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これが結構有名な、大宰帥の大伴旅人が中衛大将の藤原房前に、書状と共に『梧桐の日本琴一面』を送るという歌の遣り取りです。
巻第五810~812ですね。
内容は中国の古典でも踏まえているのか、対馬産の桐で和琴を作ったところ、木の精が若い女性の姿で夢枕に立ち、寂しく朽ち果ててゆく身だと思っていたところを琴に仕立ててくれた事を感謝して、
如何にあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上わが枕かむ
と、詠ったので、大伴卿も
言問はぬ樹にはありともうるはしき君が手慣れの琴にしあるべし
と返し、琴の精が更に喜んだところで目が覚めた……そういう訳で、この琴を進上奉ります。
それに対して北家房前は謹んで歌を返します
言問はぬ木にもありともわが背子が手慣れの御琴地に置かめやも
とまあ、このような内容ですかσ(^◇^;)
天邪鬼うめぞーとしては、この歌を何で覚えていたかと申しますと、房前の肩書きとして『中衛高明閣下』と持ち上げている箇所のためなんですね。
中衛府は神亀五(728)年に令外の官として新たに作られ、誰が長官職(大将)に着任したかが『続日本紀』に書かれていないのですが、この旅人の書簡の日付が天平元(729)年十月七日になっているため、藤原房前の就任が分かるとされる資料なんですね。
この年、大伴旅人は正三位大宰帥で六十五歳、藤原房前は正三位中務卿兼中衛大将で四十九歳、とうに不惑も越え切った高官が、何の機嫌の取り合い、腹の探り合い、誉め殺し合い??(゚_。)?(。_゚)??
旅人が『うるはしき君が手慣れの琴』と言ったかと思えば、房前が『わが背子が手慣れの御琴』と返す……絶対に本気で言ってる訳じゃないのが見え見えです(^_^;)
一般的な解釈としては、左大臣(長屋王)失脚に際して大宰府に追い払われた大伴氏の氏長は、南家大納言よりも話が分かりそうだと踏んだ北家に、中央政権復帰の仲裁を頼もうと頭を下げているという所ですね。
私としては、とても分かりやすい内容です( ̄▽ ̄)。o0○
そう考えても、この時の房前の立場って、考えるほどに微妙ですわね……
果たしてこの旅人の嘆願、どの程度に功を奏したものやら……まぁ、次の年くらいに都には戻って来て大納言に就任するのですが、更に翌年の七月に亡くなるんじゃなかったのかしら?(゚_。)?(。_゚)?
それにしても、昔々、犬養孝先生がお元気だった時、何かの折につけ『手慣れの御琴』を歌いましょうと、耳かじりで歌った記憶があります。
手慣れの御琴 共にかきなで 暮れ行く秋を愛でしぞ今は
海山遠き彼方の里に 変わらぬ月を眺めぞ明かす とわたる雁よ思いを運べ……
ってな歌詞だったと思うんですが、何気にうろ覚え(゜.゜)
誰に聞いても、そんな歌、知らないと言われたのも覚えております……
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