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甲賀市の紫香楽宮跡周辺まで、往復で200キロ弱、車を転がしておりましたが、途中で寄り道をした場所の一つがここです。
京都府相楽郡和束町にある宮内庁指定の安積親王和束墓です。
天平十六年閏一月十一日、
“是の日、安積親王、脚の病に縁(よ)りて桜井頓宮(かりみや)より還る。丁丑(十三日)、薨しぬ。時に年十七。従四位下大市王、紀朝臣飯麻呂らを遣して葬(はふり)の事を監護(みまも)らしむ。親王は天皇の皇子なり。母は夫人正三位県犬養宿禰広刀自、従五位下唐(もろこし)が女(むすめ)なり。”
それでも『万葉集』に大伴家持やら市原王らとの交友が見られるためか、はたまた何処かの先生の言い出した暗殺説が一人歩きしているせいか、それなりに名前は知られているようです。
私は再三申しますが、この方の暗殺説にはかなり懐疑的です。
藤原夫人(後の光明皇后)生出の親王が亡くなって、聖武天皇にとってはこの安積親王が唯一人の親王だったにもかかわらず、立太子もしないままに十七歳でなくなっているのは、確かに理不尽に思えましょうが、この親王を除く必要性が誰にも有りそうにない事は、よくよく考えてみれば分かるような気も致します。
それはともあれ、国道163号線から県道5号線を北東に上がって信楽方面に行く途中に、この小さな墓所はあります。
道から見上げれば、茶畑の高台にポツネンと見えているのですが、実際に登って行くとかなり小さな円墳である事が分かります。
奈良市田原の茶畑の中にも、志貴親王御陵や太安万侶墓などがありますが、それ以上に訪れる人も稀な墓所なのかもしれません。
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