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御所市での現地説明会にも行かずに、奈良教育大学で行われた『よみがえる新薬師寺旧境内』というシンポジウムを聞いてまいりました。
正直申しまして、新薬師寺の事を名前と建立の切欠くらいしか知らない事に気付かされました。
何とこの寺、東大寺とほぼ同時に建立が始まっています。
どちらの寺も、最初は前身となる山房があって、そこに平地に建てられる大金堂が加わって大寺院に発達して行くのだそうです。
東大寺は二歳で亡くなった基王(某王)の菩提を弔う『金鐘山房』が最初、一方、新薬師寺は聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が発願した『香山堂』が最初の山房だったそうです。
新薬師寺という名前の他には『香山薬師寺』『香山寺』『香薬寺』『南寺』などの名称でも文書に見えるのだとか。
東大寺の法華堂(三月堂)の真南にあるので『南寺』と呼ばれたのでしょうか。
どちらも『造東大寺司』が造営の中心で、どうやら造東大寺司の内に『造南寺所』が置かれたようです。
発掘調査で判明したのは、桁行きがやたらに長くて細長い金堂の存在です。
二度にわたる調査では南大門の遺構が出ておらず、かなり南にあるのか、もしかしたらないのか……他の建物の存在もまだ不明です。
いずれにしても、現在に残っていたり確認されたりしている大寺院に比べると、イレギュラーなサイズや構造の建物の可能性が高いようです。
前面に幅50メートル近い階段が取り付くというのも凄いし、復元案では十三間の桁行きに四間の梁行き(十一間×二間の身舎に四面廂がつく)というサイズも、奈良時代後期には異例です。
この御堂に七体の薬師如来にそれぞれ二体の脇侍仏、更には十二神将や四天王も安置されていたのかもしれません。
そして壁には壁画か刺繍仏のタペストリーが架けられ、柱は丹塗りの上から更に法相華やら鳥やら飛天やらの画像が描かれていたとも考えられます。
現在の寺院といいますと、どうしても禅宗寺院を思い出すせいか、侘び寂び……全体的に渋いモノトーンの印象を受けますが、奈良時代の寺は内部もセレモニーもビビット、極彩色の超ド派手空間が広がっていたと考えられます。
不謹慎な事を申し上げますと、現在の御僧侶にも派手好きな方が少なくないですが、奈良時代の華厳宗だの法相宗の僧侶は、更に派手だったのかも知れませんσ(^◇^;)
考古、建築、文書、美術史などからのアプローチだったのですが、分野によってはほとんど分からん……つい、こういう軟らか系の想像に頭が流れてしまって((+_+))
この類のアプローチしてくれる先生もおられましたので( -」)φ~