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聴講証には『正倉院から見た東大寺』とありまして、今回は正倉院の成立に関する話なのかなと思っておりましたら、実は正倉院文書……こりゃ、先生、絶対にスイッチ入りまくるわ( ̄▽ ̄)。o0○と、予想通りでした。
相変わらず不勉強の私は、『中山寺』も『上山寺』も全く存在を知りませんで、中と上があるのなら、下もあるんじゃないのなどと戯けながら聞いていてはいけません、とにかく文書はややこしくて、説明について行くだけでやっとです。
ともあれ『中山寺』は『続日本紀』に塔と歩廊が全焼したという記事以外は、正倉院文書にしか名前が出てきませんし、『上山寺』は正倉院文書にのみ出てきますが、何れも東大寺の境内にあった寺の事だと考えられます。
『中山寺』の初出として、天平勝宝元年の十一月、中宮大輔の安宿王が造東大寺司の写経所に、中山寺に経典を貸し出してくれという依頼をした文書に見えます。
これによって『中山寺』は中宮(藤原宮子)に関係する寺だという事が分かります。
そして中宮(太皇太后)の崩御の後の写経事業を造東大寺司が、孝謙女帝や皇太后(藤原光明子)の命も受けて行っている事からも、『中山寺』と『東大寺』は切り離せない存在だと分かります。
ことに『山堂』に関しては、太上天皇(孝謙女帝)の意見を伺わねばならないと言っている事から、ここも皇家に関わりが深いと考えられ、『上山寺』にあった堂ではないかと推測できます。
さて、この頃の時勢はと申しますと、太上天皇と大師(藤原仲麻呂)の関係が決裂寸前です。
そして約一月後、太上天皇と淳仁天皇がついに決裂、双方ともなりふり構わぬ露骨な勢力固めに出てきます。
太政官を死守せんとする大師に対し、人事権を持つ太上天皇は造東大寺司を固めにかかります。
天平宝字六年閏十二月より以前、『造上山寺菩薩所』が設置され、『上山寺』の復興が始まったようです。
そして翌年の五月には、ここで大般若経転読をするので、経典を貸して欲しいと道鏡禅師が依頼をし、かの有名な『五月一日経(坤宮官一切経)』から貸し出されます。
更に十二月には、『上山寺悔過所』の名前が文書に見えますので、『上山寺』は女帝派の尽力で一気に復興を遂げているようです。
そしてこの法要のための予算が『上寺』(東大寺)から出ている事も分かります。
時代が少し下がって宝亀四年正月、『下院』から『中山寺』に吉祥悔過法要のために雑物を貸しているとも見られます。
こうしてみて行きますと、『上山寺』『中山寺』『下院』というセットが出来ます。
多分この三つの寺は、階段状に三段に連なって建てられていた可能性があります。
かつて吉川真司先生が、東大寺の丸山地区西斜面の平坦地で、多くの瓦などの遺物を採集し、ここに何らかの建物があった可能性を示唆し、『丸山西遺跡』と名付けています。
現在この場所には三ヶ所の人為的に造られたと見える平坦地が存在していまして、栄原先生はここを『上山寺』以下の三つの寺になる可能性を考えておられるそうです。
とは申せ、まだこの辺りの調査は行われておらず、決定的な事は分からないので、早々に発掘調査を懇願しているとの事。
ここに『上山寺』とでも墨書のある須恵器なりと出てくれば……期待しましょうσ(^◇^;)
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