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書くネタはいくらでもあるのですが、その時に書かないので、結局どうでも良くなって上げない、この繰り返しですね……これじゃ、備忘録になってやしませんわ。
そういう訳で、この前の日曜日の講演会でも。
東大寺総合文化センターで主催している『東大寺学講座』の第二期、第三講が『東大寺を掘る』というタイトルで、奈良文化財研究所の前所長、田辺征夫氏が講師です。
申し込む前から疑問だったのですが……このタイトルなら、橿考研のテリトリーで、それこそ菅谷所長辺りが講師するんとちゃうんか?
大体、奈文研、この何十年か殆ど東大寺の発掘なんてやってないやん?
まあ、都合が合わないとか、色々事情があるんでしょう?(゚_。)?(。_゚)?
『続日本紀』には、神亀五年十一月に亡くなった皇太子のために山房を造って九人の僧侶を住まわせたと見えますが、山房の名前は具体的に出てきません。
この山房だろうと推定される『金鍾寺』とか『金鍾山房』、更には『福寿寺』という名前は、正倉院文書などに見えまして、国分寺の別名の『金光明寺』にいたっては件の『東大寺要録』に、『東大寺』の名前の初出はやはり正倉院文書の天平十九年の写経所関係の文書に見えるそうです。
……これだけ聞いていても、既に何が何やら(?_?)
いずれにしても、文書関係の研究はかなり議論が尽くされていて、この後に期待すべきは、埋蔵文化財的な発見だろうというのが、田辺先生の御言葉でした。
ところが、東大寺の境内を発掘できるかと申しますと、大規模にはまず無理です。
今までも防災のためのスプリンクラーの設置などの事前調査で、ごく限られた範囲に細長くトレンチを入れる程度、これの地道な積み重ねです。
これらの調査によって『天地院』跡が八世紀初頭(『要録』では神亀五年の建立)にまでさかのぼれる事も分かり、ここもまた前身寺院の一つかと考えられるようになっています。
確かにこの辺りに行くと、奈良時代くらいの須恵器の破片が結構、表採出来ますしねぇ(゜_゜)
あと有名なところでは『丸山西遺跡』の存在でしょうか。
と言っても、ここも表採資料(創建期の瓦もあります)ばかりで、具体的な調査はしていませんし……
いずれにしても、まだまだ途上というところです。
そういえば、少し前にも奈良市の調査で、鎌倉復興期の僧房の一部と思われる遺構も出ていましたっけ。
現在、東大寺では『東塔』の再建を検討しているそうで、まだ地中のレーダー探査の段階だそうですが、更に具体化して発掘調査となれば、何らかの発見はある事かと期待されます。
……となると、あそこの銀杏がいっぱい生る木は大丈夫かなぁ(・.・;)
以上、講演会の内容とは結構、ズレがある事を書き散らしてますσ(^◇^;)
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