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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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『星うさぎ』はブルーベリーフレーバー今更ながらの事ですが、何やら物事の進まぬ状況に陥っております。

いい加減に書き始めれば少しは気も晴れるかと思うのですが、最初のシーンがしっくりと来なくて、全然進んでおりません。
一層の事、官軍が近江から凱旋してきた辺りから話を始めましょうかね。
この遠征に山部王と蔵下麻呂は参加しているけれど、種継や雄田麻呂、縄麻呂は都に残っている事になっていたはず、和気清麻呂辺りはどうしましょうかね。
そもそも、この人にしても種継にしても、授刀衛府にいるという設定にして問題ないのかなぁ(゜.゜)

こういう事を考えている内は、結構、建設的な気分でいられるのですが、チョッと違う事を始めると雑念ばかりのマイナー思考に傾くような……

験無 物乎不念者 一坏乃 濁酒乎 可飲有良師

万葉仮名というのは漢文の要素も入ってくると、何と読んで良いものやらさっぱり分かりません。
そもそも私は万葉集をまともに勉強した事は、ついぞありませんし(^_^;)

(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし

神亀四年に大宰帥として赴任した大伴宿禰旅人(淡人)の『酒を讃むる歌』十三首の筆頭に詠まれている、大変有名な歌です。
歌の意味は、そのまま……詰まらん事考えとらんと、酒でも飲もうや~って。
この時の大伴卿の官界での立ち位置を説明するのは省略しまして……

さて、この時代、既に清酒はあったはずなのですが、筑紫では濁酒が一般的だったのでしょうか?
『坏』という字は『つき』と読みますが、木偏ではなくて土偏です。
これは、いわゆる『かわらけ(土器)』で飲酒するのが一般的だったためです。
今でも木製の物は『杯』、土製の物は『坏』の字を当てて区別をする場合があります。
そして『かわらけ』は野焼きで大量生産品、使い捨てで燈明皿などにも転用されたりもします。
律令期から中近世まで、あちらこちらでこれでもかと言うほど出土しておりまして、現在でも御祭りなどで使う例も見られます。

この画像の『星うさぎ』は葛城市の『梅乃宿酒造』が販売している発泡日本酒です。
本当は『月うさぎ』の方が好きなのですが、ちょうど売っていなかったので……(-_-)

それにしてもTwitterとやらが、滅茶苦茶に調子悪い……画像も上がらないし、画面表示も良く分からないから、当分の間放って置きましょうっと(--〆)
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藤と熊蜂一昨日の『和舞と和琴』の講座に、万葉集に見える琴の例が挙げられておりました。
これが結構有名な、大宰帥の大伴旅人が中衛大将の藤原房前に、書状と共に『梧桐の日本琴一面』を送るという歌の遣り取りです。
巻第五810~812ですね。

内容は中国の古典でも踏まえているのか、対馬産の桐で和琴を作ったところ、木の精が若い女性の姿で夢枕に立ち、寂しく朽ち果ててゆく身だと思っていたところを琴に仕立ててくれた事を感謝して、

如何にあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上わが枕かむ

と、詠ったので、大伴卿も

言問はぬ樹にはありともうるはしき君が手慣れの琴にしあるべし

と返し、琴の精が更に喜んだところで目が覚めた……そういう訳で、この琴を進上奉ります。
それに対して北家房前は謹んで歌を返します

言問はぬ木にもありともわが背子が手慣れの御琴地に置かめやも

とまあ、このような内容ですかσ(^◇^;)

天邪鬼うめぞーとしては、この歌を何で覚えていたかと申しますと、房前の肩書きとして『中衛高明閣下』と持ち上げている箇所のためなんですね。
中衛府は神亀五(728)年に令外の官として新たに作られ、誰が長官職(大将)に着任したかが『続日本紀』に書かれていないのですが、この旅人の書簡の日付が天平元(729)年十月七日になっているため、藤原房前の就任が分かるとされる資料なんですね。

この年、大伴旅人は正三位大宰帥で六十五歳、藤原房前は正三位中務卿兼中衛大将で四十九歳、とうに不惑も越え切った高官が、何の機嫌の取り合い、腹の探り合い、誉め殺し合い??(゚_。)?(。_゚)??
旅人が『うるはしき君が手慣れの琴』と言ったかと思えば、房前が『わが背子が手慣れの御琴』と返す……絶対に本気で言ってる訳じゃないのが見え見えです(^_^;)

一般的な解釈としては、左大臣(長屋王)失脚に際して大宰府に追い払われた大伴氏の氏長は、南家大納言よりも話が分かりそうだと踏んだ北家に、中央政権復帰の仲裁を頼もうと頭を下げているという所ですね。
私としては、とても分かりやすい内容です( ̄▽ ̄)。o0○
そう考えても、この時の房前の立場って、考えるほどに微妙ですわね……
果たしてこの旅人の嘆願、どの程度に功を奏したものやら……まぁ、次の年くらいに都には戻って来て大納言に就任するのですが、更に翌年の七月に亡くなるんじゃなかったのかしら?(゚_。)?(。_゚)?

それにしても、昔々、犬養孝先生がお元気だった時、何かの折につけ『手慣れの御琴』を歌いましょうと、耳かじりで歌った記憶があります。

手慣れの御琴 共にかきなで 暮れ行く秋を愛でしぞ今は
海山遠き彼方の里に 変わらぬ月を眺めぞ明かす とわたる雁よ思いを運べ……

ってな歌詞だったと思うんですが、何気にうろ覚え(゜.゜)
誰に聞いても、そんな歌、知らないと言われたのも覚えております……
 
以外に目立ちません……何となく、昨日の続きのように……

この歌碑は私の出没場所の一つ、奈良市矢田原町の田原西御陵、または春日宮天皇陵の切り通しの入り口付近に立てられています。
私はつい、この歌碑の前辺りに車を停めてしまうので、嫌でも目に付くのですが、案外知っている人が少ないと聞いています。

さて、ここに書かれている文字、何度見直しても

いわはしる たるみのおかの さわらびの もえいずるころに なりにけるかも

と書かれているような気がするのですが……

この歌の内容について、今更云々するのもおこがましいので最低限のデータのみ記しますと、

万葉集 巻八ー1418 春の雑歌の一番初めにあげられている志貴皇子の歌です。

 志貴皇子の懽(よろこび)の御歌一首
石(いは)ばしる 垂水(たるみ)の上の 早蕨(さわらび)の 萌え出づる春になりにけるかも
 志貴皇子懽御謌一首
石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨

さて、この歌碑を揮毫されたのはどなたかと申しますと、左端の方に『昭和五拾年 七月吉日 賀陽邦寿』と書かれているように見えます……でも、100パーセント拡大しても良く分かりません(-_-;)
賀陽邦寿さんってどなたでしょう……ネットでチョイとしらべてみましたところ、『邦寿王』で出て来ました。
更にはこの方、日本居合道協会の初代会長だそうです……(゜.゜)
それにしても何となく気になるのは、どうして旧皇族の方がこの歌を揮毫されたものやら、まあ、つまらない想像はやめておきましょうっと……(゜_゜>) 
伝飛鳥板蓋宮跡にあります相変わらず、このカテゴリーは記事が増えません。
万葉歌碑は橿原市にも桜井市にも奈良市にも、漬物石にするほどありましても、そのような不届きな事をする人はまずおられません。
私も意味もなく写真を撮って来たりするのですが、全然、ここには上げておりませんねぇ……(-_-;)
そういう訳で、この前のバーチャル飛鳥京の日に写した画像でもあげて見ましょう。

この歌碑は、案外、最近出来た物だと思われますが、いつからここにあったのか、チョッと記憶にありません。
場所は明日香村岡、伝飛鳥板蓋宮跡といった方が分かり易いでしょう。
この場所、実は板蓋宮のみではなく、後岡本宮や浄御原宮も同じ場所で遺構確認されています。

歌碑に刻まれた歌は志貴皇子の

 采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く

  婇女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久

揮毫は日本画家の平山郁夫氏です。

う~ん、この歌って明日香村に立てられた歌碑の第一号として犬養孝先生が揮毫して、甘樫丘の途中に立てられたはずです。
それをまたどうして、新たにこの場所に立てたのでしょうねぇ……
ところで、こちらの歌碑の画像はあるのかと申しますと、古いパソコンのどこかに入っているはずです。
ここ最近、甘樫丘には登りに行ってないからなぁ……
白毫寺境内の万葉歌碑皇族に挽歌を献上したり、行幸に従って歌を詠んだ人は、さて、やはり宮廷歌人のいうカテゴリーで括られるべきなのでしょうか。
この歌の作者である笠朝臣金村も、そのような括りで扱われる人でしょうか。

何せこの人は『万葉集』にのみ名前の見える人でして、プロフィールがほぼ分かりません。
『万葉集』に残る歌の詞書から、いつどのような行幸に参加したかは多少分かっても、どの司のどの官職にいたのか、『続日本紀』には全く名前が見えないので、五位以下の下級官人と考えられている人です。
同じ笠朝臣で多少とも有名人といえば、笠朝臣麻呂(出家して沙弥満誓)くらいしか思い浮かびません。

 高円の野辺の秋萩 いたづらに咲きか散るらむ 見る人無しに  巻第二-231

この歌碑の歌は、長歌に伴う二首の短歌の一首です。
-霊亀元年歳次乙卯秋九月、志貴親王の薨(かむあが)りましし時の歌一首 短歌を併せたり-
そして -右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出づ-
とありまして、この霊亀元年(715年)の挽歌が万葉集に見える金村の最初の歌となっています。

ちなみに長歌とその他の事については、こちらのページを参照して下さい(~_~)
そもそも、このカテゴリーのタイトルからして、人によっては怒り出すんじゃないかしらねぇ……^_^;
往々にしてと言うか、私の知る範囲では、
「私、万葉集、好きなの」と語る人の十中八九は、浪漫を語りたがるもののようですから。

私の書く話に歌人として有名な人が出て来たところで、その人がする事は……太政官への不平不満を言う、上官の悪口を囁く、家族への愚痴をこぼす(ーー゛)
誰かって、大伴家持とか志貴親王とか(~_~;)

一昨年のムーンライトin藤原京より日曜日に『万葉文化館』に久々に行きまして、特別展の後に少し時間があったので、常設点の部屋に行ったところ、ちょうど『万葉劇場』の始まるところだったので、タイトルも確かめずに入ってしまいました。
『万葉劇場』っちゅうのは、万葉歌と歌人をクローズアップして、音と映像、ついでにキャラクターの人形によって見せてくれる、結構、請った内容の展示なのですが……三本しか作品がないので、何度か通う内に何度も見る事になるんですよね。
私はここの博物館、関西文化の日には毎年行くので、そのたびにどれかの作品を見ておりました。
この日に見たのはよりによって『額田王』
これがねぇ……ここ最近は、見ている方が恥ずかしいような内容に思えてきて……それじゃ見なければ良いのにと、我ながら思うのですが(-_-;)

  天皇の蒲生野に遊猟したまひし時に、額田王の作れる歌
 あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る  (巻第一‐20)

  皇太子の答へませる御歌
 紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆえにわれ恋ひめやも (巻第一‐21)

この有名きわまる歌の捉え方が、大マジに額面通りですから始末が悪いんです。
この二首、雑歌として載せられているので、間違っても焼けボックリに何とやらな男女関係に密かな云々みたいなメロドラマを考えるべきではないと言う意見の方が、私としてもしっくり来るんですわな。

ためしに若い女性に、どういう状況で詠まれたと思うかと聞きますと
「宴会での余興と言うか、戯れ歌だと習いましたけどねぇ」
「これ事実だとしたら、天武天皇、天智天皇より先に持統天皇に殺されると、違いますの?」

昨年か一昨年にこの博物館に行った時、こいつを見て出て来た初老の御夫婦の感想が聞こえたのですが、
「この脚本はちょっと酷いよなあ」と旦那様
「まあ、無難な線で綺麗にまとめているのじゃないですか」と奥様
やはり、年配の方でも受け入れかねるようなところがあるんですわね。
いずれの意見にも、何となく安心しましたわ。
海龍王寺にて万葉歌碑と供に、私が性懲りもなく写して来るのが、會津八一の歌碑です。
歌人としての名で、秋艸道人と呼ぶべきでしょうか、こちらの歌碑もその名前で刻まれています。

しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の はしら の まそほ かべ に ながれむ

八一の歌は平仮名ばかりなので、何度か口に出してみないと、意味が分からない事が多いです。

時雨の雨 甚くな降りそ 金堂の柱の真朱 壁に流れむ

かえって漢字にしてしまうと、別物になってしまう様な……

この歌碑は奈良市法華寺北町の海龍王寺にありますが、とにかく目立たない所にありまして、何度か行った人に聞いても記憶にないと言う返事が返ってきます。

私が大昔(念のため申しますと、この碑が建てられた昭和45年よりも後の事ですよ)に、始めてこの寺に行った時から、この歌碑の事は良く覚えているのですが、その理由が……同伴した友人も、誰も読めなかった……(@_@;)
そのくらい、八一の字は読みにくいんです……巧いのか下手なのか分かりません。
もっと読めないのは、佐佐木信綱博士(国文学者)の字ですけど(~_~;)

八一がこの寺に行ったと思しき大正7~8年ごろには、かなりの破れ寺状態だったらしく、西金堂の白い壁に柱の赤い色が、雨でにじみ流れているのを実際に見て詠んだ歌だと聞いております。


ところで、今日、ボスと交わしていた謎の会話
「あれ、何度くらいあると思います、120度じゃきかないですよね」
「八角形の一角って、何度や」
「えーと、360÷8が……45だから、180-45で、135度ですか?」
何故か、算数をやっておりました(--〆)
この理由は後日……何じゃ、そりゃε-( ̄ヘ ̄)┌
奈良市 五劫院にて何となく昨日の続き?
万葉集ではおなじみの人の歌でも。

奈良市北御門町の思惟山五劫院の庭にある、山上憶良の歌碑です。
五劫院といえば、いつぞにも書きましたとおり、龍松院公慶上人の御墓のある寺で、御本尊の五劫思惟の阿弥陀仏で大変有名です。

……で、何故この御寺に憶良の歌碑があるのかはよく分かりません(-_-;)

水沫(みなわ)なすもろき命も 栲縄の千尋にもがと願ひ暮らしつ  巻第五-902

この歌は独立した歌ではなく、

老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦(たしな)み、及(また)児等を思ふ歌七首-長一首短六首

という題がついている一連の歌の、六番目(短歌では五番目)の歌です。
更には

天平五年六月丙申朔三日戊戌に作る

と脚注もありますが、天平五年は憶良の亡くなる年です。


この歌碑を立てたのは『奈良市に万葉歌碑を建てる会』という会で、ここでリンクを張ったサイトでも、この歌碑や歌の意味は紹介されているのですが、何故この歌をこの場所なのかが分かりません。

実を申しますと山上憶良に関しては、私は殆ど無知でして……四十を過ぎて遣唐使として日本に帰ってきた後に、初めて頭角を現し(それ以前は無位だったらしいです)、『日本書紀』、『類聚歌林』の編纂に関わったとか、聖武天皇の皇太子時代の教育係の一人だったとか、その程度しか知りません。

とにかく歌を作れば、貧乏は辛いぞ、家族は大事だぞ……というような類が多くて、私の興味範疇からかなり外れる人なのですから、今までも殆ど具体的に調べた事がありません。
これらの歌、少なくとも五位をもらう以前の若い頃の作品か、それを思い出しての追想のような気が致します。
元薬師寺前の万葉歌碑あまりにこのカテゴリーが少ないと言うか、完全に忘れ去られているので、久々に何か書いてみます。
橿原市内に限らず、周辺市町村にはかなりの数の『万葉歌碑』があります。
行くたびに写真は撮ってきているのですが、それをことごとく忘れておりましてσ(^◇^;)
目に付いたやつから紹介でも……

altにも出ますよう、元薬師寺の駐車場の一角にある、大伴宿禰旅人の歌の碑です。

わすれ草わが紐に付く 香具山の故りにし里を忘れむがため   巻第三-334

これは大宰帥をしていた神亀四(727)年から天平二(730)年の間に詠まれた歌五首の内の一首です。
寧楽京(ならのみやこ)・象小川(きさのおがわ)・浅茅原(あさじがはら)・香具山(かぐやま)・夢のわだと、それぞれを思い出として歌に詠んでいます。

え~と、このカテゴリーのタイトルには、わざわざ浪漫は抜きと謳っておりますので、その路線で与太を飛ばしましょう。
神亀~天平年間ですから、時の天皇は聖武天皇、廟堂の最高実力者は長屋王です。
まあ、知太政官事に舎人親王はおられますが、左大臣がトップでしょう。
旅人が大宰帥として赴任した前後の太政官のメンバーを見てみますと、下記の通り。

  知太政官事 舎人親王
  左大臣    長屋王
  大納言    多治比池守
  中納言    大伴旅人  藤原武智麻呂  阿倍広庭
  参 議    藤原房前 

このメンバー、長屋王が亡くなって藤原武智麻呂、多治比池守が亡くなって旅人がそれぞれ大納言になる程度しか変化はありませんし、それ以前を眺めても大きな変化はありません。

更に、旅人の就任前後の大宰府関係の記事を探してみましても、殆ど見当たらないような……
神亀五年に渤海使が遣って来て、大武芸(第二代国王)の過激な書状をもたらしておりますが、この使節が着いたのは大宰府ではなく出羽国です。
まぁ、隼人が都に来たり、大隈や薩摩での班田の免除などを言上してますから、南の方での動きへの対処は普通にしているようですが。
他には、防人の停止も見えるから、それなりに仕事はある訳ですが……
国史に大した記録がないので、どうしても万葉集に見える、文人サロンがクローズアップされてしまいまして、いったいこの人達、いつ仕事してる訳よ……みたいなイメージになってしまいます(ーー;)

なにせ帥大伴卿、こちらには御内室も同伴させていますし(翌年に亡くなられます)、その後には陽気な未亡人(?)の異母妹まで呼び寄せています。
そして天平二年に大納言になったので、都に帰ってきますが、何と翌年の七月には亡くなってしまいます。

そもそも大宰府に大きな動きがない(ように見えるけど?)のに、どうして中納言が都を離れるのかが奇妙なものです。
太政官の総論賛成各論反対のとばっちりなのか……
四の五の言わず、大宰府へ行け」という勅命なのか……
このような見方をして行くと、この人は変なところで、息子と共通するような気がするのですが。
先日から『天平万葉論』という本を読んでおります。
私が万葉集関係の本を読むのは、ここ最近では実に珍しい事でして、内容が文法だの歌そのものを鑑賞するような内容では、まず手に取る事もありません。
この本の内容はと申しますと、まぁ、歴史の話がメインという方が良いでしょうか。

天平を冠する年号の時に、編者である大伴宿禰家持の周辺で詠われ、家持の価値観によって選ばれた倭歌が、この「天平万葉」歌です。
万葉集に名前の見えない人でも、何かにつけ歌を捻るくらいの事は、公私に渡る様々な宴席や法要の類に出席をした公家(どういう訳か、私はこの時代に貴族とうい言葉を使うのが好きではないんです……)諸氏には必要不可欠の要素だったと思われます。
したがって、万葉集に歌が選ばれている人は歌人で、漏れている人は歌人ではないという括りは、往々にして成立しないはずです。
まぁ、乱暴な物言いですが、歌人として優れた御仁の歌であれど、家持卿の琴線に触れない歌はいらなかったのでしょう(-_-)

さて、セカンド頁になった方のブログで、随分前に『仏前の唱歌一首』と題された巻第八-1594の歌についての戯言を述べた事があります。
この本の中でもこの歌について、『天平の芸能』と題して慶応大学の藤原茂樹先生が少し触れられています。

「右は冬十月の皇后宮の維摩講に、終日大唐、高麗等の種種の音楽を供養し、此の歌詞を唱ふ。弾琴は市原王と忍坂王(後に姓、大原真人赤麿を賜へるなり)、歌子は田口朝臣家守と河辺朝臣東人と、置始連長谷等と十数人なり」

天平十一(739)年、皇后宮が左京三条二坊(現在はイトーヨーカドー奈良店ほか)にあったのか、故太政大臣邸(現在は法華寺ほか)にあったのかは調べてみないと分からないのですが、かなり大規模な法要だと思われ、この左注に見える名前だけでもそうそうたるメンバーです。
本来は興福寺で行う藤原氏の法要をここで行ったと言う事は、既に公的な催しに准じ、藤原氏のみならず他の氏族や皇族の出席も数多あり、奏された楽も雅楽寮の楽人によるものだったに違いないとの見解です。

では、ここからは私の戯言……(ーー;)
左注では「弾琴」と書いて「ことひき」と読ませています。
今までに何度も、法要に限らず古楽の再現などを見聞きした経験はあるのですが、琴弾きはまず男性で、座って琴を弾く事が圧倒的に多いです。
逆に膝の上に置いて弾くという、古来の姿を見る事は滅多にありません。

ところで私の頭の中では、どういう訳か二人の弾琴者は立って、六弦の和琴を弾いているのです。
この具体的な映像がどうして出て来るのかと申しますと、それは『春日若宮おん祭り』の『和舞』の弾琴の姿に起因しているためなんです。
高校を卒業して少しした頃、始めておん祭りに行った時、この和舞の演奏を担当している人たちの姿が、とても印象的に見えたものです。
私の妄想の中では、未だに市原王(まだ十代だったと思われます)は、二人の楽人が両側から支える和琴を立ったままかき鳴らしているんです(~_~;)
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