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この二氏に限った事ではないのですが、天平宝字元年(正確には天平勝宝九歳・橘奈良麻呂の変)と八年の乱(恵美押勝の乱)で、一族内でもかなり明暗が分かれるようです。
大伴氏で橘奈良麻呂に連座した人は約五名、比較的プロフィールの分かる人で可能性がありそうな人も若干名おります。
前者は、古慈斐、古麻呂、駿河麻呂、兄人、池主
後者は、不破麻呂、伯麻呂といったところでしょうか。
この内で宝亀年間まで生き延びて復位を果たし、公卿にまで這い上がったツワモノもいたりします。
それが古慈斐、駿河麻呂、伯麻呂の三人です。
不破麻呂も長生きはしたようですが、卒去の記事が見えないし、極官が大蔵大輔の正五位上止まりだったようです。
伯麻呂が出世した決定打は、造西大寺次官に任命された事でしょう。
この人は家持と同世代(孝謙・称徳天皇とも同じ年かも)ですが、昇進の仕方を並べてみるとかなり面白いです。
家持という人は女帝にはかなり嫌われていて、光仁天皇にもあまり相手にされず、奇妙な事に桓武天皇からは(最初は)好かれている様子が、経歴から何となく分かります。
一方の伯麻呂は、女帝からも光仁天皇からも好意を持たれていたようで、延暦元年に亡くなった時には従三位にまで上っておりました。
もう一人の三位――といっても、亡くなった後の贈位です――の駿河麻呂はかなり大した御仁です。
恐らくは六十を過ぎてから、「陸奥を任せられるのは汝しかおらぬ!」といわんばかりにおだて上げられ(?)、按察使、陸奥守、揚句に鎮守将軍にまで任命されて、しっかり武功を立てて帰って来ました。
古慈斐の息子の弟麻呂も、同じような経歴ですね……
それに比べると益立はバリバリの鎮守府派、若い頃はずっと、陸奥にいたのではないかと思われます。
こう見てみると、この家の人たちは、中央にいるよりも外に行って出世する人が多いのかもしれません。
古麻呂も遣唐副使に選ばれていなかったら、もっと平凡な経歴だったでしょうし……しかし、この人、家持と並ぶ二大トラブルメーカーだな(ーー;)
こういうタイプが上司や同僚だったら、周囲は滅茶苦茶、迷惑するだろうなぁ……(--〆)
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