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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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何とな~く風邪気味で、朝から思い出したように咳き込んだり、体の節々が痛くなったりしております……
あれで『慈恩会』に行って、21時過ぎまであの寒い仮金堂に座っていたら、確実にこじらせていたと思いますから、そのまま帰って来て正解だったかもしれません。

さて、昨日の講演会ですが、内容的にはとても面白かったとは思いますが、私の状況では、あの時代背景は大まか以上に頭に入っているので、結局は残されている資料に対する、井上先生の意見を拝聴するという流れになってしまいます。
まぁ、これは奈良女子大の舘野先生の講演でも、奈良大学の東野先生や寺崎先生などの方々の講演でも、今までの経験上は同様です。
これが研究会などのように複数の研究者が集まる席ですと、時々、ポロッととんでもない事を言ってくれる方がいたりして、結構、楽しめたりします……こういう、不埒なヤツは参加させるなと言われそうですがσ(^◇^;)

京都限定だそうです。今回のタイトルはあくまでも『山城遷都と桓武天皇』ですので、宗教政策や東北経営の方への論及はあまりありませんし、勿論、皇室を取り巻く公家の権門らの派閥争いや何かも、それ程踏み込んでおりませんでした。
これを始めたら、半年くらいの講義になりそうだわ……『桓武朝論』としてε-( ̄ヘ ̄)┌
こういう事を期待するのなら、やはり講師の先生の著書を読むべきでしょう、分かってはおりますが。
とやかく言いながらも、私個人としては割合に盛り沢山な内容で、講演自体は面白く拝聴できました。

ところで、この画像が何かと申しますと、近鉄京都駅の改札内にある『カフェ チャオプレッソ』が京都限定で出している『舞妓はんカプチーノ』です。
このカフェ、近鉄の主な駅に時々入っていますが、奈良駅でも『せんと君カプチーノ』やら『うさぎカプチーノ』などを期間限定で出しておりました。
泡の上にカカオパウダーでイラストをふりかけているので、絵が複雑なほど、最初に飲んだ時にカカオの苦味がします……『ひな祭りカプチーノ』とか、結構きつかった(^_^;)

こちらは市営地下鉄限定だそうです。もう一つの京都限定はこちら。
以前にもどこかに画像を上げていると思いますが、『京都市営地下鉄限定スイーツ 麿のお気に入り』として、京都や四条烏丸などの主要駅の改札付近で、ワゴンを出して販売しているのを時々見かけます。
『柚子チーズ』の方は上品に甘いので、チーズが嫌いでなければ万人ウケする味だと思いますが、『抹茶ばなな』はチョッと苦味があるので、お茶の渋みや苦味の苦手な方や、小さな子供さんにはあまり向かないかもしれません。
私はどちらも喜んで食べるのですが、取りあえずの御土産には『柚子チーズ』を買って帰る事が多いですね。
 
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今年の橿考研の公開講演会は、このようなタイトルです。
これが最近の傾向のように、海外での調査がメインになっている内容ならば、間違いなく春日大社の万葉植物園の池の傍で舞楽を見ていたと思いますσ(^◇^;)

ところで今回取り上げられた古墳は、藤ノ木古墳(斑鳩町・後期古墳)、キトラ古墳(明日香村・終末期古墳)、そして高松塚古墳(明日香村・終末期古墳)がメインで、牽牛子塚古墳や中尾山古墳も名前は出てきましたが、束明神古墳や牧野古墳や鳥谷口古墳は出てきませんでしたねぇ……この辺、被葬者云々では外せないような気がするんですが、何か意図があるような……なんて事を言っちゃあいけねぇよ(ーー;)
束明神や鳥谷口は一応、名前くらいは出てきたか……(゜.゜)

ともあれ今日の講演は人類学、考古学、歴史学の大御所的な先生が、それぞれの豊富な経験と知識からこれらの古墳に埋葬された可能性のある特定人物についてを説明して下さいました。
なかなかに理路整然として分かりやすいと言うか、矢でも鉄砲でも持って来いと言うか、それなりに説得力のある内容でしたので、かなり興味深く聞く事ができました( -」)φ

ちなみに、これらの画像には特に意味はありません……
矢でも鉄砲でも……モフッタのでかい面かなり面白かったのが、古墳から出て来る人骨に関しての片山一道先生のお話。
人骨から性別を判断できる事は良く知られていますが、一番分かりやすいのはやはり骨盤で、次は足の骨なのだそうです。
私はてっきり頭骨かと思っていましたが、足の骨の間接の形や連結の仕方で、9割近い確立で分かるのだとか。

これによって、藤ノ木古墳の石棺に埋葬されていた二人の人物は、いずれも男性だと分かったそうです。
いずれも若く、血液型はB型だそうで、同じ棺に埋葬されている事からも、血縁的に近い人の可能性は否めないようです。
この二人に関しては、どの先生も崇峻天皇即位前期に出て来る、蘇我氏側に殺害された二人の皇子(穴穂部皇子と宅部皇子)の可能性を否定してはおられませんでした。


朝顔と黄花コスモスそれにしても、南側の人物は骨から見ても男性で間違いないのに、身に着けていたと思われる装飾品などが、どういう訳か女性的なアイテム(アンクレットやブレスレットなど)なのだそうで、これが何を意味するのかと新たな問題も出ているのようです。

高松塚古墳の被葬者をズバリ、述べておられたのは考古学の白石太一郎先生で、まずは横穴式石郭の変遷や出土した須恵器から見て、この古墳は平城遷都後間もなくに作られたと考えても矛盾はないという事でした。
そして従来より指摘されていたように、壁画の人物群が掲げている蓋(きぬがさ)の深緑色は、一位の人物を表している事から推測すると、平城遷都から時期を置かずに薨去した人物で、一位を贈位された人が二人いるという結果になるようです。
この二人の内、藤原宮の留守官として残り、ここで亡くなったと考えられる人は……(゜_゜>)

私にとって最も素直に入って来るのが、文献史学の和田萃先生のお話です。
藤ノ木古墳の被葬者の可能性を示唆しながら、穴穂部皇子の宮やその同母兄弟たちの本拠地が斑鳩にあった可能性なども説明され、中尾山古墳を含む八角円墳の系譜や、そのルーツを推測し、赤穂という地名に見える皇族の墓域が何所になるかという可能性など、割合にグローバルな視線で大和周辺を見回しているという感じで、被葬者論の枠を超えても面白く拝聴しました。

しかし、発想の自由さや展開は大御所ならではですね。
若い研究者ですと、やはり色々な意味での遠慮が出てしまうのか、やや慎重になって硬い話になりがちですが……仕方はない事と思いますが(-_-;)
妙に存在感のある雲 : 明日香村にて本当なら今日は午後から、春日大社の講座に行く予定だったのに、色々な事が重なって終ぞスッポカス羽目になってしまいました……欠席の連絡、入れるべきもしっかり忘れていて、気がついたのは開始時間が過ぎてから(・_・;)

何やら一段落ついて、パソコンの前に貼ってあったメモや案内状などを眺めたところ、隣の市の資料館で午後から講演会があるので、タイトルを眺めて、こんな内容でしょうと推測の本に出かけたのが、14時少し前でした。

さて、こいつがどうだったかと申しませば、おちゃらけたタイトルの示すがごとく……まぁ、すこぶる時間の無駄という内容でしたね。

講演者は一応、それらしい肩書きの方ですが、私はまったく知らない人だったので、前記のようにタイトルから内容を判断してしまったのが最初の間違いです。
もう少し具体的に言いますと、終末期古墳の話でもするのかと勝手に思ってしまった訳です。
ところが、こいつが俗に言う『なんちゃって説』の一種ですわ。
だから内容は省略します。

帰りに運転をしながら思った事……歴史史料の読み方に関して大風呂敷を広げる時に、小説という形式をとるのは結構便利で潔くない方法かもしれません。
何せ、小説です、絵空事です、戯言です、この言い訳が堂々といえますから。
ちなみに私がいつも言う戯けた事とは、自分なりのお楽しみとか、自己満足とかを多分に含む、私なりの思考パズルみたいな事です。
この御仁の出生の都合とか、こちらの御方の官位官職とか、かの御人の婚姻関係など、ストーリ-展開上で面白い、都合が良い、うまく立ち回れる、単なる勢い等々、歴史上の説として口角に泡飛ばして唱えるような気も毛頭ない事が極めて多いとも言えましょう。

不遜な事を申しますと、なんちゃって説を唱えられる先生方は、端から自分の説がもっとも正しいと信じているから、逆にフレキシブルに考えられないのかもしれません。
そうなると、見てきたような嘘八百を並べまくる、私のような物書きの方が、ある意味無責任でもタチは悪くないのかも知れません……などと、自己満足で締めくくってみたりして( ̄▽ ̄)。o0○

さ~て、そろそろ防寒対策をして石舞台公演に出かけなけりゃ。
おん祭りに現れる龍のモチーフとして今月の春日大社の『いのちと心の講座』は花山院弘匡宮司による『秘められた龍神信仰』です。
春日大社の龍神信仰といえば、謡曲でも知られる『春日龍神』の存在なのですが、一体いつから春日には龍が現れるのかが、一つの問題となります。
謡曲では龍王は春日大明神(本地仏は釈迦如来)の使いとして現れますが、さて……

アプローチは何故なのか采女から始まります。
『大和物語』に見られる、猿沢池で入水した采女の物語ですが、今では縁結びの御社にされている『采女神社』の由緒話としてとても有名ですね。
この采女が後に龍へと結びついて行くようです。

春日若宮おん祭り 馬長児の従者余談ながら、花山院宮司の御先祖の一人に仁和寺の覚成師という御方がおられるそうで、何でも神泉苑で雨乞いをした際に龍神の出現を見たのだとか。
神泉苑の池に善女竜王が住んでいるのは有名ですが、猿沢池にも龍が住んでいるという記述は、鎌倉初期の『古事談』に既に見えるとの事です。

室生の龍穴には善達龍王が住んでいますが、この龍王は最初は猿沢池にいたと書かれています。
ところが池に采女が身を投げたため、春日山の南にある香山(こうざん)に移ったところ、ここにも死者を捨てるような者がいたため、更に室生の穴に移動したということです。
ところで香山には今でも『鳴雷神社』があり、社の傍らには丸い龍王池があります。
この池は佐保川や能登川の源流の一つで、どのような日照りの時にも水が枯れず、雨乞いの場所として、
古来より特別の信仰を集めていた様子も伺えます。

さて、春日大社は本来、藤原氏の氏神を祀る社です。
『志度寺縁起』には謡曲『海女』の元となった、珠採り海女の物語が見えますが、不比等が海女に頼んで海龍王から取り返した宝珠は、興福寺本尊の釈迦如来の眉間に入れたと『春日秘記』に書かれているとか、春日大社の四つの御本殿の第一社に置かれているとか言われています。
一方、この珠を更に取り返そうと龍王は春日にまで追いかけて来て、取りあえずは猿沢池に住み着き、何度も社へと向かうのですが、結界となる鳥居に阻まれて果たせずじまいなのだと……何やらだんだん、色々な要素が入り乱れた話になって来ていますが、今でも猿沢池には龍は戻って来るのでしょうか??

春日奥の院『紀神社』ところで一番上の画像で、神職の方が頭に載せているのは、『春日若宮おん祭』で馬長児(ばちょうのちご)の従者が被っている龍の飾りです。
手に持った笹竹は『恋笹』ともいい、五色の短冊には『あふ恋』『忍ぶ恋』など、恋に関する言葉が書かれているのですが、この『恋』は『雨乞い』に通じ、龍が雨を呼ぶ存在である事を示しているのだとか。
真ん中の画像は、昨年のおん祭のお渡り式に向かう、馬長児の従者の一人、実際はこのような格好で従っています。

三番目の画像は、春日大社の奥の院とも言われる『紀神社』ですが、ここには『龍王珠石』という名前の磐座らしき集石があります。
記録には、紀神社の西側にあり、善女龍王の納めた尾珠と云々……という事が書かれているとか。

あまり知られていないようですが、春日大社の境内には神社成立以前からあったと思われる磐座の類が幾つか見られ、御笠山一体が、平城京ができる以前から神の座す地とされていた事がうかがえます。
猿沢池から龍王珠石、香山の龍神池、この三つは龍と水を結ぶラインとして、今も春日の山に龍神がいる事を表しているのかもしれません。
この他にも、龍と雨、水をめぐるエピソードは神社の周辺に、今現在も幾つか見る事ができるそうです。
例えば、南都楽所の左方だ太鼓の龍は、しょっちゅう雨を呼んでくれるとか……?

宮司を始めとした神職方々の話も多岐に渡って面白いし、実際に歩いてみる境内もかなり興味深い物があちらこちらに点在しています。
今回は更に特別なサプライズもありまして、滅多に入れないような所も案内して頂きましたが、そちらは他言無用……!?
毎回、参加する度に思うのですが、実にこの講座はためになります(^_^)v
鎧と一口に言って私が真っ先に思い出すのは、ごくスタンダードに大鎧で、次に思い出すのが古墳時代の単甲桂甲だったりします。
しかし人によっては、戦国時代のドラマや城下町で行われる城祭りなどで、武将役の人たちが身に着けている当世具足かもしれません。
私は戦国時代に疎いせいなのか、案外、こいつを思い出しません(~_~;)

二人がかりで着せ付けて行きます。昨日の日曜日、春日大社の『いのちと心の講座』の一環で『見て!触れて!感じる!鎧講座』が行われましたので参加して参りました。
正直、二月に行きました『
女房装束とその歴史』よりも、こちらの方が遥かに私の好みと申しますか、興味対象としてはウエイトが高いですσ(^◇^;)
これが刀剣など、武具の類ですと更に喜びますので、我ながら危ない奴です……(-_-)

まずは大まかに、鎧にはどのような種類があり、それらが時代によってどのように変遷をたどり、どのように使用されてきたのかの解説があり、絵巻の『春日権現験記』にはどのように描かれているのかを見て、『春日若宮おん祭』の風流行列に使用される具足を実際に手に取って、身に着けてみようという試みの後、宝物殿に展示されている国宝や重文の大鎧や胴丸を見てみましょうという流れで終了です。

フル装備すると、結構暑いし重いし……このようにモデルの方にはフル装備をして頂いたのですが、おん祭などでもこのような格好で、約六時間は過ごさなければならないそうで、最後の方には皆さん悲痛な形相になって、「早く脱がせてくれ~」という状況になるのだそうです。
重いのやら窮屈なのもあるけれど、特に胴の部分が固定されて動かせないので、これが一番辛いと言われていました。
いつぞに大和郡山市の山川氏が筒井城の発掘現地説明会の時に、城祭りのための具足を着けて説明をした事があるのですが、当人曰く、「後悔した……」だそうです(-_-;)

平安や鎌倉の戦のように弓馬の合戦というよりも、戦国時代には雑兵や足軽らの歩兵部隊による接近戦が増えたため、鎧も武器も変化をして行き、防備する箇所も増えて、本来ならばこのスタイルに面頬も装着するのが正しいとの事。
しかし、ドラマでは俳優の顔を隠す訳にも行かないと、ほぼ、これは省かれております(^^ゞ



ここで相変わらずの戯言など……ε-( ̄ヘ ̄)┌

ところで『春日権現験記』などの絵巻に見る上代の合戦には、馬上で刀を振り回すようなシーンはあまり描かれていないそうです。
いつぞの大河ドラマで滝沢秀明さんやら小栗旬さんあたりが、大鎧を着て馬上で大刀を振り回していたような気がしますが……これは合戦としては、かなりやばい状況です(*_*)
馬上の大将を固める郎党らが討ち取られて、自らが弓を打ち捨て、馬上刀で歩兵らをなぎ払う……
絶対にあんなさわやかな顔して、長モノ振り回せる訳がないって……
それにあの時代の馬上刀ってのはかなり反りが大きくて、上から下に打ち下ろすよりも文字通り薙ぎ払うのに適していたと、昔々に教えてもらったような(゜.゜)
このように、歴史ドラマの合戦シーンには、戦国でも源平でも、はたまた幕末でも、突っ込みどころが満載なのだそうで( ̄▽ ̄)。o0○

絵巻の合戦シーンでは大鎧を着た武将が、馬上で振り向きながら矢を射る場面が時々描かれていますが、こいつを見る限りでは、大鎧は当世具足の腹巻や胴丸などとは違って、上半身がかなり自由に動くように設計されていたようです。
……にしてもだ、鎌倉時代になると馬上弓もかなり長くなるのだから、本当にあのパルティアンショットは可能なんだろうか?
正倉院御物などの画像に見るパルティアンショットは、大抵が短い弓を使用していたような気がするしなぁ。
誰か、七尺三寸の長弓でやって見せてよ……などと不謹慎は言うんじゃない(--〆)
いわゆる十二単です。27日の日曜日、春日大社で『女房装束とその歴史』という講座がありましたので、いそいそと出かけてまいりました。
講座の参加者、恐らく八割方は女性でしょうか……和裁や着付け関係の方々も参加されていたようです。

しかしですよ、女房装束と申しますか、五衣唐衣裳服と申しますか、平たく言えば十二単ですから着付け教室の範疇ではなく、既に衣紋道です。
衣紋道の知識なんぞ、私にはこればかりもこざいません(~_~;)
山科流高倉流があるくらいは、有職故実なんぞを調べている時に、言葉としては知っていても内容はまったく分かっておりません。

前半は女房装束に限らず、公家の装束が成立するまでの歴史、後半が実際に山科流の女房装束の着付けとなりました。
モデルを御方(おかた)と呼ぶそうですが、今回に御方となるのは画像ような若い可愛らしい女性で、二人がかりで着付けて行きます。

この鬘はもしかして斎王代?このような鬘も用意されていたのですが、今回は展示だけで御方には被っていただきませんでした。
髪型も江戸時代以降はこのような垂髪ではなく、皇族女性方の成人式や結婚式の時に見るような、大垂髪(おおすべらかし)になります。
考えてみればお雛様も大垂髪ですから、もしかして現代で女房装束と言うとそちらを思い出す人の方が多いかもしれません。

それにしてもいわゆる十二単の着付けを見たのは三回目ですが、憶えている限りでは五衣(いつつぎぬ)は既に数枚を糸で縫い合わせた形で、そのまま着る事ができる形式になっておりまして、今回のものも同様でした。
まぁ、以前に聞いたところでは、これら現存している装束の最も古い物でも江戸時代を下らないそうなので、それを基にして復元しているのでしょう。

今回の襲(かさね)は山吹の匂(におひ)かな?
表着(うわぎ)はクリーム色の亀甲地紋に赤紫の浮線綾紋、唐衣(からぎぬ)は薄紅梅の襷地紋に、薄い黄色の向蝶の丸紋でしょうか……色の名前が良く分かりません(+_+)が、若い女性にはとっても似合う彩りですね。
……にしても、平安時代からはかなり遠ざかっているから、襲だの紋だの色だの、咄嗟に思い出せなくていけませんわ(^^ゞ
あっ、後姿の画像を載せるのを忘れてますね……後ほど、気が向いたら追加しますかσ(^◇^;)
奈良女子大学 記念講堂
奈良の町中で色々な人と出会う事で学んでみようと、開かれている『
奈良ひとまち大学』に初めて参加して来ました。
ジャンルも場所も講師も様々、コンセプトは色々な意味で奈良に根を下ろしている人に会って話をしてみよう、見識を広めて、活動を知る事で理解を広めよう、といったと事でしょうか。

本日、私が参加したのは『私が阿修羅を運んだ男です!~美術品輸送のエキスパートに迫る~』というタイトルで、日本通運の海老名和明氏が講師として、奈良女子大学の記念講堂で授業が行われました。

講演会とは少々違う、人数も多からず少なからずで、聴講者からの質問も遠慮なく受け付けてくれて、一方通行にならない、なかなか面白い授業でした。

それにしても、自らの仕事に誇りを持っている人というのは、月並みな表現ですが、実にカッコいいです。
たとえ外見はどこにでもいそうなオジサンだとしても、仕事をしている時、仕事について語る時の姿は、そうですねぇ、オーラが違うっていうのはこういう事?!

お雛様カプチーノ
また予定が合いましたら、他の授業にも参加してみたいと思う催しでした。
講師の方の魅力も勿論、スタッフの方々の尽力にも頭が下がります。
講師として参加して下さる人材が数多くいるという事も、奈良という町は捨てたものじゃないですね。

中和でもこういう催し、してくれないかなぁ……と思えども、中心になる場所や組織がないんでしょうかねぇ。
この数年、奈良町はかなり人気スポットとして注目されていますが、橿原市の今井町と言っても、県外の人は殆ど知りませんからねぇ……
それでも、以前に比べたら今井町にも町屋を利用したスペースも増えてきましたから、少しずつ活気は出ているとは思うのですが。

ところで、下の画像は『お雛様カプチーノ」、近鉄奈良駅構内のカフェにて(^^ゞ

奈良女子大学 記念講堂奈良女子大に行ったのは二年ぶりでしょうか、昨年は全然、講演会やシンポジウムには参加している余裕がなかったような気がしますから。

こちらで土曜日に研究会などをしてくれると、チョッと嬉しいんですよね。
何せ大学の学食は安くて結構リッチ、そしてこの女子大は特に美味しい(*^。^*)

ちなみに今回紛れ込んで来たシンポジウムは、
『都城制研究集会 都城の廃絶とその後
報告者の名前を拝見しますと殆どは考古屋さんですから、私には極めて分かりやすい内容だろうとの予測の元に出かけました。
予想は概ね当たっておりまして、今回の切り口は都城の廃絶ですから、特に文献に現れない部分を発掘によって明らかになった事実で補足してゆくという具合の試みになって行きます。
そういう訳で、事実報告以上に想像力がモノを言うと申しますか、頭の切り替えや柔軟さを要求されそうな雰囲気です。
しかし言われてみれば至極当たり前の事も多く、私が今まで件の与太話群を書くに当たっての疑問を研究者方々も当たり前に持つようで、取っ付き易いと同時に妙な安心感があったと申しましょうか、とにかく全体的に面白かったです。

それにしても最後の方で、会場より京都府で恭仁京の調査に携わっている先生が、留守官に関しての問題定義をされていまして、これがかなり目新しい視線だなと思いましたわ。
留守官を置くという事は、その宮がまだ見捨てられていない証拠と考えられるにしても、難波宮においては一度も留守官を置くという記述が見られないのは何故なのか、これは初めて聞いた指摘です。
確かに、聖武天皇紫香楽(甲賀)や難波への行幸に当たって、平城恭仁の両京には置いているのに、それどころか平城遷都に当たって藤原京にも置いているのに?
難波宮調査担当の先生は、留守官は首都に置くのであって、副都の難波には特に規定もなかったのではと言われていましたか……?(゚_。)?(。_゚)?憶えとらんのか(ーー;)

学食のデザート!ここで私が思い出した疑問が、天武天皇なり聖武天皇副都制を考えるに当たって、それぞれの都の主の存在を考えたかと言う事です。
副都という思想、中国王朝などの例に倣っているのでしょうが、こちらでは皇帝太子は同じ都に住まないという原則があります。
副都制は導入しようとしたのに、こちらの発想はどうだったのか、これを検討している例を私の不勉強なのか、殆ど聞いた事がありません。

私は勝手に、難波宮の主は氷高太上天皇だと思い込んでいるようなところがあるので、皇太子のポジションについても時々考えておりました。
天皇が東国行幸の後に恭仁に入った時、皇太子皇后は一緒だったのか、こいつが以前からの疑問です。

藤氏の氏長だった外祖父が、長安をモデルにして平城京のプランナーとなったとしたら、藤氏を否定したくても仕切れない孫の天皇は、洛陽をモデルに恭仁京を計画した……昔から良く聞く事です。
そしてこれを聖武天皇に吹き込んだのが、吉備真備でも玄昉でも良いのですが、この人たちこそ長年の唐暮らしで、皇帝と太子が別の都に住んでいる事を熟知していたでしょう。
天皇の大規模な東国行幸に光明子皇后は着いて行ったにしても、阿倍皇太子はどうなのでしょう?
この人こそ、平城を預かって留守官共々に残っていたのではないのかしら??

それから最近疑問に思うのが、太上天皇家政機関を持っているのかという事。
春宮坊皇后宮職のような司はあるのに、太上天皇の生活は宮内省が担当しているままなのでしょうか?
もしも氷高太上天皇が難波にいたのだとしたら、摂津職の中にそのような司が会った可能性はあるのか??
と言っても、太上天皇が難波にいたということ事態が、私の仮定なので調べようもないのですがσ(^◇^;)

結局、このたびも新たな疑問が、次々湧いて来まして、これからも前途多難だねぇと喜ぶ次第です。
ところで、基調報告の最後の先生がどういう訳か文学屋さんでして、万葉集についての話をされていました。
なにやら考古学的アプローチのオンパレードの後に、違う世界の話を聞いているようで……
この先生も少々気の毒に思ったのですが、ここでいつもの阿呆発言……
どうしてうちの連中が揃いも揃って歌を詠まないかが、この先生の言葉を聴いていて、何とな~く分かりました(@_@;)ε-( ̄ヘ ̄)┌

御所市での現地説明会にも行かずに、奈良教育大学で行われた『よみがえる新薬師寺旧境内』というシンポジウムを聞いてまいりました。
正直申しまして、新薬師寺の事を名前と建立の切欠くらいしか知らない事に気付かされました。
何とこの寺、東大寺とほぼ同時に建立が始まっています。
どちらの寺も、最初は前身となる山房があって、そこに平地に建てられる大金堂が加わって大寺院に発達して行くのだそうです。
東大寺は二歳で亡くなった基王(某王)の菩提を弔う『金鐘山房』が最初、一方、新薬師寺は聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が発願した『香山堂』が最初の山房だったそうです。
新薬師寺という名前の他には『香山薬師寺』『香山寺』『香薬寺』『南寺』などの名称でも文書に見えるのだとか。
東大寺の法華堂(三月堂)の真南にあるので『南寺』と呼ばれたのでしょうか。
どちらも『造東大寺司』が造営の中心で、どうやら造東大寺司の内に『造南寺所』が置かれたようです。

発掘調査で判明したのは、桁行きがやたらに長くて細長い金堂の存在です。
二度にわたる調査では南大門の遺構が出ておらず、かなり南にあるのか、もしかしたらないのか……他の建物の存在もまだ不明です。

いずれにしても、現在に残っていたり確認されたりしている大寺院に比べると、イレギュラーなサイズや構造の建物の可能性が高いようです。
前面に幅50メートル近い階段が取り付くというのも凄いし、復元案では十三間の桁行きに四間の梁行き(十一間×二間の身舎に四面廂がつく)というサイズも、奈良時代後期には異例です。
この御堂に七体の薬師如来にそれぞれ二体の脇侍仏、更には十二神将や四天王も安置されていたのかもしれません。
そして壁には壁画か刺繍仏のタペストリーが架けられ、柱は丹塗りの上から更に法相華やら鳥やら飛天やらの画像が描かれていたとも考えられます。

現在の寺院といいますと、どうしても禅宗寺院を思い出すせいか、侘び寂び……全体的に渋いモノトーンの印象を受けますが、奈良時代の寺は内部もセレモニーもビビット、極彩色の超ド派手空間が広がっていたと考えられます。
不謹慎な事を申し上げますと、現在の御僧侶にも派手好きな方が少なくないですが、奈良時代の華厳宗だの法相宗の僧侶は、更に派手だったのかも知れませんσ(^◇^;)

考古、建築、文書、美術史などからのアプローチだったのですが、分野によってはほとんど分からん……つい、こういう軟らか系の想像に頭が流れてしまって((+_+))
この類のアプローチしてくれる先生もおられましたので( -」)φ~

一月九日(土)
 橿原考古学研究所博物館の講演会に行こうか……
 天理大学の山本先生だよ~
 それとも奈良国立博物館の講演会に行こうか……
 春日大社の花山院宮司だよ~

贅沢な悩みだね、我ながら。
多分、山忠先生(と天大OBの人が呼ぶ)の講演、聞きに行くと思うけど。

一月十六日(土)
 橿考研の所長トーク(私は勝手に菅文バトルと呼ぶ)に行こうか……
 松田館長が火葬墓の話してくれるのよね~
 でも奈良博で南都楽所の舞楽のチケット買ってあるんだっけ……
 必然的にこっちだわσ(^◇^;)

一月十一日(月)
 春日大社 舞楽始式!
 これを忘れちゃ、今年も始まらない(事は決してないのだけれど)

おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

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