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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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あっちでもこっちでも再三ほざいておりますが、私は天平十六年の閏正月に亡くなった安積(あさか)親王は病没だと思っております。
十二年の聖武天皇の東国行幸から恭仁京の造営、更に難波遷都までを辿って行き、ここで親王の薨去という事件を経て、紫香楽行幸が行われる理由が何となく分かるような気がしてきます。

奈良の八重桜聖武天皇という方は天平元年に生まれて間もない皇太子を亡くしています。
その菩提を弔うために『金鍾山房』という寺を建立します。
これが後に総国分寺の『東大寺』になる事は、あまりに有名ですが。

十七歳になっていたただ一人の男子である安積親王が亡くなった時、近江国の紫香楽では『甲賀寺』の建立が始まっていました。
これは既に予定された行動ですので、先の皇太子の薨去の時とは違いますが、父天皇にとっては甲賀寺が親王の菩提を弔う地のように思え始めたのではないのか、そのため、遷都を決めた難波を太上天皇と左大臣に預けて紫香楽村に赴いたのかもしれません。

ここ何日か『続日本紀』と以前に作った資料を眺めつつ、こんな方向で話を考えておりました。
こう思い始めますと、誰が言い出したのか知りませんが、その辺の小説などで興味本位(もしくは根拠不明)に取り上げられる暗殺説というのが、かなり陳腐で不愉快に思えて来たりします。

大体だ、頓宮で病気になって恭仁宮に戻って亡くなったのなら、どうして頓宮での行動を問題にしないの?
平城なり恭仁なりに引き返すとしたら、ここに付き従うのは親王付きの舎人だの衛士だのにならないの??
こいつらが誰かの命でも受けてたって展開も考えられるんだよな……
確かこの時に内舎人だった大伴宿禰某、親王付きとして出向していた可能性が大きい。
暗殺説取りたいのなら、この人に何かさせる気ある???
私ゃ、毛頭ないわな……だってこの説の否定派だものε-( ̄ヘ ̄)┌

ちなみに白壁王は、相変わらずこの内舎人の名前が思い出せなくてフラストレーション気味です(-_-)
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