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そういう訳でここは五條市御山町にある他戸親王の墓所です。
国道168号線を南に下り、丹原で県道55号線よりも一本南側の道を西に向かいますと、右手の尾根に白い鳥居が見えますのですぐに分かります。
しかし、周囲は田んぼや柿畑、どうやって行けばよいのやら……畑の入り口の広くなった路肩に車を止めて、細い道をかなり遠回りして(農作業をしている方を尻目に畦を歩く訳にも行きませんので)たどり着きました。
手前に戦没者の墓と慰霊碑があり、墓地に向かう道と墓所に向かう参道に分かれます。
『光仁天皇皇太子 他戸親王墓』
宮内庁の指定する御陵に比べると、遥拝所もシンプルで石碑などもありませんが、いつものように域内立入り禁止や、魚鳥、竹木等を取るなの木の看板は立てられていました。
周囲を一周する事も出来ますが実に小さな墳丘で、もしかしたら6世紀くらいの横穴式石室の古墳なのではないのかとも思えるのですが……勿論、調査は出来ません。
それにしても見晴らしの良い場所で、下に広がる田んぼでは稲刈りの真っ最中でした。
そこから更に西に行きますと、道路の右手に突然、こちらの御陵が現れます。
『光仁天皇皇后井上内親王 宇智陵』
こここそ駐車スペースなんぞありませんで、御陵のまん前に幅寄せして停めるしかありません……(^_^;)
こちらはまだ、柵の内側に前庭があるのですが、いつも出かける御陵に比べると大きさはさほど変わらないにしても、道から直ぐという立地のせいなのかどこか狭苦しい印象があります。
この後に黒駒町にある御霊神社に行き、そのすぐ近くにあるこちらにも寄って来ました。
『五條市指定史跡 黒駒古墳』
7世紀初めに作られた両袖式の横穴式石室を持つ後期古墳で、紀ノ川流域の影響を存分に受けて、結晶片岩の板材を積み上げて石室が作られています。
十年くらい前に台風で半壊したために急遽調査をしまして、壊れた天井なども積みなおして、盛り土もしなおしたのですが、羨道部、板石積みのように見えている部分は実は土嚢です(・_・;)
この後は霊安寺町にある御霊神社の本宮に行ったのですが、この日はちょうど御祭に当たっていて、氏子の方々が直会の席の真っ只中でしたので、早々に引き上げました。
せっかく五條市まで来たのだから、栄山寺にでも久々に御参りするかと思い、その前に……
何年か前に、鳥取の方から遊びに来た知人を引っ張りまわして来た時以来なので、かなり久しぶりです。
周囲は柿畑だらけ、あの時には畑の作業道路にまぎれて、地図をどう見て良いのやら分からず、畑の作業をしていた方に尋ねたところ、
「ああ、武智麻呂さんね」と、簡単に教えてくれました。
しかし、さん付けって、近所のお爺さんじゃないんだからさ……(ーー;)
まあ、お蔭様でこのたびは迷わずにたどり着けましたが、軽自動車が一台何とか通れるような細い道を入って行く事になるので、対向車でも来たら下がるしかない……
幸いにして、畑作業の人すらいなかったから良かったのですが、車を停めるのも道の上(--〆)
基壇の上にはあまり古くはなさそうな石碑が建てられ、
『當寺本願南家始祖贈太政大臣正一位武智麻呂公○尊○』と刻まれていますが……下の方の字が読めない(T_T)
裏側に刻まれた文字によりますと、元禄六年に立てられた碑のようです。
看板に書かれた内容によりますと、『延喜式』には藤原武智麻呂の墓は『後阿陀墓』と呼ばれ、大和国宇智郡にあると記されているのですが、この場所を調査した事はないので、真偽の程は分からないようです。
また『藤氏家伝』には、佐保山で火葬にされたとあるので、それ以降に改葬された可能性も示唆されています。
『家伝』を書かせたのも、墓のある山の下に栄山寺を建立したのも、武智麻呂の次男の仲麻呂ですから、改葬も同様に行われたのだろうと推測されています。
ここの後も栄山寺をはじめ、いくつかの寺社に寄って来ましたので、こちらの事はカテゴリーを改めまして次回にでもm(__)m
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