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あまりにこのカテゴリーが少ないと言うか、完全に忘れ去られているので、久々に何か書いてみます。
橿原市内に限らず、周辺市町村にはかなりの数の『万葉歌碑』があります。
行くたびに写真は撮ってきているのですが、それをことごとく忘れておりましてσ(^◇^;)
目に付いたやつから紹介でも……
altにも出ますよう、元薬師寺の駐車場の一角にある、大伴宿禰旅人の歌の碑です。
わすれ草わが紐に付く 香具山の故りにし里を忘れむがため 巻第三-334
これは大宰帥をしていた神亀四(727)年から天平二(730)年の間に詠まれた歌五首の内の一首です。
寧楽京(ならのみやこ)・象小川(きさのおがわ)・浅茅原(あさじがはら)・香具山(かぐやま)・夢のわだと、それぞれを思い出として歌に詠んでいます。
え~と、このカテゴリーのタイトルには、わざわざ浪漫は抜きと謳っておりますので、その路線で与太を飛ばしましょう。
神亀~天平年間ですから、時の天皇は聖武天皇、廟堂の最高実力者は長屋王です。
まあ、知太政官事に舎人親王はおられますが、左大臣がトップでしょう。
旅人が大宰帥として赴任した前後の太政官のメンバーを見てみますと、下記の通り。
知太政官事 舎人親王
左大臣 長屋王
大納言 多治比池守
中納言 大伴旅人 藤原武智麻呂 阿倍広庭
参 議 藤原房前
このメンバー、長屋王が亡くなって藤原武智麻呂、多治比池守が亡くなって旅人がそれぞれ大納言になる程度しか変化はありませんし、それ以前を眺めても大きな変化はありません。
更に、旅人の就任前後の大宰府関係の記事を探してみましても、殆ど見当たらないような……
神亀五年に渤海使が遣って来て、大武芸(第二代国王)の過激な書状をもたらしておりますが、この使節が着いたのは大宰府ではなく出羽国です。
まぁ、隼人が都に来たり、大隈や薩摩での班田の免除などを言上してますから、南の方での動きへの対処は普通にしているようですが。
他には、防人の停止も見えるから、それなりに仕事はある訳ですが……
国史に大した記録がないので、どうしても万葉集に見える、文人サロンがクローズアップされてしまいまして、いったいこの人達、いつ仕事してる訳よ……みたいなイメージになってしまいます(ーー;)
なにせ帥大伴卿、こちらには御内室も同伴させていますし(翌年に亡くなられます)、その後には陽気な未亡人(?)の異母妹まで呼び寄せています。
そして天平二年に大納言になったので、都に帰ってきますが、何と翌年の七月には亡くなってしまいます。
そもそも大宰府に大きな動きがない(ように見えるけど?)のに、どうして中納言が都を離れるのかが奇妙なものです。
太政官の総論賛成各論反対のとばっちりなのか……
「四の五の言わず、大宰府へ行け」という勅命なのか……
このような見方をして行くと、この人は変なところで、息子と共通するような気がするのですが。
橿原市内に限らず、周辺市町村にはかなりの数の『万葉歌碑』があります。
行くたびに写真は撮ってきているのですが、それをことごとく忘れておりましてσ(^◇^;)
目に付いたやつから紹介でも……
altにも出ますよう、元薬師寺の駐車場の一角にある、大伴宿禰旅人の歌の碑です。
わすれ草わが紐に付く 香具山の故りにし里を忘れむがため 巻第三-334
これは大宰帥をしていた神亀四(727)年から天平二(730)年の間に詠まれた歌五首の内の一首です。
寧楽京(ならのみやこ)・象小川(きさのおがわ)・浅茅原(あさじがはら)・香具山(かぐやま)・夢のわだと、それぞれを思い出として歌に詠んでいます。
え~と、このカテゴリーのタイトルには、わざわざ浪漫は抜きと謳っておりますので、その路線で与太を飛ばしましょう。
神亀~天平年間ですから、時の天皇は聖武天皇、廟堂の最高実力者は長屋王です。
まあ、知太政官事に舎人親王はおられますが、左大臣がトップでしょう。
旅人が大宰帥として赴任した前後の太政官のメンバーを見てみますと、下記の通り。
知太政官事 舎人親王
左大臣 長屋王
大納言 多治比池守
中納言 大伴旅人 藤原武智麻呂 阿倍広庭
参 議 藤原房前
このメンバー、長屋王が亡くなって藤原武智麻呂、多治比池守が亡くなって旅人がそれぞれ大納言になる程度しか変化はありませんし、それ以前を眺めても大きな変化はありません。
更に、旅人の就任前後の大宰府関係の記事を探してみましても、殆ど見当たらないような……
神亀五年に渤海使が遣って来て、大武芸(第二代国王)の過激な書状をもたらしておりますが、この使節が着いたのは大宰府ではなく出羽国です。
まぁ、隼人が都に来たり、大隈や薩摩での班田の免除などを言上してますから、南の方での動きへの対処は普通にしているようですが。
他には、防人の停止も見えるから、それなりに仕事はある訳ですが……
国史に大した記録がないので、どうしても万葉集に見える、文人サロンがクローズアップされてしまいまして、いったいこの人達、いつ仕事してる訳よ……みたいなイメージになってしまいます(ーー;)
なにせ帥大伴卿、こちらには御内室も同伴させていますし(翌年に亡くなられます)、その後には陽気な未亡人(?)の異母妹まで呼び寄せています。
そして天平二年に大納言になったので、都に帰ってきますが、何と翌年の七月には亡くなってしまいます。
そもそも大宰府に大きな動きがない(ように見えるけど?)のに、どうして中納言が都を離れるのかが奇妙なものです。
太政官の総論賛成各論反対のとばっちりなのか……
「四の五の言わず、大宰府へ行け」という勅命なのか……
このような見方をして行くと、この人は変なところで、息子と共通するような気がするのですが。
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