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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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実は登り大路を東へ向かうまで、殆ど行く気のなかった『グレイトブッダ・シンポジウム』に午後から行って参りました。
本当に行く気ならば昨日の時点で参加していたか、少なくとも今日の朝から参加していたはずなので、やはり気が向かなかったのは確かなのでしょう。
何せ一昨年に参加した時には、講演の内容が殆ど理解できませんでしたから。

今年のテーマは『東大寺二月堂 修二会の伝統とその思想
曲者は思想でしょうか……仏教教義の話となると、私のような無学な者には何のことを言っているのかすらわかりません(*_*;
しかし二日目の午後の部は、『二月堂小観音の図像』という文書中心の講演から始まりまして、次が『中古~中世文学に見える東大寺』というタイトル、更に『二月堂の炎上と再建―東大寺江戸復興の一段階として―』と続きました。
おそらくもらったレジュメの内容から考えるに、この辺りが私には何とか理解できる範囲の講演のようです。

現在、東大寺二月堂には二体の十一面観音が絶対秘仏の本尊として安置されているそうです。
いえ、本尊は大観音と呼ばれる仏様の方ですね。
しかし、この仏様、寛文七年(1667年)二月の火災によって焼け落ちて、秘仏ゆえにその後すぐさま御簾で隠され、新たな厨子に納められて現在に至るようです。
この大観音の光背は現在、奈良国立博物館の常設展示に出ておりますので、ご存知の方も多いはずです。
光背があのように無残な状況ですので、ご本尊も推して知るべし……
一方、小観音は御僧侶が抱えて救出したそうで、無事に現在に至るそうです。
しかしいずれの観音様も、今に至るまで東大寺の御僧侶方も見た事がないとのことです。
ところがこの絶対秘仏の小観音の画像と考えられる絵図が残っているそうで、一体いつからこれらの仏像は絶対秘仏とされたものなのか、その辺りを探るにもはっきり示されている史料はないようです。

ところで奈良に住んでいる人ならば『お水取り』は、三月十三日の未明に行われる行、練業衆の足元を照らす『お松明』は、一日から十四日まで毎晩上がるものだと理解していると思います。
ところが県外の人の多くは、『修二会』そのものを『お水取り』、そして『お松明』が二月堂に上がるのは一晩だけだと勘違いしているようです。
では『お水取り』という言葉自体がいつから使われるようになるのか、これは思いのほか新しそうです。

芭蕉の有名な句 ~ 水とりや氷の僧の沓の音 ~ 氷ではなく籠りとする方が一般的ですが、芭蕉の自筆の書が残っているそうで、ここでは氷の字を当てているそうです。
それはともかく、この句によって『水とり』の言葉は定着しているように思えます。
しかしそれはやはり、若狭井から水をくみ上げる行であって、修二会そのものを指している訳ではありません。
『修二会≒お水取り』の概念は、明治から大正時代くらいに新聞の記事などに混同が見えるそうで、この辺りから始まっているようです。

まあ、このような内容ならば私でも充分に理解の範疇です。
しかし、仏教伝来から千数百年、仏教に限った事ではないと思うのですが、宗教の教義というのはどうしてここまで、衆生にとって理解不能なほど煩雑で小難しいものになってしまったのでしょう。
奈良時代の後期や鎌倉時代に、もっと一般人でも理解できる仏の教えをというコンセプトで、寺から出て教えを説いた僧侶がおられましたが、現代では宗教そのものを一般の人たちはどのように見ているのでしょう。
この辺、私自身も実のところ良く分かっておりません(~_~;)
……にしても、大学の構内で御僧侶がウロウロしている(失礼な物言いだなぁ)のは何となく変ですね、東大寺の境内なら当たり前だと思うのですけれどね(・.・;)

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『春日若宮おん祭』も終わって、奈良市の繁華街はクリスマス……かと思ったら、アーケードの上に掲げられたペナントには、『節分万燈籠』に修二会の『お水取り』、その前に『若草山の山焼き』もあるのにねぇ(^^ゞ
それでも奈良国立博物館では『おん祭と春日信仰の美術』という特別陳列を行っていまして、本日はその関連講座として『おん祭の舞楽』が行われました。
本当ならば教育大学の『グレイトブッダ・シンポジウム』に行くつもりだったのですが、今日の内容ならば絶対に寝る……何せ私に理解できる内容じゃないもの(*_*;
そういう訳で明日はどうしよう(~_~;)

本日の講演の講師は南都楽所の笠置侃一先生です。
この内容に関しては、まさに第一人者ですので、とても興味深い話が今回も聞けました。
で、この内容は……ちょいとやる事があるので、また後ほどσ(^◇^;)

ところで、さっきまで昨日のドラマの続きを見ていたのですが、あの過剰なおふざけさえなければ、結構面白い話ですね、ヒロインも可愛いし……と、今日も単純なうめぞーでしたm(__)m

これは今日(既に昨日)、大阪歴史博物館で行われたシンポジウムのタイトルです。
ただ今こちらの博物館で「史料が語る日韓交流史を通じたミュージアム事業 古代新羅土器と近世薬種業を中心に」という企画展を行っておりまして、この一環で行われたものです。
私はこちらの展示も見ていないのに、シンポジウムだけ参加してまいりました。
まぁ、片手落ちってやつでしょうかね(~_~;)

ここでの報告を聞いていても、やはり三国時代の新羅(古新羅)と日本(倭国)の関係が友好的だった事は、ほぼないと言っても良いようです。
そして韓半島での関係は如何なるものかと申しますと、私がかつて与太話の中で主人公に言わせたとおり、「我が百済と高句麗が友好関係を結んだ事など、建国以来、一度としてないはずだ」という具合です(*_*;
日本は常に親百済・伽耶政策を取っており、新興国とみなされる新羅は北に国境を接する高句麗との同盟を持ってきました。
この構図が変化するのは、韓国の学者が言うところの新羅の上古期の終わり、麻立干を名乗った最後の智證王による領土拡大の動きによります。
そして続く中古期に南の伽耶諸国を併合し、北への領土拡大を図った新羅は、嫌でも海を挟んで倭国と対峙する事になります。
それ以前に百済では高句麗によって漢城(ハンソン;現在のソウル)を攻略されて、王都をずっと南の熊津(ウンジン;現在の公州)に移しています。
この旧都を奪い返さんと、新羅との連携で高句麗を追い出したものの、後には百済も排除されて新羅の領土は更に拡大します。

更に決定的に構図が変化するのは、高句麗におけるクーデターの後です。
642年、宰相の泉蓋蘇文が国王一派を排除して傀儡の新王を立て、自らが権力を掌握して百済との同盟を結びます。
この事に恐れを抱いたのが双方に接している新羅、目を光らせたのは先王朝(隋)よりの高句麗遠征に連敗している唐です。
百済はこの頃、新羅の国境を越えて度々の侵略をしていました。
新羅は最初、高句麗に救援を求めるのですが、既に百済を結ぶことを決めていた高句麗は求めに応じません。
そして647年の有名な金春秋の来日となるのですが……

まぁ後は、唐と結んだ新羅による百済の変(660年)を経て、白村江・周留城の陥落まで一直線、ここまで来ても倭国と新羅は敵対関係しか見えていません。
このような政権上の関係にも拘らず、難波を始めとした畿内地域や北九州などには、多くの新羅系の土器や文物の出土が見られます。
これは結論(?)、国の政策と人々の往来は必ずしも一致しない事を示しているのでしょう。
亡命者とは国にいられなくなった者が、別のイデオロギーを有する国に逃げてゆく事でしょう。
亡命者、難民、そのような人々が何度かにわたって倭国にやってきた形跡は、日本書紀の行間にも読み取る事ができますし、このような出土品にも見ることが出来る……まぁ、決してありえない事ではないでしょう。

しかし新羅からしてみれば、果たして倭国の入り口の一つたる難波は、どの程度の重要な場所だったのでしょう?
国交は多少ともあっても、友好関係を結んでいたとは言いがたい両国です。
倭国から見ても、新羅の王都金城(現在の慶州)は、かつての伽耶の玄関であった金海(キメ)に比べれば、殆ど重要視されなかったのだと思うのですが……

う~ん(゜.゜)、三国の内では新羅よりの私にしても、やはりこの国と倭国の関係は、百済に比べたら遥かに淡白というか疎遠に思えるのですが……
以上、感想というよりも殆ど本日の講演の内容と、私の他愛もない戯言でしたm(__)m

明日香村の『檜前遺跡』の現地見学(説明ではない)会に行った後、橿原考古学研究所の公開講演会に行って参りました。
今年のテーマは『平城遷都』……(ーー;)それじゃ、来年は?
まぁ、そんな事ぁ、どうでも良いのですが、面白いような腑に落ちないような内容でしたわ。

具体的な内容は取りあえず置いておきまして、例えば平城遷都をトップで推進したのが誰かと言えば、たいていの人は藤原朝臣不比等の名前をあげると思います。
それは私も否定する気は毛頭ありません。
遷都の理由が、整備されつつある律令のシステムに見合わないものになりつつある旧都に替わり、新たなスタイルの都を必要としたというのは、概ね納得いたします。
ただ、何が合わずに、何を更に必要としたのか、この具体的な例が示されていないので、どう納得するべきなのかが良く分からないんですよ、私のような無知なやつには(・_;)

更にですよ、持統太上天皇が崩御し、文武天皇が病床の身になった時に“詔して遷都の事を議せしむ”とある背景には、太政官の首班ら、それも左大臣知太政官事を差し置いて、右大臣の藤原不比等が全権を乗っ取った結果……みたいな暴力的な事言われますとねぇ(@_@;)

いえ、右大臣の権力は認めますよ。
でも、この人への協力勢力はどの程度で、反対勢力との力関係はどんなものなの??
こういうところを納得しないと、私には腑に落ちない訳なのですよ。
研究者の方々から見れば、私のような与太な物書きは、能天気な絵空事を大風呂敷広げて、眉に唾して聞けと騒いでいるように思えるのかもしれませんが、ある程度物事を納得して書くには、それ相応のデータというのか、確信できる要因が欲しい訳なのですね。

それこそ30年も前には、藤原朝臣不比等という人は過小評価されていたと思います。
それを京大の上田先生がクローズアップしてから、研究者の方々も注目するようになって、かの梅原氏がセンセーショナルな説を発表してくれて、やや変な方向に過大評価されるようになったような気が致します。
かく言う私も、以前はこの辺に乗っかっていたので、人の事は批判できませんけれど……(-_-;)

ついでに言いますと、藤原仲麻呂辺りの計略に引っかかって(?)、不比等の父親を殊更に過大評価する動きも見えるのですが、本当にこの時期の藤原氏にここまでの力があったと簡単に納得して良い物なのでしょうか。
それじゃ、お前には皇権への過大評価がないのかと言われれば、こっちも否定できないんですよね。
嗚呼、我ながらなんちゅう優柔不断な……これじゃ、書ける話も書けなくなるぜ(--〆)

今日(既に昨日)から唐招提寺の落慶法要なのですが、こいつが招待者のみしか出席も見学もできないと、直前になって新聞が報道してくれました。
内容は半月くらい前に、あちらこちらで書かれており、一部の新聞やネットでは、当日の見学は可能と先走って公表しておりましたが、お寺さん側もあの金堂前のスペースから鑑みて、こういう事にしたのでしょう……とでも思っておかないと、報道各氏のいい加減さに腹が立ってきますからねぇ(-"-)

それはさて置き、昨日(既に一昨日)、奈良国立博物館の主催で、恒例の正倉院学術シンポジウムが行われました。
今年のテーマは『皇室と正倉院宝物』という訳で、今年も宮内庁正倉院事務所の先生方のお話を聞きに行って来たという具合です。
何が面白いって、やっぱり現場の声ですわ(^◇^)
私は保存に関しては全くの門外漢でして、お陰でかなり目新しい観点で話が聞けるんですね。
逆に時代背景となると、まあ、この程度なら知っている範疇のお話が多いですから(-_-)
そういう訳で、宝物の復元模造のお話は、かなり興味深いものです。

ここ最近の役所の外部発注は、何が何でも入札で随意契約は御法度?という傾向が極めて強いのですが、この分野においては、そんな建前だの野暮天だの無知蒙昧な事は言ってられません。
日本の伝統工芸の叡智、それこそ最高水準をもってしても、できない事はできない、分からない事は分からない世界ですから。
正倉院宝物の修復は明治以降に行われるようになったのですが、とにかく分からない事だらけ、使われている技法には既に失われているものも多く、使用する材料も今は入手困難な物も極めて多いのだそうです。
この辺りを再興して、人間国宝にまでなった方もおられるそうですから、上代においても近現代においても、職人という方々の技量や執念は賞賛に値します。
復元する事には意味がないと、無責任に発言する有識者(?)もいるそうですが、こちらの観点を聞いてみたいものです。

更に面白かったのは年中行事の話。
この分野、私が如何に無知かを程々に再確認いたしました(*_*;
節句の意味すら、もしかして分かっていなかったか?
この事を書き始めると、かなりしつこい事があるので、いずれ『執筆中の戯言』の中ででも紹介できたら致します。

ついでに今日(とっくに昨日)も、保存復元に関する展示を見てきましたので、気が向けば次はその事でも。

まなざしの変容 奈良から世界を変える』というテーマで、奈良国立博物館と県立大学が合同講演会を博物館で行ってくれまして、本日、イソイソと出かけて参りました。
何でもこの合同講演会、酒の席で発案されて計画したとかで、果たしてどうなりますやらと主催者がお笑いネタ(?)にしておられました……まぁ、何とかなるでしょう(^_^;)

今日のタイトルは『立ち上がる記憶
最初の講演は、奈良県立大学の井原緑氏の『奈良公園に佇む
このテーマの切欠は、近鉄奈良駅の近くで
「奈良公園はどこですか」と観光客の方に聞かれた事だそうです。

井原先生も私と同じように、興福寺や春日大社、東大寺などの境内と周囲の春日野や飛火野などの緑地、若草山や三笠山辺りを含む地域を公園の範囲だと、単純に考えていたそうです。
しかし調べてみると、県営奈良公園という規定で見ますと、寺社境内や博物館の範囲は含まれず、大方は春日野原始林などの山林から構成されるようです。
一方、名勝奈良公園となりますと、寺社の境内と、それをつないでいる周辺の緑地などとなるようです。

そもそも最初に奈良公園として公に認められたのは、廃仏毀釈の嵐の中で存亡の危機にあった興福寺の境内なのだそうで、明治十三年の事です。
ここに奈良町の人々の声が加わり、周囲の寺社境内のみならず緑地も公営化し、本来の地形に手を加えずに公園として申請して今日に至るのだそうです。

都市公園でもあり、歴史公園でもあり、自然公園でもある、多に例を見ない多元的な存在としての奈良公園は、神域の原始林の巨樹をはじめ、春日の御神鹿らによって保たれる芝地の草にまで歴史の宿る場所と言えるのでしょう。

奈良博の学芸部長の西山厚氏の公演は『大仏に逢う
龍松院公慶上人による、元禄の大仏復興についてのお話でした。
この内容は、何年か前に博物館の特別展でも行いましたので、割合に理解はしやすかったです。

鎌倉復興の大勧進、俊乗坊重源に比べると、割合に知られていない公慶上人ですが、活動は重源上人以上といっても過言ではないでしょう。
松永久秀の南都襲撃以来、百年近く放って置かれた大仏と大仏殿の復興を何もない所から立ち上げた人です。
江戸復興は五代将軍徳川綱吉桂昌院だと考えがちですが、幕府方が資金援助をしたのは大仏殿のみで、大仏そのものは公慶上人をリーダーにした南都の僧侶らの勧進によるものです。

奈良という場所には東大寺を始めとした歴史や人々が支えて伝えていった土地や場所、記憶が宿っています。
近代都市やテーマパークのように、歴史も記憶もリセットして築かれた場所というのは、どこか不安定で気分も落ち着かないものなのでしょう。
歴史と言えば堅苦しいと敬遠されても、土地に宿る記憶は人々の遺伝子のどこかに刻まれた記憶とリンクして、何かを常に訴えかけようとするものです。

1200年前、奈良は都でなくなった事により、古い記憶を残しているのかもしれません。
都は常に最先端の土地、千年の都の地位を築いた京都は、逆に平安の昔を忘れて、応仁の乱以降、大政奉還するまでの江戸の文化を残す町として存在しています。
そして江戸改め東京は、現在進行形の不安定さで常に変化をしています。
土地の記憶、人の記憶、他所がなくしてしまったものを今も残すこの奈良という場所が、外に向けて訴えてゆくものは絶対にあるはずです。

とまあ、こんな内容でしたか(~_~;)
西山部長いわく、「二十一世紀は奈良の時代」だそうですから、皆様、観光・歴史都市の奈良にぜひ注目していて下さいとの事でした。
大仏と鹿だけじゃないのよ……うちじゃ、ヘンなものばっかり紹介してるけどねσ(^◇^;)
何やら濃~~いパネリストの先生方(@_@;)馬場南遺跡と言えば、木津川市で今年の一月に『神雄寺』という名の寺院跡とおびただしい灯明皿、そして万葉木簡が出土した事で一躍話題になった遺跡です。
発掘を担当したのは京都府埋蔵文化財調査研究センターと木津川市教育委員会です。

そのシンポジウムがどういう訳か、向日市で本日(とっくに昨日)行われました。
タイトルは
『木津川市馬場南遺跡が語るもの―神雄寺と万葉歌木簡―』
基調報告が京都府埋文センターの伊野近富氏、特別講演が京大名誉教授の上田正昭先生、さらに京大の上原真人先生、奈良大の上野誠先生、ここに司会で京都産業大の井上満郎先生ときますので、思いっきり濃いです(@_@;)

各先生方の報告などは取り敢えず省略しますが、ポイントは多分三つ、この『神雄寺』と左大臣橘諸兄、さらには光明子皇后との関連、更には出土した『歌木簡』の使用方法や法要における歌の役割、そして出土した三彩の『山水陶器』の使用方法というところでしょうか。

ちなみに『山水陶器』は、現地説明会に伴う記者発表の時には『須弥山』とされていましたが、形状を復元してみると山というには少し低すぎ、もしかしたら『潅仏会』の時に誕生仏を配した装置だったのではないかと、上原先生が発表をされていました。

この遺跡の場所は昔でいう所の相楽郡、ここは『続日本紀』などに見えるように橘朝臣諸兄の本拠地の可能性が大きく、この寺の造営には諸兄が大きく関わっている事は恐らく間違いないだろうとの話が展開され、諸兄の異父同母の妹である藤原光明子との関連も少なからず窺えるのでは云々。
橘氏の氏寺と言うと『井手寺』が知られるけれど、この『神雄寺』もその可能性がある、もしかしたら諸兄の『相楽別業』とは、この寺の前身になる可能性も無きにしもあらず。

この辺りの事は、考古資料には具体的に文字などとして現れていないのですが、文献資料や伝承などの類との相互比較により、可能性を決して否めないとの事でした。
確かに一つの事を検討するにしても、グローバルな分野へのアプローチは必要と、ここ最近では富に言われるとおりです。

ついでに上原先生が“私はガチガチの考証学者ではなくて、若い頃からロマンに心惹かれるような柔軟性も持ち合わせているんですよ”と言うような事を言われていましたが、文献史料にしても考古資料にしても考証を加えてこそ、ロマンも広がるものなのだと私は思っています。
小難しい事はパスして、思い込みとか上っ面の奇麗事を口角に泡飛ばして語られても、やっぱり納得はできませんからねぇ……学者は得てしてロマンチストだと思う次第です。
と、最後は戯言で終わるのでしたσ(^◇^;)

この後、奈良市で高円山の大文字送り火やら、東大寺大仏殿の万燈供養を見て来たのですが、この辺はまた改めてm(__)m
古道フォーラムin橿原昨日『橿原万葉ホール』にて、このような催しが行われました。
携帯電話を利用した橿原と高市郡の観光音声ガイドが完成した記念だそうで、そういえば広報に案内が載っていたなぁという程度の関心しかありませんでした、実を言えば。

昨日の10時くらいに図書館に行こうと、万葉ホールに行ったところ、大ホールで映画の上映をしておりました。
この日行われるフォーラムの第一部だそうです。
『天平の甍』、多分、30年位前の作品です。
大昔に見た記憶もあるし、原作も高校生の時に読んだはずなのですが、大まかな内容しか覚えておりません。
無料だというので、既に始まってかなりたっていましたが、現金にも入場してしまいました(^_^;)
見ているうちに、嗚呼、こんな話だったよなぁ……と思い出す場面も多かったですね。
出演している俳優さんがとにかく若いし、既に故人も何人かいたりします。
昔は時代背景がてんで分かっていなかったので、恐らくかなり理解できない部分も多かったと思いますが、今見ますと、逆に変だとか適当だと突っ込むところも多いです。
そしてもし、これを今現在で撮り直すとしたら、あちらこちらにCGが入ってくるだろうなぁ、そんな事まで空想で来てしまいます。

そして午後から第二部、事前申し込み制だったようですが、始まるぎりぎりに行ってみたところ、空席は充分ありますから大丈夫だとの事でした。
確かに地味な催しですからねぇ……
それでも奈良県ではとっても有名な方が講演をしてくれるという事で、第一部の映画よりはずっと人が多い様子でした。
ゲストは京都教育大学の和田萃先生(高取町在住)と、映画監督の河瀬直美さん(奈良市在住)です。

和田先生のお話は『歴史の道を行く―橿原市内に息づく古道を訪ねて―』、同じタイトルの本が刊行されたのを記念に、市内で今も生活道として使われている古代からの道に関してです。
河瀬監督のほうは、観光音声ガイドの語りを担当されたという事で、こちらに関してですね。

市としては音声ガイド『Q~あ~る案内あたかちゃん』のPRに余念がない訳なのですが、私にはあまり使いやすい物にも思えないのが、今の所の感想です。
要するに携帯電話でのネット環境に全然魅力を覚えていないのが、最大の原因だと思うのですが。
若年層のように携帯命綱……なんて感覚、殆ど持ち合わせていないので、パケットし放題なんてプラン、到底組んでおりません。
だから一々、お高い受信料のかかる検索なんぞするのが鬱陶しい訳です。
それでもこいつが、将来的に500箇所以上に増えるのなら、なるほど、利用価値はあるのかもしれません。

ところで司会の方は何度か、パソコンでの動画配信も今日(つまり昨日)から出来ますから御覧下さいと宣伝をしておられましたが、昨夜からあちこち検索しても、一向にこいつにたどり着けない……(ーー;)
橿原市HPに入り口があるとばかり思っていたのですが、その気配も全然ないし、『あたかちゃん』で検索しても見当違いの事項しかヒットしないし……
要するにまだ、PRが行き渡っていない段階という事なのかしら(-_-;)
そうそうたるメンバーが揃ってますが・・・奈良女子大学は来年の五月で創立100周年という事だそうで、その記念行事を今年になってからやっております。
その一環で本日、『正倉院の魅力―1300年の伝世美』という講演会が行われました。

こちらの大学でも13点ほど所蔵している、模造宝物について、宝物の化学分析について、そして東大寺の狭川師による三本立て(?)ですが、まぁ、この類の講演は何度か聞いておりますので、分かりやすい内容です。

一番面白かったのは、科学調査に関してでした。
五十四面の鏡を成分的に見ますと、三種に大別できるそうで、代表的な装飾鏡は殆どが、銅70%、錫25%、鉛5%の中国鏡だという事だそうです。
一方、国内の官営工房で作られた鏡は、鉛は含まれず、銅に元々含まれている砒素が検出されるそうです。
天平時代に東大寺の大仏を鋳造した長登銅山(山口県)の銅も、やはり2~3%の砒素が含まれているそうです。
確か、天然銅に含まれる砒素は、現在の技術でも分離が出来ないと聞いた事があります。

それはさて置き、上の画像は何かと申しますと、奈良女が所蔵している『東大寺山境四至図』の模造品の一部です。
ここに見える、天平勝宝八歳六月とは、聖武太上天皇が亡くなって間もない頃で、この頃に東大寺の範囲が確定したのだと思われます。
時の寺の代表者は大僧都良弁、更に造東大寺司などに関係した人々四人の名前がありますが、最後の大倭国介の名前が分からないんです……従五位下の次は何の朝臣と書いてあるの??
続日本紀を見ても、国司ですら分からない場合が多いのに、介となると滅多に出て来ませんから(~_~;)
同じ図の写しが、東大寺にもあるようですが、こいつのオリジナルを見た記憶はありません。
それにしても、私にはお馴染みの面々の名前が並んでいるので、ついアップで写真を撮ってしまった次第ですσ(^◇^;)
山門より見る『現光寺』とは、大淀町の『世尊寺』のかつての名前だということです。
欽明天皇の世に、初めてわが国で作られた仏像を本尊として開かれたのがこちらの寺で、更に古くは『比蘇寺』とも呼ばれたそうです。

先日の日曜日、こちらで寺宝の縁起絵巻の公開があったので、一も二もなく行って参りました。
件のキトラ古墳の壁画をその前日の土曜日の晩に、ようやく見に行った態度と比べますと、妙に我ながらフットワークが軽いようです。
まぁ、後者は映像や画像でいやと言うほど見ているし、いずれは常設的に見る機会があるはずという高を括っているので、どうでも良いという意識があるようですσ(^◇^;)

二巻の絵巻として語られます寺の由緒来歴ですが、私のような素人の目から見ても、バリバリの狩野派の絵だと分かるくらいの極め付けに優れた代物です。
門外不出だったために保存がとても良く、絵も手もつい先ごろに書かれたように鮮明です。
この絵巻がどういう謂れで作成されたのかは、どうも良く分からないそうです。
解説をしてくれた方が言われていたのですが、この絵巻には跋文も落款もないのが、手がかりになるのではないかとの事です。

江戸時代の初め、こちらは西大寺派の寺として復興する動きがあった様なのですが、それがうまく行かずに、現在は曹洞宗(禅宗)の寺院として存続しています。
復興のための勧進活動の一環で、この絵巻は描かれたと考えられますが、何らかの原因で活動が頓挫し、この絵巻も実際に使われる事なく、寺に収められたのかも知れないという事でした。

白鳳の時代から何代もの天皇をはじめ、名だたる公家らの参詣を受けた名刹ですが、今は地元の方々の篤い思いに支えられて、奢る事無くひっそりと、しかし、なくてはならない存在として続いているようです。
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