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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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夕暮れ時の柏原御陵下鴨神社からの帰り、京阪から近鉄に乗り換えるために『丹波橋』で下車しました。
切符を買っているところで、急行が出てしまいまして……チョイト散歩にでも行きますかと駅を出て、向かった先は性懲りもなくこちらです。

いずこも同じ宮内庁指定の御陵です。
かくしてここは、桓武天皇の柏原御陵
昨年の二月以来ですから、かなり来ておりませんでした。
本当なら、ちょうど一年前に訪問していても良かったんですよね。
あの時に拾った奴は、ここの近所に来たかったのだと、今更ながらに思っているので。

人がいないのを良い事に……(ーー;)それにしても相変わらず、墓参という態度ではありませんね(・_・;)
既に夕方だというのに、しきりに鶯が時の声で囀っていました。
嘴太烏も何羽か飛び交っていましたけど、どちらかと言えばここは、鶯よりも烏の方が似合うような気がするのはどうして(?_?)

ところで帰りに参道を歩いておりますと、右手の方の木立だけが妙にざわつくんですよ。
それなのに、周辺の梢は殆ど音を立てていないから、少しばかり気になりますわ。
まぁ、寺社やこういう場所では珍しい事ではないので、何やら分からないまま、立ち止まって眺めておりますと、北東(北北東かな?)の山裾の方に、梢がやたらになびいているのですが、さて、あの方向って何があるんでしょう??
どうも、このあたりとは変な相性があるような?????
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東大寺大勧進公慶上人墓所先日ぼやいておりました龍松院公慶上人の墓所ですが、調べたところいとも簡単に出てきました。
場所は奈良市北御門町、東大寺の頭中の一つ、『思惟山五劫院』にあります、この画像の大きな五輪塔がそれです。
これについて、もう少し詳しい事を書きたいのですが、資料となるべき奈良博の図録が手元に無いので、後日に回します。

鎌倉復興の大勧進、俊乗坊重源上人の墓所は、三笠霊園の中の東大寺墓所にあるのだそうですが、ここには未だに行った事がありません。

本日、斑鳩の法輪寺に秘仏の妙見菩薩立像を拝観に行き、更に足を伸ばして上記の五劫院五劫思惟阿弥陀仏を拝観に行って参りました。

この塀と門のお陰で御陵に見えない……その後、少し上の植村牧場(般若寺の向かいにあります)のレストランで、かなり遅めのランチを取って、もう少し足を伸ばして、性懲りもなく奈良豆比古神社にも御参りして来ました。
例によって今日も宮司さんは不在……昨年のお守り、どうしましょう(-_-;)

帰りに国道がやけに混んでいたので、県道188号線を通る事と致しました。
この途中に何があるか……今更言う事でもありませんが、八嶋御陵です。
前池は水が満々、道の真ん中の件の石室が水没しておりましたσ(^◇^;)
門の向こうに……やはり忘れている墓参です(^^ゞ
ここを訪れたのは18日、田原西御陵、東御陵に参り、奈良豆比古神社を詣で、佐保山東御陵、西御陵を巡った後です。
今は閉園した奈良ドリームランドの入り口脇の細い道を上がって行く途中に、この小さな墓はあります。
奈良市法蓮佐保山の那富山墓、ここは聖武天皇と光明皇后の間に生まれた皇太子の墓所です。
基親王某王などと呼ばれていますが、たった二歳、実は満一歳になる前に亡くなってしまいました。

神亀四年閏九月丁卯(29日)、皇子誕生す。
そして十一月二日には立太子しますが、翌年の九月丙午(13日)には、“皇太子薨しぬ。壬子(19日)、那富山に葬りまつる”の記事が見えています。
三日間の政務の停止は行われていますが、決まりにより七歳に満たない者には喪礼は行わないので、皇太子とは申せ、それに従ったようです。

ここ最近、このお墓の門は殆ど開いていない様子で、私が行った時にも鍵がかかっていました。
そういう訳で門越しに何とかこの程度は見えます。
このお墓には隼人石と呼ばれる、線刻画のある石が置かれていることで有名です。
ネズミやウシの顔をした半裸の人物像が線で描かれているのですが、拓本が本などで良く紹介されていますので、御存知の方も多いかと思います。
本来は十二支、十二方位が揃っていたと考えられますが、今では四つしか残っていないそうです。
時々、人は訪れているようです……四枚の写真をつなぎ合わせているので、ちょっと見づらい画像ですが、二つの小さな円墳(?)が並んでいます。
墓参と申せば一昨日の続き、ここは京都府木津川市にあります藤原百川とその内室、諸姉の墓所とされている所です。

実は一昨日の現説の後、すぐ近くにあるはずの『和泉式部の墓』および『平重衡の墓』を訪ねようと思っていたんです……が、その場所の地図を忘れて来まして、駅まで戻ってみたのですが、観光案内のようなものは見つけられずに、それじゃ『相楽神社』にでも行ってみようかと、JR学研都市線が程なく来たのを幸い、西木津駅に向かったのが、ここを久々に訪れる切欠でしたσ(^◇^;)
この辺は、持っていた地図に載っていたんですね、幸いにして(^_^;)
こちらの神社は、御祭神からしても八幡宮ですか、三間社の流造り、実にきれいなお社です。
気が向きましたら、その画像もいずれあげたいと思っています。

そこから近鉄京都線の山田川駅までフラフラと歩いて行く途中の、住宅地の中にこの墳墓は忽然と現れます。
ここが百川夫妻の墓所と定められたのは明治二十七年の事だそうで、真偽のほどは殆ど分からないようです。
盛り土も墓所として整備するに当たってきれいにしたようで、本当に円墳なのか、はたまた方墳なのかも見た限りでは分かりません。
しかし住宅地内の公園として整備され、定期的に掃除もされているようで、桜の時期などにはご近所の方の気軽な花見場所にもなっていそうです。
ブランコがありましたので人のいないのを幸い、いい年をして漕いでおりましたσ(^◇^;)
いつぞに長岡宮大極殿跡でも、同じような事をしていたっけ……(~_~;)
たまに乗ると気持ち良いんだよ、こういう遊具ってのは。
和束町の茶畑の中に一昨日は木津川市(京都府)、昨日は神戸市(兵庫県)、そして今日は甲賀市(滋賀県)と、何となく遠出ばかりが続いています。

甲賀市の紫香楽宮跡周辺まで、往復で200キロ弱、車を転がしておりましたが、途中で寄り道をした場所の一つがここです。
京都府相楽郡和束町にある宮内庁指定の安積親王和束墓です。

天平十六年閏一月十一日、
是の日、安積親王、脚の病に縁(よ)りて桜井頓宮(かりみや)より還る。丁丑(十三日)、薨しぬ。時に年十七。従四位下大市王、紀朝臣飯麻呂らを遣して葬(はふり)の事を監護(みまも)らしむ。親王は天皇の皇子なり。母は夫人正三位県犬養宿禰広刀自、従五位下唐(もろこし)が女(むすめ)なり。”

本当に小さな墓所です……この様に『続日本紀』に見えますが、井上内親王不破内親王という強烈な同母姉妹に挟まれて、かなり影の薄い方です……というのは早くに亡くなったからでしょうか。
それでも『万葉集』に大伴家持やら市原王らとの交友が見られるためか、はたまた何処かの先生の言い出した暗殺説が一人歩きしているせいか、それなりに名前は知られているようです。
私は再三申しますが、この方の暗殺説にはかなり懐疑的です。
藤原夫人(後の光明皇后)生出の親王が亡くなって、聖武天皇にとってはこの安積親王が唯一人の親王だったにもかかわらず、立太子もしないままに十七歳でなくなっているのは、確かに理不尽に思えましょうが、この親王を除く必要性が誰にも有りそうにない事は、よくよく考えてみれば分かるような気も致します。

それはともあれ、国道163号線から県道5号線を北東に上がって信楽方面に行く途中に、この小さな墓所はあります。
道から見上げれば、茶畑の高台にポツネンと見えているのですが、実際に登って行くとかなり小さな円墳である事が分かります。
奈良市田原の茶畑の中にも、志貴親王御陵や太安万侶墓などがありますが、それ以上に訪れる人も稀な墓所なのかもしれません。
田原西御陵こちらを最後に訪れたのは、今年の一月十八日ですから既に8ヶ月がたっています。
相も変らぬ御影石の柵やら白い神宮鳥居、これじゃ何処やら分かりませんか?

こちらは奈良市矢田原町にある『田原西陵』、別名を『春日宮天皇陵』といいます。
まぁ、平たく言いますと、宮内庁の定めた『志貴親王陵』ですわ。
私が年に何度も出没する場所……という割には、ここ最近は半年に一度も訪問していませんね(-_-)
馬鹿正直にここを本当に親王の御陵だと信じているのか否かは別としまして、なかなかに風光明媚、茶畑の真ん中の静かな御陵です。
周囲を巡ってみますと、終末期古墳にしてはやや大きめの円墳のようです。

御陵に限らず、古墳の類には墳丘があるのですが、これがこの様に大抵は木々に覆われているため、形が定かではありません。
遠望した時、この墳墓で言えば一番高くそびえているこの木が目に付くでしょうか。
そのせいかこの木を墓所のモニュメントのように見てしまう事が多いような気がします。
鳥居や石碑よりは、何となく親しみも湧くような気が致しまして(^_^;)


田原東陵土曜日に雨に降られて行き損なったので、意地になって翌日にリベンジしたのですが、このたびも何をしにいったという訳ではありません。
こちらは奈良市日笠町の『田原東陵』こと『光仁天皇陵』です。

大きな声で言う事ではありませんが、このくらいのサイズの御陵は、周囲をぐるりと巡る道がついている事が多いです。
一つには宮内庁の職員の方が見回るためのルートにもなっていますし、ご近所の方が裏側に抜けるルートにもなっています。
まぁ、墓陵の中に立ち入る訳ではないので、私も時々歩いております。
ところがこの御陵の周囲の細道、この夏の間に草刈をしていなかったのか、途中までしか行く事ができません。
周囲の畑との間にはワイヤーの柵が張られているので、そちらに入る訳にも行かずあきらめました。

それにしても御陵というところは色々な動植物に逢う所のようで、田原西陵、東陵共にシマヘビが出てきてくれました。
西陵の方は30センチもないような子供の蛇ですが、東陵では1メートル近い奴でして、すぐ手前に脱皮した皮まであって、鎌首もたげて日向ぼっこをしている様子でしたが、こちらに気づいて草むらに入っていってしまいました……済まん事をしたかな(~_~;)

もう一つ面白いことに、この辺り、まだセミの声がかなり聞こえます。
メインはツクツクホウシですが、時々ミンミンゼミも混じっていましたか、街中ではとうに鳴き止んでしまっているというのに、標高の高いところではまだ生きているんですねぇ。
この斜面も背面カットなんだろうか。こちらに行ったのは先週の日曜日、十日の事、つまり『石光寺』に行ったついでです。
この物置小屋みたいなのって何かって?
葛城市にある『鳥谷口古墳』です。
土取り工事中に偶然発見されてから、既に四半世紀が経っています。


石棺に見えますが、これが石郭です。実に奇妙な横口式石郭で、組み合わせ式の家型石棺を利用して石郭を築いています。
更なる特徴としまして開口部がかなり狭く、小口側ではなくて横にあるんですね。

そりゃ何だって?こちらの写真を御覧下さい。
これが開口部なんです。
横穴式石室にしても横口式石郭にしても、埋葬する部屋を作ってから遺体を収めますので、不謹慎な話、死後硬直した成人の体をここに納めるにはかなり無理があるんですね。
そこでかの河上邦彦大先生の御説では、再葬骨か火葬骨を納めたのではあるまいか云々……
そういう訳で天武天皇の某皇子の再葬墓だというセンセーショナルな推測を武器(?)にして、移築なんてとんでもない、この場所で保存しろと叫び声を上げたのも、ずいぶん昔の事ですね。

この場所は、二上山の奈良県側の下山ルートとして良く使われる馬の背からのコースの途中にあるので、訪れる人はちょくちょくいるようです。
私としては訪れるのは数年ぶりでしょうか。


これが畝傍御陵橿原神宮の参道を車で走っていたところ、宮内庁の畝傍管区事務所前の駐車場が開いていました。
もしかして、天皇皇后両陛下の御成婚五十年のお祝い記帳をしているのかしらと、ガソリンを入れに行った帰りに寄ってみました。

ところが事務所は開いておらず、記帳云々の文字も見えません。
う~ん、単に春の行楽シーズンついでに、このあたりまでおまいりに来る人用に駐車場も開いていたのでしょうか?

そういう訳で、久々に行って参りました『畝傍御陵』こと、神武天皇御陵です。
正面の門も今日は開いていました。
奥の門が開いているのは、未だ見たことはありませんが(^^ゞ

気候が良くなってきたので、そろそろ畝傍山にでも登ろうかしら……と思いつつ、本日は八木界隈で遊んでおりました。
北摂というところは、先日に行った向日や長岡京のような乙訓に負けじ劣らじ、奈良からは行きにくい場所です。
というか、阪急沿線は近鉄からのアクセスがとにかく悪いんですよ。
もうすぐ阪神との相互乗り入れも始まるんですけど、それでも行きにくい事はあまり変わらないような気がしますわ。
うちのボスは、この北摂から中和に通ってるんですから、その事だけでも頭が下がりますわ。

ところで北摂の箕面市に『勝尾寺』という名刹があるのは有名なところですが、ここの開基が開成親王だというのは、ここの戯言でも再三書いております。
そういう訳で、この寺の近くに宮内庁の管理する陵墓参考地としての開成親王のお墓があるんです。
田原西・東陵柏原陵には再三出没する私ですが、ここには一度も行った事がないんです……(-_-;)

勝尾寺の御本尊御開帳に合わせて行こうなんて昨年から思っていたのですが、三度ほどあった御開帳の時期に、やたらと予定が立て込んで、ついに行けず終いに終えてしまいました(/_;)
最後の御開帳は3月1~3日、これに気付いたのは、何と今日の事ですわ……泣くに泣けないぞ(T_T)
次の御開帳って、果たして私の生きている間にあるんだろうか……って、大袈裟??
それでも墓所は逃げやしないと、近い内に墓参でも行こうかなと思っておりますが、桜の頃はやっぱり混むのかな、紅葉の時期はかなり混む時いてますが。

ところで随分前から思うのですが、Wikipediaに書かれている開成親王の記事って、かなり眉唾に思えるんですよね。
恐らくは
勝尾寺に伝わっている伝承から書かれているんでしょうけれど。
天平神護元年に宮中から出たのは、どう転んでもこの御仁じゃない!
この年に起きた事については、昨日の記事にゴタゴタと書いていますけどね。

だからって、何が正しいかなんて分かりやしませんけど(ーー;)
大和高田市のとある遺跡の内容なんて、もっと訳分かりませんけどね……この辺からも、とある大学の先生の発言からも、このフリー百科事典は全面的に信じない方が良いみたいですわね。

しかし、またこの二~三日、やたらに寒いです。
昨日から夜は特に寒いので、何となく ↓ の曲をエンドレスで流してるんですわ。
この画像のイメージは『核の冬』だな……ある意味、自然災害による被害から祈る春よりも複雑な気がする。
http://www.apbank-ecoreso.jp/07/harumatsuibuki/pv.html
ここでも同じ、宮内庁指定の御陵今日の予定では、東漢氏(やまとのあやうじ)でテンションが上がるはずだったのですが、せっかく高取町まで来たのだから、久々に『岡宮天皇陵』にでも寄ってくか、と考えた所からおかしくなりました(-_-;)

岡宮天皇 真弓丘陵
“まゆみきゅうりょう”ではなく“まゆみのおかのみささぎ”と御読み下さい。
『万葉集』に詳しい方ならばすぐにピンと来るでしょう。
ここは宮内庁の指定する、草壁皇子(日並皇子)の御陵です。
どうしてこんな斜めから、写しているのかと申しますと、この御陵の正面、南側は斜面になっているので、東側から拝する形になるためです。

考古屋にしても文献屋にしても、ここを馬鹿正直に草壁皇子の墓所と認めている人は、滅多にいないと思われます。
ここ以外の候補地もいくつかあったようですが、ここ四半世紀、最も有力と思われているのはこちら……
少し分かり難い場所にあります。
この緑色の高まりは何?
有名な『束明神古墳』です。
岡宮天皇陵からは歩いて数分、佐田の集落の端の春日神社の境内にある終末期古墳です。
この神社自体が分かり難い場所にあるので、最近では至る道のそこかしこに、『←佐田・束明神古墳』の看板が掲げられています。

二~三年ぶりに来たのですが、神社の階段って、あんなに長かったっけ?^_^;?
ともあれ石段を登って行くと、絵馬堂に並ぶように、右手前方に墳丘が見えて来ます。
神社本殿の側(西側)から見ると、あまり大きく思えないのですが、東側から南側に回りこみますと、終末期古墳にしては結構な高さの墳丘です。
そちらから北側、つまり墳丘の背後を見てみますと、実に大胆な背面カットが見られます。
思わず「すげぇ……」と関東弁で感嘆の声を洩らしたところ、ちょうど階段を登ってこられた御夫妻に、怪訝な顔をされてしまいましたσ(^◇^;)

気付く方は少ないようですが……この古めかしい燈籠には『束明神』の字が刻まれています。
これがこの古墳の名前の由来となっているそうです。
この佐田では、昔よりこの塚を貴人の墓所としてあがめていたそうで、燈籠には嘉永四年の年号が刻まれ、奉納者として的場姓の三人の名前が見えます。
確かに神社のご近所には、的場さんが多いです。

どうして『塚明神』ではなく『束明神』なのか?
これについては、かつてここを発掘調査された河上邦彦氏の御説によりますと、本当は『草壁明神』としたいところを、万葉集の草壁皇子の歌から言葉を借りて、カモフラージュしているのかも……どうも、この先生、何処まで本気で言っているのか、時々判断に苦しみます(~_~;)
いや、御本人は結構、ロマンチストの積りのようで、はい(-_-;)
個人的には、そそられる説なんですけど……

ところで背面カットって何?
終末期古墳は南向きの山の斜面に作られる事が多く、斜面の途中に平坦場を作るために、垂直に斜面を削って造成しているんですね。
『束明神古墳』クラスになりますと、これがすごく大きくて、現在の神社は背面カットの内側に置かれているも同然なんです。
背後の山壁、こいつがまさに人工的に削られた斜面なんです。

昔を思い出せないくらい、綺麗になってます。これを見て思わず、もう一つ足を伸ばしてしまったのが、こちらの『マルコ山古墳』です。
場所としては明日香村になりますが、字名は真弓、この古墳も真弓丘にあるので、草壁皇子の墓所の候補となっていました。
村の方で墳丘や周辺の土地を買い上げて、公園として整備したため、様子がとても良く分かります。
調査によって二段に構築された六角形の墳丘だという事が判明しています。
先の『束明神古墳』は八角形墳、他の例からしても明らかに皇族、それもかなり上位の人の墓所である事が知れますが、六角墳というのは『マルコ山古墳』以外に例はありません。
それでも生半可な豪族クラスの墓ではない事は窺えます。

ところで、どうしてこんな偏ったような写真を写しているのかと申しますと、背面カットの大きさを示すためです。
画像をクリックすると少し大きくなりますが、右奥の方に梅の花が咲いているのが分かるでしょうか。
この木の背後に、ちょうど堤防のように見える高まりが伸びています。
これがこの古墳の背面カットです。

大化の薄葬令よりも後の墓を終末期古墳としていますが、この規定は上位皇族にはあまり適用されていないようです。
古墳の造られなくなって行く時期ではありますが、これらの大胆な造成工事を見ていますと、やはりこの時代の天皇権の大きさは生半可なものではなかったのかもしれません。
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