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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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何故か相性の良い場所……(-_-)羽曳野というと古市古墳群け?と思われましょうが違います。
そういえば古市古墳群百舌鳥古墳群も、ここ最近は全然行っておりません。
そもそも今年になって、このカテゴリー的な墓参には殆ど行っておりませんからねぇ……
実家の墓参りには春先に行っておりますが。
あと、5月3日には恒例の柏原御陵に行ったくらいかな?
神武天皇御陵には、時々行きますが。

それで、ここはどこかと申しますと、羽曳野市通法寺にあります源朝臣義家の墓所です。
確か昨年の五月に行ったきりです。

ところでこの御墓の周囲を回ってみて、何とな~く変な疑問が湧いてきたのですが……
もしかして、この御墓の形、円ではなくて多角形?
裾の部分に二段程度に積んだ石垣があるのですが、これが直線部分と鈍角の角があるように見えて?(゚_。)?(。_゚)?
まさかと思うけど、四角形の角を落として……ってぇと何角形になるんだ……ジョークにもなりませんぞ( -」)φ

『三々九手挟式』という式だそうです。それはともかく、相変わらずここは妙に相性の良い場所だなぁと思えて、暫らくボケ~っとしていたのですが、どういうわけか本日は三々五々人が来る?
午前中に近くの壺井八幡宮で行事があったからかも知れません。
私も何となく気が向いて行って来ました……何にって、こちらの画像を参照。

e929089a.jpeg
神社のHPには百々手式と書いてありましたが、確か違う名前でした……え~と、今回、介添で参加されていた方から『三々九手挟式』という儀式だと教えて頂きました( ̄▽ ̄)。o0○
前後の二組に分かれて的中を競い合うのだそうですが、的がとても小さくて、中てるのがかなり難しいのだそうです。

あ、この境内の楠木の写真撮るの忘れた(・.・;)実は昨夜まで近つ飛鳥博物館のシンポジウムに行く予定だったのですが、高田バイパスを走っている時に気が変わりましたσ(^◇^;)
まぁ、古墳時代の祭祀の話を聞いても、今の状況じゃ頭に入らないと思います、律令祭祀ならばまだしも(゜_゜>)

そのような訳で、せっかく神社まで行きましたので、新しい御守りを買って参りました。
昨年と根付の色が違いまして、個人的には昨年のモスグリーンの方が良かったんですが(^_^;)

叡福寺の聖徳太子御廟です。ところでカテゴリーが墓参ですので、もう一つ寄って来た墓所の画像も。
こちらは大変有名、太子町の叡福寺聖徳太子御廟です。
ここも八角形の円墳の可能性を指摘されていますが、案外、専門家は二段か三段の円墳だろうと言っています。
 
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五條市御山町 他戸親王墓所先日に奈良市田原の方に墓参に行きまして、こちらだけでは片手落ちも良いところだと思い始め、天気も良く暖かい本日(とうに昨日だし、暖かいと言うよりも暑かった^_^;)に五條市まで行って参りました。
そういう訳でここは五條市御山町にある他戸親王の墓所です。
国道168号線を南に下り、丹原で県道55号線よりも一本南側の道を西に向かいますと、右手の尾根に白い鳥居が見えますのですぐに分かります。
しかし、周囲は田んぼや柿畑、どうやって行けばよいのやら……畑の入り口の広くなった路肩に車を止めて、細い道をかなり遠回りして(農作業をしている方を尻目に畦を歩く訳にも行きませんので)たどり着きました。

親王の墓所から見るいざ着いてみると、真っ直ぐに上がる細い道や、裏手の墓地に上がってくる道や駐車スペースもあるのですが、これがいったい何所から入ってくるのか分かりません。
手前に戦没者の墓と慰霊碑があり、墓地に向かう道と墓所に向かう参道に分かれます。

 『光仁天皇皇太子 他戸親王墓
宮内庁の指定する御陵に比べると、遥拝所もシンプルで石碑などもありませんが、いつものように域内立入り禁止や、魚鳥、竹木等を取るなの木の看板は立てられていました。
周囲を一周する事も出来ますが実に小さな墳丘で、もしかしたら6世紀くらいの横穴式石室の古墳なのではないのかとも思えるのですが……勿論、調査は出来ません。
それにしても見晴らしの良い場所で、下に広がる田んぼでは稲刈りの真っ最中でした。


これが宮内庁の看板です(~_~)
道に面して直ぐにあります。

そこから更に西に行きますと、道路の右手に突然、こちらの御陵が現れます。
 『光仁天皇皇后井上内親王 宇智陵
こここそ駐車スペースなんぞありませんで、御陵のまん前に幅寄せして停めるしかありません……(^_^;)

こちらはまだ、柵の内側に前庭があるのですが、いつも出かける御陵に比べると大きさはさほど変わらないにしても、道から直ぐという立地のせいなのかどこか狭苦しい印象があります。

この後に黒駒町にある御霊神社に行き、そのすぐ近くにあるこちらにも寄って来ました。

整備された墳丘の様子石室内は真っ暗です。

 『五條市指定史跡 黒駒古墳
7世紀初めに作られた両袖式の横穴式石室を持つ後期古墳で、紀ノ川流域の影響を存分に受けて、結晶片岩の板材を積み上げて石室が作られています。
十年くらい前に台風で半壊したために急遽調査をしまして、壊れた天井なども積みなおして、盛り土もしなおしたのですが、羨道部、板石積みのように見えている部分は実は土嚢です(・_・;)

この後は霊安寺町にある御霊神社の本宮に行ったのですが、この日はちょうど御祭に当たっていて、氏子の方々が直会の席の真っ只中でしたので、早々に引き上げました。
せっかく五條市まで来たのだから、栄山寺にでも久々に御参りするかと思い、その前に……

四角い石積みの基壇はありますが…… 『国指定史跡 藤原武智麻呂墓
何年か前に、鳥取の方から遊びに来た知人を引っ張りまわして来た時以来なので、かなり久しぶりです。
周囲は柿畑だらけ、あの時には畑の作業道路にまぎれて、地図をどう見て良いのやら分からず、畑の作業をしていた方に尋ねたところ、
「ああ、武智麻呂さんね」と、簡単に教えてくれました。
しかし、さん付けって、近所のお爺さんじゃないんだからさ……(ーー;)
まあ、お蔭様でこのたびは迷わずにたどり着けましたが、軽自動車が一台何とか通れるような細い道を入って行く事になるので、対向車でも来たら下がるしかない……
幸いにして、畑作業の人すらいなかったから良かったのですが、車を停めるのも道の上(--〆)

このような墓碑が立てられてはいますが……五條市教育委員会が立てた見落としそうな看板の横の階段を上がって行くと、板石積みの四角い基壇が見えます。
基壇の上にはあまり古くはなさそうな石碑が建てられ、
『當寺本願南家始祖贈太政大臣正一位武智麻呂公○尊○』と刻まれていますが……下の方の字が読めない(T_T)
裏側に刻まれた文字によりますと、元禄六年に立てられた碑のようです。

看板に書かれた内容によりますと、『延喜式』には藤原武智麻呂の墓は『後阿陀墓』と呼ばれ、大和国宇智郡にあると記されているのですが、この場所を調査した事はないので、真偽の程は分からないようです。
また『藤氏家伝』には、佐保山で火葬にされたとあるので、それ以降に改葬された可能性も示唆されています。
『家伝』を書かせたのも、墓のある山の下に栄山寺を建立したのも、武智麻呂の次男の仲麻呂ですから、改葬も同様に行われたのだろうと推測されています。

ここの後も栄山寺をはじめ、いくつかの寺社に寄って来ましたので、こちらの事はカテゴリーを改めまして次回にでもm(__)m
史跡 太安萬侶墓墓所から見る田原の里

では一昨日の続きなど……
田原東陵』から、この『太安万侶墓』は割合に近く、自動車ならば五分とかかりません。
既に奈良時代の上級官人の御墓なので、時代に則して火葬が取り入れられています。
発見した茶畑の所有者は、多量の炭が出てきたので、それこそ戦前に炭を貯蔵していた穴でも見つけたのかと思ったそうですが、そこに金属の文字が刻み付けられた板が置かれていて、見た事のある名前があったために届け出て世紀の発見となったそうです。
この墓の模型と、実際に出土した『墓誌』は、橿原考古学研究所付属博物館で見る事が出来ます。
ここは河瀬直美監督の『殯の森』の舞台になって、チョイト有名になった所ですね。

奈良市山町 ベンショ塚古墳この後に春日病院の近くにあるカフェで休憩をして、次はどうしようかと考えておりました。
こちらのカフェ、コーヒーは結構美味しかったけど、シフォンケーキはイマイチかな……御店の雰囲気や外の景色はとても良いのですけどねぇ(^_^;)
また、こちらの方へ来た時には別のケーキを頼みましょうっとσ(^◇^;)

ともあれ、来た時と同じ道を帰りまして、途中で道端の古墳の上のお稲荷さんにお参りをして来ました。
この『ベンショ塚古墳』は五世紀の前方後円墳で、測量した結果、全長が70メートル(周濠も含めれば106メートル)はあるそうですが、現在は前方部は殆ど分かりませんし、後円部は削平されているうえにお稲荷さんの祠まで置かれています(゜.゜)
確かここからは短甲や馬具が出土しているはずなのですが、主体部はどこに残っていたんだ??

桜井市箸中 ホケノ山古墳それにしてもそこから国道169号線を南下する途中には、『大和古墳群』、『柳本古墳群』、『箸中古墳群』と、前期の大型前方後円墳を盟主とする古墳群がずっと続いているのですが、この辺の駐車場も完備して公園化された古墳を通り過ぎ、何となくこちらに寄って来ました。

ホケノ山古墳』は『箸墓古墳』のすぐ東側、墳丘規模は80メートル、出現期のホタテガイ式古墳です。
あの辰砂(水銀朱)で真っ赤だった割竹形の刳り貫き式木棺を納めた石囲い木郭の発見で、一躍有名になった古墳ですが、相変わらず細い道を入って行かなければならないので、一寸行き難い印象の場所です。
調査中には何度か見に行ったのですが、実を言いますと公園整備の後には初めて行きましたσ(^◇^;)
夕方だったので、ご近所の方が犬の散歩に来ていました。

明日香村野口 野口王墓古墳帰り道、橿原に近づくにつれて国道が渋滞してくるので、南に曲がって明日香村を貫けて帰る事に致しました。
そういう訳で、再び御陵に寄って参りました。

こちらの御陵の古墳としての名前は『野口王墓古墳』、宮内庁では『檜隈大内陵』、通称は『天武・持統天皇合葬陵』です。
私は大抵、『野口王墓』と呼んでいます。
五段に築成された八角円墳で、鎌倉時代に盗掘された時の様子が『阿不幾乃山陵記』に記されている事が有名です。
メノウの切石で石郭が組まれ、漆塗の棺と銀の骨壷が納められていたとか云々。
江戸時代の初期までは石室が開口していたとも聞いています……
この古墳も周囲を一種する事が出来ますが、西の方から伸びている尾根の先端の最も高いところに作られているようです。
以前に石材が残っているのが見えると聞いた事があるのですが、今までに何度か周囲を回って見てみたものの、相変わらずまったく分かりません・゚・(ノД`;)・゚・

この辺りでそろそろ日没、三連休の最後の日とあって、奈良や大阪方面に向かって北上する車の列が、まだ続いておりました。
水没、八嶋陵前古墳崇道天皇八嶋御陵

朝からまたも本薬師寺でホテイアオイを眺めた後、昼前から車を転がして東に向かい、桜井市谷の交差点から北上し、更に奈良市に入ってもう一度東に行き、道なりに北上した後に着いた所はこちら、宮内庁の指定する『崇道天皇八嶋陵』です。

御陵の前の横穴式石室は水没しており、前池は水が満水状況でした。
今日も杉の梢でハシボソガラスが、ツクツクホウシとコオロギが諸所で一緒に鳴いておりました。
お彼岸は蝶に良く出会いますが、ここでもモンキチョウが番で飛び回り、ノシメトンボやスズメバチもいつものように飛び交っていました。

春日宮天皇田原西陵ここが私の遥拝所です。

八島町まで来てしまったら、矢田原町は大して遠くはありません。
嶋田神社を経由して再び県道188号線に戻り北上、東紀寺の交差点を右折して80号線をひたすら上りますと、県のヘリポートを過ぎて下り始めた道の先にここはあります。

背後の山は親王山、この名前はこの墓所の主からつけられたのでしょうか、『春日宮天皇陵』の主は志貴親王です。
江戸時代に切り開かれたと聞く切通しの参道では、ハンミョウやらホタルガ、ノシメトンボやアキアカネ、スズメバチが出迎えてくれます。
周辺の田んぼは既に刈取りも終わり、周囲の茶畑では今日も風車が回って、山では最後のツクツクホウシが鳴いていました。

光仁天皇田原東陵ノシメトンボ















奈良名張線(県道80号線)を東に向けて走れば日笠町光仁天皇田原東陵があります。

最近に宮内庁の書陵部で草刈をしてくれたようで、墳丘周囲の道はひどくサッパリとして、歩くたびにバッタやらカエルがあちらこちらに飛び跳ねて行く始末。
どうやらこいつらを狙っていたらしい中鷺と青鷺が、私の姿を見て飛び去って行きました。
周囲の山ではまだミンミンゼミが鳴いておりました……橿原辺りではセミの声はパッタリなのに。
ここのトンボはフレンドリーなのに、日本ミツバチには終始からまれておりました……本当に、こういうところに来ると昆虫類や鳥類が、妙に人間に干渉するんですよね、良く分からないけど(゜.゜)

さて、ここから大柳生にでも抜けようかと思ったのですが、すぐ近くだからと太安麻呂墓に行ってしまいまして、これで続きは、墓参という古墳巡りになるのでした……続きは次回?(゚_。)?(。_゚)?

それにしても途中から、ここじゃなくて宇智(五條市)に行くべきなんじゃないのかと思えてきました。
近い内に、宇智陵と五條市の御霊神社を片っ端から訪問に行こうかなぁ…… 

源頼義公の墓所羽曳野市の『壺井八幡宮』で行われた百々手式が昼前に終わったので、せっかくなので周辺の史跡なども見に行って参りました。
『壺井八幡宮』はかなり以前に車で来たきり、周辺に何があるかも良く知りませんが、案内板には少し離れた所に『河内源氏三代』の屋敷跡や創建した寺跡墓所があると紹介されていたので、好天の下、フラフラと歩いて行きました。

こちらがまず、源頼義公のお墓です。
頼義公といいますと、『前九年の役』の発端を作った一人という印象がありまして、別に陸奥の安陪氏や藤原氏に思い入れもへったくれも無い私でも、何となく良くない方のイメージが先行してしまいます。
それはともあれ、頼義公は自らが創建した『通法寺』の本堂の下に葬れと遺言をし、後に同じ境内の現在の場所に改葬されたそうです。
墓所の扉には笹竜胆の家紋が刻まれていますが、墓石も全体的に新しく整備されたという印象ですね。

源義家公の墓所中世寺院は全くの門外漢ですが、こういう所に来るととにかく地形が見たくなるのが私の病気(-_-;)
背後や横の竹やぶなんぞ覗いて、斜面を人為的にカットして、この辺から盛り土をして一段あげて……なんて眺めていても、傍から見たら筍泥棒に見えるかもσ(^◇^;)

馬鹿はさて置き、そこから少し離れた高台には息子の源義家公の墓所があります。
こちらは『後三年の役』の張本人?
しつこく言うと、私は出羽の清原氏にも、陸奥の藤原氏にも思い入れはありませんよ。

この場所はすごく良い……妙な第一印象ですが、多分、相性が良いのでしょう。
思わず、その辺の切り株に座って暫くボ~っとしていました。

源頼信公の墓所

義家公から見れば祖父に当たる源頼信公の墓所も、目と鼻の先にありました。
こちらは周囲をブドウ畑に囲まれていて、ビニールハウスの中で作業をしている人から、逆に眺められていてチョッと落ち着きませんわ……(~_~;)

この方は源満仲公(多田満仲)の三男ですから、頼光公(摂津源氏の祖)の弟ですね。
満仲公と言えば『安和の変』に暗躍する曲者……(ーー;)
頼信公は摂関家に仕えて、『平忠常の謀反』を平定した方だそうです。
どこかで聞いた名前だと思ったら、ここに出てくる訳ですわね……マジ、この辺の歴史、すっかり忘れてます(゜.゜)

大僧正隆光の墓昔、この辺の時代を扱った話を書いていたんですよね。
勿論、主人公はお公家さんですけど、特殊技能保持者(?)の受領階級で、お兄ちゃんが蔵人の五位なんぞになって、喜んで関東の方の国守をやっていて、お姉ちゃんは皇太后に仕える女房で、お父さんは筑紫大好き、大宰少弐に戻りたい、理系技術職(?)のお祖父ちゃんの後を継いだのは、この主人公一人だけ……変な家族構成(-_-;)
この人が年をとってからの話に、八幡太郎義家公やら鳥海三郎宗任公やら出て来るんで、嫌でも頭に入っていたはずなんですけどねぇ……(/_;)

ところでこの写真は、江戸時代の隆光大僧正のお墓だそうです。
何でも五代将軍綱吉と共に『生類憐みの令』を出した方だそうです。
で……何なの、この供養塔の形?
暫く眺めていて、ようやく宝篋印塔の成れの果てだと分かりました。

鑑真大和上の廟所これらの墓参の後、羽曳野市が整備したウォーキングルートをたどって上ノ太子駅まで戻り、そのまま奈良市の西ノ京まで行き、久々に唐招提寺も参拝して来ました。
こちらはただ今、瓊花(けいか)が花盛り、明日まで公開しています。
そちらはまたカテゴリーを改めて紹介しますが、こちらでも墓参をして参りました。
鑑真大和上の御廟所です。
拝観者も多く、正面から写真を撮るのは何となく気が引けたので、横に廻りまして。
開山忌は来月ですね……久々に行こうかしらねぇ(-_-)
相も変わらず柏原陵です。

今日も墓参と言う態度ではない……『日本後紀』の大同元年の記述に寄れば、桓武天皇の墓所として『山城国葛野郡宇太野をもって山稜地となす』と見えています。
今の右京区宇多野辺りだろうという事ですから、仁和寺の近くでしょうか?
どうも京都の地理に疎くていけませんが、京福電車の駅にありましたよね、『宇多野』って?

ところが墓所を定めた後に、点け火と思しき山林火災、月食、鳴動現象などが続いたため、恐れをなした皇太子が再び墓所の選定をやり直させて『山城国紀伊郡柏原山陵』に埋葬を決め、更に半年後に同じ柏原の別の御陵に改葬したとされています。

この時、宇太野の墓所が賀茂神に近く、この社が災いを成していると疑われる云々と理由を述べています。
現在の賀茂の社といえば、『上賀茂神社』、『下鴨神社』共に左京区にあるのは周知の通りです。
どうして右京区辺りに御陵を造ろうとしたら、賀茂の神様が怒ったのか……
これって、もしかして現在の『蚕の社』の事じゃないのか?????

このような事を昨日、『糺の杜』でボヤ~っと考えておりました。
京都とはイマイチ相性の悪い私が、何となく相性が良い場所の一つが、この『糺の杜』のある『下鴨神社』と『元糺の杜』のある『蚕の社』こと『木嶋坐天照御魂神社』です。
まぁ、養蚕や繊維産業に携わる方々の信奉を集めると同時に、奇妙な三角に組み合わさった三つ脚鳥居でかなり有名です。

摂社に『蚕養神社』があるために『蚕の社』の通称で呼ばれ、秦氏のテリトリーという印象が凄く強いのですが、どうしてこの社の杜が『元糺の杜』なのか……嵯峨天皇が下鴨に糺の杜を移したから?(゚_。)?(。_゚)?
だから、『糺の杜』って本来が秦氏の信仰対象だったの?
そもそも、秦氏も賀茂氏(賀茂県主氏)もどういう関係なの?
この疑問に、どなたかが長く縁戚関係を結ぶような間柄だったと教えてくれた事があったのですが、未だに不勉強で確かめておりません。

私は十数年前から時々思い出したように“鴨と鴉のドツボ”というやつにはまるのですが、鴨は葛城の賀茂朝臣、鴉は山城の賀茂県主の事です。
この二つの氏族をゴッチャニしている人が、すっごく多い……
以前に陰陽師ブームなんてやつがあった時、暦道の賀茂朝臣氏(後の幸徳井家)を山城の賀茂氏に結び付けて、奇妙な事を言う大学生くらいの子がやたらにおりましたっけ……ε-( ̄ヘ ̄)┌
こちらは間違いなく、葛城の賀茂朝臣です。

ちなみに私のドツボは、どうして山城の賀茂氏が葛城と自らを結びつけるような事を考えたのか、こちらの疑問です。
こいつに秦氏(蚕)が加わると更に複雑になって来そうで、これを称して“鴨と鴉と蚕のドツボ”と勝手に命名しております。
……葛城の賀茂氏と大和の三輪氏の関係までを考え合わせると、更に収集がつかなくなります。

それはそうと、今日は羽曳野の『壺井八幡宮』やら『河内源氏三代の墓所』に行き、夕方からは薬師寺の『最勝会』にも行きましたので、そちらの写真も整理せにゃ……またも阿呆ほど写して来た奴がいる(ーー;)
何処も同じ、宮内庁指定の陵墓今日は朝から出勤時間と大して変わらない時間に出かけ、木津川市の『馬場南遺跡5次調査』の現地説明会に行きまして、その後、京都国立博物館の特別展を見て、帰りは丹波橋で下車して、ここへ行って来ました。

どこかって、丹波橋から一番近い陵墓といえば柏原陵です。
相変わらず墓参という態度ではありません(ーー;)
そしていつものように、三々五々人がやって来て、不思議と一人になる事がないんですわ……近所の人の散歩コースなのかしら?
相変わらず夕方のせいか、鴉があちこちで鳴いているのですが、ここはハシブト鴉が多いのでしょうかねぇ?

訪問したのは昨年の五月以来、次の予定は多分、今年の五月三日σ(^◇^;)
それにしても昨年と同じように、北東の方向だけ木の梢がざわつくのは何故?
風の通り道になるような地形なのでしょうかね?
確かに参道を歩いていると、風の変わる場所があるのですが、これは明らかに地形のせいだと思いますわ。
特に桃山御陵の方へ行く道の手前辺りで、それがはっきり分かりますから、そちらに風が抜けるのでしょうね、ってのか吹き付けて来る時の方が多いかな?
宮内庁指定 神武天皇御陵何で毎度、鳥居と杜ばかりとお思い下さい。
これが宮内庁の指定するところの天皇陵のスタンダードな正面観です。
白木の神明鳥居に花崗岩の立柱の瑞垣、常緑の雑木林、門柱前の標識や遥拝所の看板を見ないと、どなたの御陵なのか分かりやしませんわ(ーー;)

ここは私の住まいから一番近くにある御陵、『神武天皇 畝傍山東北陵』です。
私はこの名前をいつも馬鹿正直に読んでおりましたが、宮内庁の天皇陵HPによりますと『うねびやまのうしとらすみのみささぎ』と読むのだそうです。
今の今まで知りませなんだ(@_@;)

正月の三が日、手前の鳥居の扉の内側まで入れますので、少しだけ近くで参拝してまいりました。
橿原神宮の大雑踏を抜け出して来た時は、見事な貸しきり状態でしたが、数分後には思い出したように御参りの人がやって来ました。
これが案外、若い人もいて、チョッと以外でした。
そして書陵部畝傍陵墓管区事務所の建物内では、当直の職員の方がやや退屈そうに、三々五々やって来ては帰って行く参拝者を眺めていました(~_~;)


八嶋御陵遠望ところで昨日のリベンジ?
車に給油しに行くついでに、またもや行って来ました。
ついでという距離ではありません、30分以上かかりますから。
そして混雑しているだろうと予測される大神神社などの大きな神社の周辺を避けて行かなければならないので、少々回り道をして行って来ました。
水の引いた前池越しの『崇道天皇 八嶋陵
この写真を写した位置から杣道を行きますと、無縁仏を集めた場所を経て、円照寺へかなり近道で行けます。
門前まで行って来ましたので、それはまた項目を改めて。

ところでこれも最近まで知らなかったのですが、天皇陵に行きますと、昔は『陵印』が詰め所に置かれていたそうですが、今では殆ど職員がいないため、一定の場所に保管されているそうです。
なんと、奈良県内の陵墓印は全て、畝傍陵墓管区事務所にあるのだそうで……
今度、片っ端から押しに行こうかしら……結構、あっちこっち行ってるし(・。・;
私がしょっちゅう出没する、春日宮天皇陵崇道天皇陵岡宮天皇陵などは有るか否か??

奈良豆比古神社の大楠天気予報はひたすら、日中も雪が降って平野部でも積もると、昨夜から脅しを掛けておりましたが、元旦の朝はうす曇、十時過ぎには日が差してきたくらいです。
橿原神宮の方向からは、凱旋車とやらのスピーカーが何やら騒いでいる声が聞こえまして、それでもそちらに向かう乗用車が列を成しておりました。

それらを尻目に昼前に家を出て、いつもよりもかなり空いた中和幹線を西にひた走り、高田市に入ったところで、高田斑鳩線を北上、法隆寺に行って参りました。
普通の休日ならば、これが小一時間かかるコースなのですが、今日は30分強で到着しました。

法隆寺中宮寺を後にして、突然行こうと思った先は、寄りによって奈良市田原……
ところが何を勘違いしたのか、それとも正月早々に呼びつけられたか……奈良坂方面に行ってしまいましたσ(^◇^;)

そういう訳で、着いた先は奈良坂の春日社『奈良豆比古神社』です。
御近所の方々が次々とお参りに来ておられました。


田原西御陵この神社で止めときゃ良いのに、リベンジとばかりに紀寺町の方に引き返そうと、大乗院庭園のところで高畑方面に曲がったところ、何でこんな場所で渋滞が起きているんでしょう(@_@;)
もしかして、春日大社の駐車場まで渋滞してるんじゃないかしら……だとしたら、すごいかも(+_+)
しかし私は逆方向に南下しまして、白毫寺町の方に向かいました。
そして、積雪注意の表示が出ている道を東へダラダラと走りまして、着いた所はこの画像の通りです。
雪が消え残る春日宮天皇御陵です。
元日は 我より先に用のある人の足跡 参道の雪??


田原東御陵

だから、ここで止めておけば良いのに、県道80号線の雪が殆どないのを良い事に、更に足を伸ばしてしまいました。
それがこういう事になるんです。
犬の散歩をしている人以外、会う人もありませんわ。
王の塚とは光仁天皇御陵です。
遷都1300年祭の式典に際し、天皇、皇后両陛下がおいでになったという天皇陵です。

ホント、どうして元旦から私ゃ、こんな雪の中にいるんでしょう……積雪なんていらないってのに(T_T)
大人しく橿原神宮辺りでふらついてりゃ良かろうものを。

八嶋御陵帰り道、しっかりアイスバーンが所々に残っておりまして、ギアをセカンドに入れて唸りながら、県道まで引き返しました(;_;)
こうなりますと、開き直っても大した事ありません。
もう日が落ちているというのに、どうせ帰り道、こちらにも寄ってまいりました。
お馴染み、崇道天皇八嶋御陵ですね。
道の真中の石室残骸は干上がり、前池の水位もかなり低くなっていて、既に鳥もねぐらに引き上げて静かなものでした。

ついでに少し先の嶋田神社にもお参りして来ましたが、この時は既に真っ暗、でもまだ十七時半という時間です。
秋に来た時には、御社の周りに足場が組んでありましたので塗り直しが完了していると思うのですが、街灯も少し遠くて良く分かりません。
まぁ、気が向いたら円照寺の門前でも見るついでに、明日か明後日にでも来ようかな。
あ、でも明後日は春日大社に行くんだわ(~_~;)

牽牛子塚古墳、調査中今、墓参といえば、やっぱりここですか?
奈良県高市郡明日香村越の国史跡『牽牛子塚古墳』ですね。

十二日の午前中現在、現地見学会の真っ最中なのですが、炎天下に並ぶのが嫌で二の足踏みまくってます。

まぁ、八角形の一つの角は135度、一辺の長さが確実に残っていますので、墳丘の基底部の規模はしっかり復元できる状況です。

春日宮天皇陵にてそういう訳で、
昨日に出かけたのは飛鳥村ではなく奈良市でした。

今更とやかく言う必要もなく、矢田原町の『春日宮天皇陵』(田原東陵)ですね。
県道の奈良名張線に面した切り通しは江戸時代に造られたもので、本来の御陵の入り口は当地に建ってみれば一目瞭然、切り通しに対して右手方向にあります。
そういう訳で、宮内庁の用意してくれた遥拝所ではなくて、書陵部の職員が出入りしている脇の入り口辺りからの遥拝が私の常です。
周囲の山はツクツクホウシの大合唱、ノシメトンボが飛び交っていました。
周辺の田んぼでは、早くも稲刈りが始まっていまして、近くでコンバインの音がしておりました。

崇道天皇陵

本当ならここから田原西陵にも行くのが、いつものコースなのですが、急に思い立って午後から出かけたので、ここを出たときは既に夕刻、そのまま帰り道での寄り道コースがこちら、『崇道天皇八嶋陵』です。

件の横穴式石室の残骸は、すっかり干上がっていましたが、前池にはカイツブリの番が幾つも泳いでおりまして、相変わらずあちらこちらで蝉と一緒に鳥が鳴いています。
夕方なので烏が帰って来たようで、戦闘機のアクロバット飛行差ながらに、数羽が空中戦を演じておりました。

ここで出会ったのはどういう訳かスズメバチ。
春日宮天皇陵がトンボで、こっちがスズメバチ、う~ん、どちらも肉食系昆虫だわ。
似合いすぎて、微妙(~_~;)
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

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