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- 2008.02.10 近つ飛鳥に咲くやこの花
- 2007.11.04 天平の甍?唐招提寺金堂平成大修理
- 2007.02.19 白拍子の舞と静御前フォーラム
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今回のテーマはズバリ『都市論』です。
つまり古代における都市とは、如何様なものかを踏まえて、日本、韓国、ベトナム、中国の例を紹介する講演と、その後のディスカッションからなるのですが、私にとっては『都城』以上に門外の世界……初っ端から眠くなりました(^_^;)
それでも、各遺跡の紹介は面白いです。
しかし、内容が濃すぎると言うか情報が多すぎるので、各発表者の持ち時間の内に紹介するのが殆ど困難で、資料を参照にしながらも概要を追いかけるのが精一杯と言う状況です。
日本の場合は、ここ最近流行の(また、こういう不謹慎な事を言う……)『弥生時代の都市論』となりまして、機内における代表的な拠点集落として『纏向遺跡』、北九州では『比恵・那珂遺跡』と『須玖・岡本遺跡』が紹介されました。
九州の例は殆ど知らないのですが、機内の場合、弥生時代の拠点集落は奈良盆地に限ってみても、幾つか点在しています。
しかし、弥生後期から古墳初頭となると、『纏向遺跡』に集約されて来るのだそうです。
これにより、その時代の北九州から東海にかけての西日本の首都として考えても良いのではないのか、この辺りからまぁ、私の苦手な『邪馬台国』論争が派生するのですが、今回のシンポジウムではこういう話ではなく、あくまでも日本において都市とはいつから存在しているのかが争点となります。
それにしても今更ながらに驚くのが、日本の古代において、纏向以降に集約的な都市(各地域の拠点ではなく、国の単位での中央集権的な機能を持った)が現れるのを待とうとしたら、律令が萌芽する飛鳥時代以降を待たなければならないという事実です。
古墳中期には、中国大陸から柵封を受けた『倭の五王』などもいたのですが、確かにここが倭国の首都だという大きな都市は存在せずに、大君の世代交代に伴なう小規模(なのか?)な宮しか存在していないようです。
こう考えると、弥生時代とは決してプレ古墳時代ではない事が納得できます。
……にしても、常々、一次史料に頼りたがる身には、やはり弥生時代への取っ掛かりが覚束ないようで、すぐ近所の『唐古・鍵遺跡』にしても『平等坊・岩室遺跡』にしても『鴨都波遺跡』にしても、何となく縁遠いのは困ったものです。
これもひとえに勉強不足……σ(^◇^;)
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大阪といっても、大和高田市と葛城市を過ぎ、竹之内峠を越えればすぐ、太子町や河南町、つまりは南河内です。
実はこの辺りでも梅の花は、早咲きのものが少し咲いているだけで、殆どが蕾です。
今頃は私の田舎では、見頃なのだと思うのですが、やはり内陸は遅いようです。
演題は『徳島・観音寺遺跡と出土木簡―その歴史的意義―』です。
ただ今こちらの博物館では『発掘された日本列島2007』展を開催していまして、観音寺遺跡の木簡(レプリカだそうです)も、展示品に並んでいます。
木簡は平城京や藤原京のような都城には付き物の遺物ですが、地方でのまとまった出土例は極めて少ないのだそうで、こちらのように二百点を超える遺跡はとても貴重なのだそうです。
そして他に例を見ない古い(七世紀後半)木簡は、国府以前の地方行政の様子も彷彿と示してくれています。
更には木簡の記述から、阿波国府と名方郡の郡衙(ぐんが・郡の役所です)は、十字路の西と東に隣り合っていた可能性があり、近くには国分寺や国分尼寺もあり、長らく国の中心地であった事が知れます。
本来の『論語』と文字の順番などが一部違っており、書物などを見ずに暗記していた内容を書いたためではないかと考えられ、この当時に都を経ずに、大陸や半島からの知識が入っていた可能性もあるようです。
その証拠のように出土木簡には、渡来系氏族の名前も多く見られるようです。
さても私は文献の読めない身なのですが、こういう類の話が好きでして、和田先生の話も分かりやすいし、今日はとても有意義な講演会でした。
ところでここにあげた画像は何??
白梅と紅梅は、博物館の近くに咲いていた花です。
そして三番目の物は、白い木の実をついばんでいた目白の群れをデジタルズームをめ一杯にして写したのですが、ピントがやたらに甘いです(^_^;)
最後の奇妙な聖徳太子……これは太子町内の通学路の横断歩道ではお馴染みなのですが、一時は殆ど見られなくなって、最近再び置かれるようになりました。
これは竹之内峠の手前の『道の駅』に置かれていました。
赤いランドセルを背負った物が多いのですが、ハイキングコースには黄色いリュックサックを背負ったヴァージョンもあるようです。
既に昨日、11月3日、今年も去年に引き続いて行って来ました。
昨年の模様はこちらに→ http://umezo.bakeinu.jp/entry/34167/
昨年は屋根の木組みが丸出しという感じだったのですが、今年は既に瓦も葺き終わり、屋根の両端には新たな鴟尾も乗っております。
下に置かれているのは、今回の平成大修理で下ろされた物です。
手前が創建当初、約1300年の風雪に耐えて来た物で、奥が鎌倉時代の物です。
屋根の瓦は、全てが新しくなったのではなく、勿論、古い物も使っています。
再用されたのは全体の二割程度との事で、東面にまとめて用いられているそうです。
軒丸瓦は、ざっと見たところ三パターンあるようですが、もしかしたら更に種類があるかも(?_?)
このチョイト古そうな復弁蓮華文はいつのものなんでしょう?
この何となく簡素化された文様の物が、新たに焼きなおした物で、明治の修理の時の瓦に大きさをそろえてあるのだそうです。
何と申しますか、奈良朝の物を近世になって模倣したという感じですね。
どうも瓦は詳しくないので、良く分かりませんわ(^_^;)
瓦ばかりで恐縮ですが、こいつが、僧坊などでも見かけた寺の名前の瓦です。
文健では『唐律招提寺』で見えているので、私としてはつい、そのように読んでしまうのですが、良く見ると平瓦の文字は『唐招提律寺』……(-_-;)
こいつは鎌倉期くらいの物でしょうか?
まあ、修理前の瓦の四割は江戸時代の物のようです。
鬼瓦なんて、本当に江戸時代という顔をしていますし、銘文が入っているものもあります。
ここで決定的に古いのは、軒を支える隅鬼です。
今年も健気に座っております。
南西隅に一体だけ、江戸時代の物がいますが、他の三体は創建当時の物だそうで、これからも縁の下の力持ちを続けて行くのだそうです。
しかし、この子達も、修理の落慶法要の後には、下から仰ぎ見ても梁が邪魔して見えないとの事、この後のご対面は果たしてかないます事やら……
では明日は、午後から見て来た平城宮の第一次大極殿(西側大極殿)の再建現場の様子でもm(__)m
昨年の模様はこちらに→ http://umezo.bakeinu.jp/entry/34167/
下に置かれているのは、今回の平成大修理で下ろされた物です。
手前が創建当初、約1300年の風雪に耐えて来た物で、奥が鎌倉時代の物です。
再用されたのは全体の二割程度との事で、東面にまとめて用いられているそうです。
軒丸瓦は、ざっと見たところ三パターンあるようですが、もしかしたら更に種類があるかも(?_?)
このチョイト古そうな復弁蓮華文はいつのものなんでしょう?
何と申しますか、奈良朝の物を近世になって模倣したという感じですね。
どうも瓦は詳しくないので、良く分かりませんわ(^_^;)
文健では『唐律招提寺』で見えているので、私としてはつい、そのように読んでしまうのですが、良く見ると平瓦の文字は『唐招提律寺』……(-_-;)
こいつは鎌倉期くらいの物でしょうか?
まあ、修理前の瓦の四割は江戸時代の物のようです。
鬼瓦なんて、本当に江戸時代という顔をしていますし、銘文が入っているものもあります。
今年も健気に座っております。
南西隅に一体だけ、江戸時代の物がいますが、他の三体は創建当時の物だそうで、これからも縁の下の力持ちを続けて行くのだそうです。
しかし、この子達も、修理の落慶法要の後には、下から仰ぎ見ても梁が邪魔して見えないとの事、この後のご対面は果たしてかないます事やら……
では明日は、午後から見て来た平城宮の第一次大極殿(西側大極殿)の再建現場の様子でもm(__)m
奈良県大和高田市が静御前という、歴史上の有名人をクローズアップして、町の活性化を図ろうとプロジェクトを立ち上げたのは最近の事です。
その一環として二月一八日に市民会館の小ホールで行われたのがこのイベントです。
この画像はこの時に行われました、歌舞伎舞踊の村山左近家元による『白拍子の舞』の再現ですが、何せ舞人が家元さんなので、静御前にしては少々貫禄があるような(^^ゞ
どちらかと言えば、母親の礒野禅尼でしょうか?
実は市内に礒野という地名がありまして、ここがその母親の出身地で、鎌倉に送られた後に母親の里に戻った静御前は、この地で亡くなったという伝承が残っています。
それに伴うような史跡(?)なども市内にはいくつか点在しています。
静御前の縁の里に名乗りを上げているところは結構あるようで、北は北海道や青森にまで及ぶとか。
後の義経の奥州落ちや、更なる北行き、挙句は樺太から大陸に渡ってモンゴル帝国を云々の伝承に引っ付いて、この女性までが北の果てにつれて行かれたようです(^_^;)
白拍子の舞と言いますと、歴史ドラマなどで再現されているのは
やや勘違いの傾向にあるようで、一昨年の大河ドラマで石原さとみさんが演じられた舞も、どちらかというと巫女さんの舞に近いとかで、男装して舞うというコンセプトから外れているとの事です。
水干に立て烏帽子、髻を結って帯刀し、今様を歌いつつも勇壮に舞う、これが正しいとの家元のお言葉です。
舞の後に同志社女子大の朧谷寿先生の講演もありまして、かなり面白い時代背景の解説も頂けました。
……と言うか、この先生テンション高いし、毒舌もかなり冴えておられましたしσ(^◇^;)
その後のパネルディスカッションの時に言われた事では、名乗りを上げている伝承地にはあまりに眉唾な所も多く、この大和の礒野は淡路島と並んで、もっとも説得力のありそうな土地だとの事です。
この後、高田市の商工会議所のほうでは、この白拍子舞の講座なども予定しているとの事で、近々その様子をのぞきに行こうかと、うめぞー、密かに考えておりますので、こうご期待m(__)m
この画像はこの時に行われました、歌舞伎舞踊の村山左近家元による『白拍子の舞』の再現ですが、何せ舞人が家元さんなので、静御前にしては少々貫禄があるような(^^ゞ
どちらかと言えば、母親の礒野禅尼でしょうか?
実は市内に礒野という地名がありまして、ここがその母親の出身地で、鎌倉に送られた後に母親の里に戻った静御前は、この地で亡くなったという伝承が残っています。
それに伴うような史跡(?)なども市内にはいくつか点在しています。
静御前の縁の里に名乗りを上げているところは結構あるようで、北は北海道や青森にまで及ぶとか。
後の義経の奥州落ちや、更なる北行き、挙句は樺太から大陸に渡ってモンゴル帝国を云々の伝承に引っ付いて、この女性までが北の果てにつれて行かれたようです(^_^;)
白拍子の舞と言いますと、歴史ドラマなどで再現されているのは
水干に立て烏帽子、髻を結って帯刀し、今様を歌いつつも勇壮に舞う、これが正しいとの家元のお言葉です。
舞の後に同志社女子大の朧谷寿先生の講演もありまして、かなり面白い時代背景の解説も頂けました。
……と言うか、この先生テンション高いし、毒舌もかなり冴えておられましたしσ(^◇^;)
その後のパネルディスカッションの時に言われた事では、名乗りを上げている伝承地にはあまりに眉唾な所も多く、この大和の礒野は淡路島と並んで、もっとも説得力のありそうな土地だとの事です。
この後、高田市の商工会議所のほうでは、この白拍子舞の講座なども予定しているとの事で、近々その様子をのぞきに行こうかと、うめぞー、密かに考えておりますので、こうご期待m(__)m