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奈良女子大に行ったのは二年ぶりでしょうか、昨年は全然、講演会やシンポジウムには参加している余裕がなかったような気がしますから。
こちらで土曜日に研究会などをしてくれると、チョッと嬉しいんですよね。
何せ大学の学食は安くて結構リッチ、そしてこの女子大は特に美味しい(*^。^*)
ちなみに今回紛れ込んで来たシンポジウムは、
『都城制研究集会 都城の廃絶とその後』
報告者の名前を拝見しますと殆どは考古屋さんですから、私には極めて分かりやすい内容だろうとの予測の元に出かけました。
予想は概ね当たっておりまして、今回の切り口は都城の廃絶ですから、特に文献に現れない部分を発掘によって明らかになった事実で補足してゆくという具合の試みになって行きます。
そういう訳で、事実報告以上に想像力がモノを言うと申しますか、頭の切り替えや柔軟さを要求されそうな雰囲気です。
しかし言われてみれば至極当たり前の事も多く、私が今まで件の与太話群を書くに当たっての疑問を研究者方々も当たり前に持つようで、取っ付き易いと同時に妙な安心感があったと申しましょうか、とにかく全体的に面白かったです。
それにしても最後の方で、会場より京都府で恭仁京の調査に携わっている先生が、留守官に関しての問題定義をされていまして、これがかなり目新しい視線だなと思いましたわ。
留守官を置くという事は、その宮がまだ見捨てられていない証拠と考えられるにしても、難波宮においては一度も留守官を置くという記述が見られないのは何故なのか、これは初めて聞いた指摘です。
確かに、聖武天皇の紫香楽(甲賀)や難波への行幸に当たって、平城、恭仁の両京には置いているのに、それどころか平城遷都に当たって藤原京にも置いているのに?
難波宮調査担当の先生は、留守官は首都に置くのであって、副都の難波には特に規定もなかったのではと言われていましたか……?(゚_。)?(。_゚)?憶えとらんのか(ーー;)
ここで私が思い出した疑問が、天武天皇なり聖武天皇が副都制を考えるに当たって、それぞれの都の主の存在を考えたかと言う事です。
副都という思想、中国王朝などの例に倣っているのでしょうが、こちらでは皇帝と太子は同じ都に住まないという原則があります。
副都制は導入しようとしたのに、こちらの発想はどうだったのか、これを検討している例を私の不勉強なのか、殆ど聞いた事がありません。
私は勝手に、難波宮の主は氷高太上天皇だと思い込んでいるようなところがあるので、皇太子のポジションについても時々考えておりました。
天皇が東国行幸の後に恭仁に入った時、皇太子や皇后は一緒だったのか、こいつが以前からの疑問です。
藤氏の氏長だった外祖父が、長安をモデルにして平城京のプランナーとなったとしたら、藤氏を否定したくても仕切れない孫の天皇は、洛陽をモデルに恭仁京を計画した……昔から良く聞く事です。
そしてこれを聖武天皇に吹き込んだのが、吉備真備でも玄昉でも良いのですが、この人たちこそ長年の唐暮らしで、皇帝と太子が別の都に住んでいる事を熟知していたでしょう。
天皇の大規模な東国行幸に光明子皇后は着いて行ったにしても、阿倍皇太子はどうなのでしょう?
この人こそ、平城を預かって留守官共々に残っていたのではないのかしら??
それから最近疑問に思うのが、太上天皇は家政機関を持っているのかという事。
春宮坊や皇后宮職のような司はあるのに、太上天皇の生活は宮内省が担当しているままなのでしょうか?
もしも氷高太上天皇が難波にいたのだとしたら、摂津職の中にそのような司が会った可能性はあるのか??
と言っても、太上天皇が難波にいたということ事態が、私の仮定なので調べようもないのですがσ(^◇^;)
結局、このたびも新たな疑問が、次々湧いて来まして、これからも前途多難だねぇと喜ぶ次第です。
ところで、基調報告の最後の先生がどういう訳か文学屋さんでして、万葉集についての話をされていました。
なにやら考古学的アプローチのオンパレードの後に、違う世界の話を聞いているようで……
この先生も少々気の毒に思ったのですが、ここでいつもの阿呆発言……
どうしてうちの連中が揃いも揃って歌を詠まないかが、この先生の言葉を聴いていて、何とな~く分かりました(@_@;)ε-( ̄ヘ ̄)┌