の授業が開かれるのかと、メールを待つのも楽しいものです。

奈良町の南端、静かなたたずまいの御寺です。今回の授業は『静かな古寺の美しすぎる仏像』というタイトルで、奈良市西紀寺町の璉珹寺(れんじょうじ)で行われました。
私はこちらの御寺に伺わせてもらうのは四回目ですが、参加者の方の殆どが始めてという、やや秘寺(?)というべき場所のようです。
しかし仏像が好きな方ならば、女人成仏を願って造られた女性の裸形の阿弥陀様の事は、聞いた事があるかもしれません。
そのとても御美しい仏様を本尊とするのが、この璉珹寺で、四季折々に花の咲く小さな古刹です。
しかしこちらの御本尊、何年か前までは50年に一度、身に着けられている袴の御召し替えの時しか開帳しないという、秘仏中の秘仏だったそうです。
最近になってようやく毎年五月に御開帳となりましたので、お目にかかった事のない方は是非とも足をお運び下さい、『崇道天皇社』の少し南ですから(^_^)v

こぶりながら端正なお堂です……右端のハンガーは気にせずにσ(^◇^;)今日は御住職の特別の御計らいで、超美形の阿弥陀様(そう言われなければ観音様かと思ってしまうような立像です)を拝観させて頂き、御寺の歴史を文化財保存委員の先生に解説頂き、更には最近の御寺での多彩で粋な催しなどについても御住職から伺いました。

現在の寺の名は『璉珹寺』ですが、かつては紀氏の氏寺である『紀寺』が前身であるようです。
そのため、この一帯も紀寺町と呼ばれています。
これらの歴史について私に語らせると、かなりくどくなるので、こいつは割愛……後世の伝承やら人物やらが錯綜して、かなり奇妙な様相を見せているようですから(・.・;)

ともあれお話を伺った後、人が集まり交流する場として、こちらをどのように運営して欲しいかと、短いながらディスカッションも行われました。
庫裏に喫茶コーナーにもなっているオープンスペースがあるので、5のつく日には素敵な会をとか、夏の夜には蚊帳を吊ってささやかなパーティーをなんて案も飛び出して、最後に盛り上がりました(*^。^*)

実はこちらの御住職、女性でして、とても気さくで楽しい方です。
これまでも協力してくださる方々と手造りで、地蔵盆やお月見の会、ファッションショーなども企画されて来たそうです。
そしてこれからも、御住職の人柄にひかれて、いろいろなアイデアを持った人たちが集う場所として続いて行くのではないかと思えます。
普段は静かな古寺が、時には異色の賑わいを見せるのも、なかなか現代的で良いかもしれません。

本当にこのお寺は観光ずれしていなくて良いですよ。
五月の御本尊開帳の時には、オオヤマレンゲやマツリカの花も咲きますので、そちらもお勧めです。
 
丸山西遺跡の平坦地東大寺学講座第二期第四講は、栄原永遠男先生の『正倉院文書から見た東大寺-中山寺と上山寺-』でした。
聴講証には『正倉院から見た東大寺』とありまして、今回は正倉院の成立に関する話なのかなと思っておりましたら、実は正倉院文書……こりゃ、先生、絶対にスイッチ入りまくるわ( ̄▽ ̄)。o0○と、予想通りでした。

相変わらず不勉強の私は、『中山寺』も『上山寺』も全く存在を知りませんで、中と上があるのなら、下もあるんじゃないのなどと戯けながら聞いていてはいけません、とにかく文書はややこしくて、説明について行くだけでやっとです。
ともあれ『中山寺』は『続日本紀』に塔と歩廊が全焼したという記事以外は、正倉院文書にしか名前が出てきませんし、『上山寺』は正倉院文書にのみ出てきますが、何れも東大寺の境内にあった寺の事だと考えられます。
『中山寺』の初出として、天平勝宝元年の十一月、中宮大輔安宿王造東大寺司写経所に、中山寺に経典を貸し出してくれという依頼をした文書に見えます。
これによって『中山寺』は中宮(藤原宮子)に関係する寺だという事が分かります。
そして中宮(太皇太后)の崩御の後の写経事業を造東大寺司が、孝謙女帝皇太后(藤原光明子)の命も受けて行っている事からも、『中山寺』と『東大寺』は切り離せない存在だと分かります。

丸山西の平坦地から大仏殿を見る天平宝字六年四月、造東大寺司判官、上毛野真人が、『山堂』と『中山寺』の三つの建物を鑑真和上のための『唐院』に移築しても良いかと、良弁僧都に伺いを立てていますが何れも拒否されます。
ことに『山堂』に関しては、太上天皇(孝謙女帝)の意見を伺わねばならないと言っている事から、ここも皇家に関わりが深いと考えられ、『上山寺』にあった堂ではないかと推測できます。

さて、この頃の時勢はと申しますと、太上天皇と大師(藤原仲麻呂)の関係が決裂寸前です。
そして約一月後、太上天皇と淳仁天皇がついに決裂、双方ともなりふり構わぬ露骨な勢力固めに出てきます。
太政官を死守せんとする大師に対し、人事権を持つ太上天皇は造東大寺司を固めにかかります。

天平宝字六年閏十二月より以前、『造上山寺菩薩所』が設置され、『上山寺』の復興が始まったようです。
そして翌年の五月には、ここで大般若経転読をするので、経典を貸して欲しいと道鏡禅師が依頼をし、かの有名な『五月一日経(坤宮官一切経)』から貸し出されます。
更に十二月には、『上山寺悔過所』の名前が文書に見えますので、『上山寺』は女帝派の尽力で一気に復興を遂げているようです。


平坦地にいたフンコロガシ……天平宝字八年になると『吉祥悔過所』という名称も現れ、ここも『上山寺』と同等の関係で法要が行われ、造東大寺司の役人が出向しています。
そしてこの法要のための予算が『上寺』(東大寺)から出ている事も分かります。
時代が少し下がって宝亀四年正月、『下院』から『中山寺』に吉祥悔過法要のために雑物を貸しているとも見られます。

こうしてみて行きますと、『上山寺』『中山寺』『下院』というセットが出来ます。
多分この三つの寺は、階段状に三段に連なって建てられていた可能性があります。

かつて吉川真司先生が、東大寺の丸山地区西斜面の平坦地で、多くの瓦などの遺物を採集し、ここに何らかの建物があった可能性を示唆し、『丸山西遺跡』と名付けています。
現在この場所には三ヶ所の人為的に造られたと見える平坦地が存在していまして、栄原先生はここを『上山寺』以下の三つの寺になる可能性を考えておられるそうです。
とは申せ、まだこの辺りの調査は行われておらず、決定的な事は分からないので、早々に発掘調査を懇願しているとの事。
ここに『上山寺』とでも墨書のある須恵器なりと出てくれば……期待しましょうσ(^◇^;)
二月堂の下に咲いている石榴の花 ここ最近、行進をやたらにサボっているのは、別に書く事がないのではなくて、23時を過ぎると矢鱈に眠くて気力が持たないためです(*_*;
書くネタはいくらでもあるのですが、その時に書かないので、結局どうでも良くなって上げない、この繰り返しですね……これじゃ、備忘録になってやしませんわ。

そういう訳で、この前の日曜日の講演会でも。
東大寺総合文化センターで主催している『東大寺学講座』の第二期、第三講が『東大寺を掘る』というタイトルで、奈良文化財研究所の前所長、田辺征夫氏が講師です。
申し込む前から疑問だったのですが……このタイトルなら、橿考研のテリトリーで、それこそ菅谷所長辺りが講師するんとちゃうんか?
大体、奈文研、この何十年か殆ど東大寺の発掘なんてやってないやん?
まあ、都合が合わないとか、色々事情があるんでしょう?(゚_。)?(。_゚)?

半夏生(カラスビシャク)このテーマになりますと、どうしても避けて通れないのが、『東大寺』となる以前の寺院の存在です。
『続日本紀』には、神亀五年十一月に亡くなった皇太子のために山房を造って九人の僧侶を住まわせたと見えますが、山房の名前は具体的に出てきません。
この山房だろうと推定される『金鍾寺』とか『金鍾山房』、更には『福寿寺』という名前は、正倉院文書などに見えまして、国分寺の別名の『金光明寺』にいたっては件の『東大寺要録』に、『東大寺』の名前の初出はやはり正倉院文書の天平十九年の写経所関係の文書に見えるそうです。
……これだけ聞いていても、既に何が何やら(?_?)

いずれにしても、文書関係の研究はかなり議論が尽くされていて、この後に期待すべきは、埋蔵文化財的な発見だろうというのが、田辺先生の御言葉でした。

ところが、東大寺の境内を発掘できるかと申しますと、大規模にはまず無理です。
今までも防災のためのスプリンクラーの設置などの事前調査で、ごく限られた範囲に細長くトレンチを入れる程度、これの地道な積み重ねです。
これらの調査によって『天地院』跡が八世紀初頭(『要録』では神亀五年の建立)にまでさかのぼれる事も分かり、ここもまた前身寺院の一つかと考えられるようになっています。
確かにこの辺りに行くと、奈良時代くらいの須恵器の破片が結構、表採出来ますしねぇ(゜_゜)

ご存知、大仏様です。最近では、『法華堂(三月堂)』の須弥壇の解体調査もしていますが、創建年代を決定付けるだけの資料は出ていないようです。
あと有名なところでは『丸山西遺跡』の存在でしょうか。
と言っても、ここも表採資料(創建期の瓦もあります)ばかりで、具体的な調査はしていませんし……

いずれにしても、まだまだ途上というところです。
そういえば、少し前にも奈良市の調査で、鎌倉復興期の僧房の一部と思われる遺構も出ていましたっけ。

現在、東大寺では『東塔』の再建を検討しているそうで、まだ地中のレーダー探査の段階だそうですが、更に具体化して発掘調査となれば、何らかの発見はある事かと期待されます。
……となると、あそこの銀杏がいっぱい生る木は大丈夫かなぁ(・.・;)
以上、講演会の内容とは結構、ズレがある事を書き散らしてますσ(^◇^;)
和舞 神主舞三段 眞榊曲一昨年から四月二十九日は、午前中は橿原神宮で『昭和祭』、午後からは春日大社に行き、『いのちと心の講座』で和舞(やまとまい)に関するレクチャーを受けた後に、舞を鑑賞するという日程になっております(^_^)v
そのような訳で、今年もこの日は『国風歌舞』三昧の一日となりました。

和琴を弾く秋田学芸員
今年の講座は『和舞と和琴(やまとごと)-古都、木の音、琴-』とのタイトルで、和琴に焦点を当てて行われました。
講座でも言っておられましたが、一般的に十三弦の箏の音を聞く事は多々あっても、六弦の和琴の音を聞く機会は殆どなく、私も昔々に『春日若宮おん祭』に初めて行き、和舞や東遊(あずまあそび)で楽人の方々が左右から琴を支えて弾いている姿を見た時より以前には、恐らく聞いた事がなかったと思います。
三嶋大社の御神楽では確か、使っていなかったような……昨年に見た時、どうだったっけ(゜_゜>)

今更ながらに音楽的素養の全くない私には、上古の出土品(縄文時代から見られ、古墳時代には六弦の物が出土しています)の例以外は、ほぼ、初めて聞くような内容でして……σ(^◇^;)

それ以上に感激したのが、琴を膝の上に乗せて演奏するという方法です。
実はこの演奏法、膝ではなく、安座した左足を右膝の上に乗せ、その親指の上に龍手を置く形で支えるのだそうです。
人物埴輪に見る琴弾は、椅子などに座った状況で小さな琴を膝の上に乗せているように表現されているので、この奏法とは違うのかもしれません。

講座の後、御本殿回廊内の林檎の庭と、若宮社での舞いの奉納を拝見する事になります。
そういう訳で、この度も続く( ̄▽ ̄)。o0○
何せ本日は、久々に大阪に出て、『石ふしぎ大発見展』を見て回って、疲れました……(*_*;
かくして早起きができなかったため、蟹満寺関連のシンポジウムではなく、春日大社の記念講座に行って参りました。

しかしですよ、先月の『装束の歴史』も上げてないし、今月の初めの『ちゃんちゃん祭』も上げておりませんね……
そういえば現地説明会も全然、報告しておりませんし、このところサボり気味というか、サボり癖が蔓延しておりますね。

宮崎隆旨氏の講演それはともあれ本日の講座は、昨年度に修復を完了した、春日大社に伝来する『国宝 赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)梅樹に蝶、鶯金物』に関するものです。
ちなみに一昨年には、『竹に雀、虎金物』の赤糸威の大鎧の修復が行われて、昨年にシンポジウムや講演会が行われました。
今年はまた、別の鎧(確か胴丸)の修復が行われる予定だと聞いております。

日本で鎧の存在は、弥生時代からあるのですが、やはり一番保存の類例も多く、復元品なども目にするのは当世具足という戦国時代のものですね。
しかし今回の解説は、平安時代から鎌倉時代に公家や武家が着装し、それらの人たちが春日大社を始めとした神社などに奉納した大鎧に焦点が当てられていて、それだけでも予定していた時間では全然足りない……というくらい、こちらの分野も奥が深~いようです。

小林良氏の講演『日本甲冑武具研究保存会』という、かなりグローバルに活動をされて由緒もある団体があるそうで、こちらで解説に使われている冑などは、この団体で復元されたものだそうです。
しかし鎧の類例は、古墳時代と平安後期の間の物が全く残っていないので、その時代の物は当然ながら復元できないそうです。
さて、華麗と豪壮を合い併せ持つ大鎧ですが、装飾的に見えるパーツなども実に機能的に作られ、弓矢や刀、馬具などとの兼ね合いも考えられているとの事。
例えば草摺(くさずり)が前後左右の四つに分かれて箱型になっているのは、馬に乗った時に鞍の前輪、後輪(しずわ)に固定される形になり、方にかかる重量がかなり軽減されて、上体が動かしやすくなるのだそうです。

それにしても、この類の知識って、あまり学ぶ機会がないので、かなり面白いです。
これでまた、大河ドラマ(結局、ここに来るんかい)でも見て突っ込みどころ満載を楽しめそうな、ろくでもない予感もあったりして……( ̄▽ ̄)。o0○
江戸時代の落書き?…東大寺大仏殿にて東大寺学講座第一期』第四講は、栄原永遠男先生の『金光明寺から東大寺へ』です。

実は『金光明寺』とは固有名詞という訳ではなく、国分寺の正式名称です。
天平十三年二月、恭仁宮において、各国毎に寺を建立しろという有名な『国分寺建立の詔』を発します。
かつて東大寺も金光明寺と呼ばれていた(同年六月、正倉院文書に初出)ので、大和国の国分寺が東大寺の前身であったと考えられます。

ところが『金鍾寺』という名前も文書には見えています。
『金鍾山房』とは、藤原光明子が亡き親王の菩提を弔うために建立を命じた寺の名前です。
寺の側では、国分寺とされた後も寺名を『金光明寺』ではなく、『金鍾寺』と呼んでいたのではないのかと、栄原先生は推論されています。

天平十八年十月六日、天皇、太上天皇、皇后が『金鍾寺』に行幸して盧舎那仏を燃灯供養したと見えます。
この時の盧舎那仏は、まだ土で作られた様仏だろうという意見が、大抵の研究者の間で言われていますが、『千手堂』(現在の手向山八幡宮の辺りにあった御堂)の本尊、銀製の仏だろうとする説もあるそうです。

ところがこれ以前、天平十六年十二月八日、この夜、『金鍾寺』と『朱雀路』に灯一万杯を燃す、と続日本紀に見えています。
『金鍾寺』の名前が史料に出て来るのは、この二箇所のみなのだそうです。

ところで、盧舎那仏建立の詔が出された(天平十五年十月十五日)のは紫香楽での事、その後に平城での建立が始まるのは、十七年五月の平城還都の後、東大寺要録では八月二十三日からと見えています。
私が今まで見て来た資料などでは、十六年にみえる『金鍾寺』と『朱雀路』があるのは、紫香楽なのか平城なのかが論点になっていました。
ところが本日の講座では、最初から紫香楽説はスルー(・・?
まだ盧舎那仏造営が開始していない『金鍾寺』で、どうして燃灯供養が行われたのかを問題にされておられました……(゜_゜>)

ここで登場するのが『丈六堂』の存在。
これも正倉院文書にのみ出て来る名前でして、国分寺として選ばれた『金鍾寺』が、現在の上院地区(法華堂や観音堂のある辺り)よりも下に金堂を中心とした伽藍を整備しつつあったのではないのか、そして国分寺には丈六の御仏を本尊に置けという詔の通り、丈六仏を安置した御堂があり、その本尊落慶の燃灯供養が行われたのだろう……
そうすると『朱雀路』は何……?ここには触れておられませんでした(-_-;)

この『丈六堂』がいつまであったのか、平城で盧舎那仏造営が始まった後の十八年二月二十八日の文書にも『丈六院銅守の優婆塞』という名前が出て来て、この人達を管理していた役人して『佐伯若子』の名前が見えています。
“さえきわかこ”さんではなく、“さえきのわくご”とお読み下さい。
後の今毛人ですが、この御仁は紫香楽時代にも恐らく毘盧舎那仏造営に関わっていたはずです。
更にこの人の上官は『長官宮』こと『市原王』、こちらも文書に見えています。

いつぞにこの辺の話をグダグダと書いていた事があるので、何とかこのヤヤコシイ講義について行く事ができたのですが、文書をひっくり返すのは、本当に一筋縄では行かない作業だと実感致します。

ところで、次の話が一向に形になって行かないので、そろそろ私自身が痺れを切らしている状況……(・.・;)
主人公として、神野親王と同世代で、藤原氏に限らず皇族から臣に下りた人なども見繕い始めたのですが、どうも決定的なインパクトのある人がおりません。
チョイト、インターバルを置いて、かつての恭仁や紫香楽を巡る話でも再考し始めようかな(゜_゜)
とにかく、何か書いていないと落ち着かない……また病気が出てきました(ーー;)
土曜日に東大寺で森本長老の『聖武天皇の実像を追って』というシリーズのお話を久々に聞いて参りました。
今回のサブタイトルは『藤原広嗣の乱の真実』ですが、冒頭から、この事件ほど一般的に誤解されている事件も珍しいという趣旨のお言葉。
何を一体、誤解されていると長老は御考えなのか……つまり、この反乱騒ぎの時に聖武天皇のとった行動についてでした。

これについては、この十年くらい若い研究者などの認識では、かなり覆されているような印象を受けますが、今でもチョッとした有識者の話などでは、筑紫で謀反騒ぎが起きたために、天皇は平城京を捨てて逃げ出して彷徨った云々……(*_*;
『続日本紀』を正直に読めば、そのような事は書いていないのが良く分かりますので、私もそのようには認識しておりません。
筑紫の戦乱など一種の想定外、それよりも先に、天皇には東国経由で恭仁に入る行幸を計画していたはずです。
この辺は、ここの戯言でも再三に書いておりますが(-_-)

ただし……ここで私の認識不足が知れたのは、玄昉僧正に関しての事。
例えば『源平盛衰記』に見える“広嗣の乱ならびに玄昉僧正のこと”では、どのように扱われているのか。
ここでの玄昉僧正は、聖人中の聖人として理想化した姿で描かれているそうです。
この僧正と皇后(中宮ではなく)が関係を持っていると、目撃した藤原広嗣が天皇に報告し、驚いた天皇がその様子を伺いに行くと、千手観音と十一面観音に見えたとか何とか……(・・?
この事によって広嗣は筑紫に左遷され、それを恨んで謀反に走った云々……えらく、イージーなストーリーになっておりますが(^_^;)
 この後、これをテキストとして、曲解されたまま物語が広まった事もかなり、誤解を受ける要因となったそうです。

いずれにしても玄昉は、唐帰りをアピールし、一切経をフルテキストで購入して天皇に献上し、それらの功績で僧綱のトップにまで上り詰めた人でしたが、かなり自意識過剰な上にワンマンで、他者との協調ができない人だったようです。
あまりに好き勝手に振舞ったようで、ついには勅命で僧綱の印を没収され、そちらへの命令などが出来なくなります。
そうなれば六大寺の僧侶らは、一斉に反旗を翻して僧正の追い出しにかかったようです。
この人が後に筑紫の観音寺に左遷されたのは、組織からはみ出したためなのかも知れません。

ハリオ式ドリッパー一方、藤原広嗣が大宰の少弐になったのは左遷という訳ではないというのが、森本長老の御考えです。
私もこれには賛成です。
大宰府は出世の関門の一つです、少なくとも奈良時代においては。
しかし、広嗣はそうとは捉えられなかった……この御意見には、少々疑問ですが。
この時の大宰府は、帥は空席、大弐は遙任という状況で、中央からやって来た高官のトップは二人の少弐だったようです。
果たしてこの片割れ、二十代半ばの若い男に大宰府の猛者たちがどうして従い、、共に中央政府に弓を引くような行動をとったのか、これが私にはいつも疑問になっている部分です。
時の大宰府は、どのような状況で、どれほどの不満や渦巻いていたのか、これがどこでも問題にされていないような気がするのですが……

本日の画像は、ようやく買いました、『ハリオ式ドリッパー』
早速今朝から、これでコーヒーを入れております。
ようやく、カメラから画像をパソコンに移しました。
さて、明日は『橿原神宮 百々手式』の画像だけでも上げませんと(~_~)
講師は花山院宮司一月二十一日、久々に春日大社の『旬祭(しゅんさい)』に行って参りました。
今月の『いのちと心の講座』とも一緒になっていたので、かなり人が多いのだとの事。
以前に私が参加した時も、土曜日だったので結構な参加者でしたが、今回はそれ以上かもしれません。

そして旬祭の終了後は、花山院宮司による講演『春日大社のお正月』がありました。
春日大社も除夜の祭の後、一月一日になるや否や元旦のご祈祷が始まり、七日の御祈祷始式まで、様々な正月行事が行われます。
昔は三が日、ほぼ朝から晩まで祭が行われ、神楽始式は五日に行われたのだそうです(現在は三日に行われています)。
そして七日には再び、三が日と同じような祭が行われたとの事です。

燈籠に火を入れた様子その日には春日大社で最も古く重要とされる『瑠璃燈籠』に火が入れられたそうで、現在ではそれを復元した吊燈籠が使われているそうです。
今回の講演では特別に、この燈籠を会場に持って来て、実際に火を入れて下さいました。

この瑠璃吊燈籠、長暦二(1038)年に藤原頼道が寄進したと伝えられていますが、現物は存在せずに鎌倉時代の復元品が残されています。
青いガラスビーズを簾のように連ねて火袋にした物ですが、現在の物はガラスビーズではなく青い絹の布が張られていまして、こちらはこちらでなかなかに美しい物です。
今回もこのように嬉しいサプライズがありまして、いつもながらに参加して面白かったと思える講座でした。

旬祭が始まるのは午前10時なので、直会も昼食も頂いて終了したのは13時過ぎ、この後は久々に奈良国立博物館に行き、その後は奈良町の『寧估庵』(猫カフェ)で閉店まで遊んでおりました。
そして今日は、東大寺の金鐘会館で森本長老の御話を聞いておりました。
来週は確か、またこちらの会館でシンポジウムがあるはずです。
なんちゅうか、今年もやたらに予定ばかり入れてますが……そろそろ、本腰入れて次の話の準備にかからんとなぁ(゜.゜)
 
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