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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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紀伊半島にこれでもかと雨を降らせてくれた台風は、そろそろ温帯低気圧になったのか?まだなのか?それじゃなくとも、次の台風が来ているってのに!
山間部はかなりの被害があったようですが、奈良県の平野部はひたすらの長雨という様子でした。
御心配頂きまして、ありがとうございます……というのも何となく変な日本語のような気がしますが。

興福寺の鹿ども今日は雨がやむかと思えば、朝から結構な土砂降り、橿原から南は警報が出ていたみたいです。
雨だろうと風だろうと、取りあえず仕事に出かけまして、今日は単純な作業をしていたので、何となくどうでも良い事を考えておりました。

それは光仁天皇の三番目の親王(私の設定では四番目)の稗田親王の事。
この人は早良親王よりも一つ年下で天平勝宝三年生まれ、父親が即位した宝亀元年には二十歳になっているはずです。
十一月六日に兄の山部親王、姉の能登内親王、妹の酒人内親王が品位を得ているのに、この人の名前が見えず、六年の二月にようやく、無位から四品になっているのが見えます。
早良親王の名前が見えないのは、既に10年も前に出家しているからだと思いますが。
稗田親王の母親が誰かと言いますと、あのいささか当てにならない『紹運録』には、尾張皇女とありまして、井上皇后の子供たち以外で唯一、皇族の母親から生まれている事になるんですね。
そういう訳で、かの超胡散臭い『水鏡』には、他戸親王の廃太子の後、藤原浜成が皇太子に推したと書かれております。

この人、天応元年に31歳の若さで亡くなりますが、どうやら少なくとも四人は子供がいたようです。
ところが『続日本紀』に出てくる記事は、四品への叙位、三品への叙位、薨去の三回だけです。
何でまた、ここまで影の薄い人なんでしょう?
続日本紀の常(?)、都合の悪いところは削った??
もしそうならば、この親王の何が都合が悪かったんでしょう???
例えば、生まれつき、何らかのハンディがあったとか????

古代社会では王となる人は、先天的であれ後天的であれ、ハンディを負っていてはその資格を失くすというのは、結構当たり前に見られた事だと聞いた事があります。
既に律令円熟期の奈良時代、やはりこのような不文律はあったのでしょうか?
もしもあったとしたら、さて、この親王はどのような立場にしようかしらねぇ……
多分、直接には登場しない人だから、概ねの事を決めておくだけで良いのですけれどね。
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橿原神宮にて画像は綺麗な巫女さんですが、内容はろくでもないオジサンたちの事(--〆)

確か藤原縄麻呂の薨伝には、宝亀年間に皇太子傅に就任したと書かれていたはずです。
最初は宝亀二年に立太子した他戸親王の東宮傅だとばかり思っていたのですが、こちらは大中臣清麻呂の役目のようで、そうなると宝亀四年の山部親王の時という事になりそうです。
もしかしたら、大中臣清麻呂が何らかの都合で解任されて縄麻呂に変わった可能性や、二人が一緒に就任したという可能性もありますが、他戸親王が皇太子でいた期間は二年弱なので、やはり山部親王の時で良いのかもしれません。

ここで疑問……この令外官の仕事って何?(?_?)?
『傅』という字は『もり』とも読むようで、皇太子傅となると皇太子を教え補佐する役目と考えられているようです。
しかしですよ、立太子した時の山部親王って三十六歳ですよ、四十五歳の縄麻呂に何を教えてもらおうっていうんですかね?
中務省畑に長々と所属して(ってのは私の設定か^_^;)、太政官のみならず各省や後宮の弱みも良く知っているような御仁と、先の女帝の懐刀的な藤原南家きっての切れ者とじゃ、真っ当な王道なんぞ冗談でも口にしそうな雰囲気じゃない……?(゚_。)?(。_゚)?

それはともかく、この二人は案外、気が合ったのかしらねぇ?
そして式家の藤原百川とも、少々因縁深いかもしれませんね。
縄麻呂百川も共に高野女帝のお気に入りという印象が拭えないし、共に侍従を勤めていたくらいですから、もしかしたら先朝からの結託をしていたかもしれません。
縄麻呂がもう少し長生きをしていたら、藤原南家は是公継縄も台頭する事が出来なかったのではないでしょうか。
この三人は殆ど同世代ですが、出世の速度は縄麻呂が一番ですから、色々な面でこの人が豊成仲麻呂の後を引き継いで南家をリードして行ったと考えて間違いないと思えます。

縄麻呂の母親って誰でしたっけ?北家房前の娘かな??
いずれにしても豊成の息子達は、長男は所在不明?……次男は愚図?……三男は浅はか?
この四男坊が一番優秀なのは間違いないでしょう(~_~;)

このような訳で、これより縄麻呂と百川、更には山部親王の三つ巴(三竦み?)路線を少し考えてみましょうっと。
考えようによっては、滅茶苦茶、濃い連中だわ……(ーー;)
雄~田~麻~呂~……ぢゃなひ、百川昔(多分、二年位前)に描いた絵で恐縮です。
これが誰かって、藤原朝臣雄田麻呂です。
……ってのか、誰の顔をモデルにしたんだっけ?

それはともあれ、現在は四十を過ぎて百川に改名したこの御仁を糾問中というところですか。
まったく、こいつが黙秘権でも使ってるんじゃないかというくらい、何もアクションを起こしてくれない(T_T)

初っ端から山部親王に顎で使われているのに反発しているのか、こちらの要望なんてからっきし聞いちゃくれませんわ(/_;)
そりゃ、井上皇后はじめ、和気広虫だの吉備由利みたいな、百戦錬磨の女傑らの相手しかさせていない私も悪いんだが(~_~;)

何せこの御仁、私の話の中ではこの世代の藤氏の内でも一番の常識人、誰かのように腹黒い所があまりないのがネックです。
だから五つ年下の甥にも、三つ年下の異母弟にも少々なめられているような所があったりします。
まあ、一番なめて掛かっているのは、どこかの親王でしょうが……(-_-;)
でもねぇ、最後にはその人から頭下げられるだけの事、してもらわにゃ私が困る訳ね……

このような訳で、スランプという日常現象への対処を登場人物の責任とほざいて、今日も現実逃避に走るうめぞーでした……ε-( ̄ヘ ̄)┌

え~と、コメント(非公開)、誠にありがとうございます<m(__)m>
いや~、汗かきましたσ(^◇^;) (・_・;) (~_~;)
ハナノキの雄花
「あの老体が簡単に口を開くであろうか。ともあれ娘の尚蔵にまずは渡りを着けてみるか、泉などでは全く役に立たぬであろうから」

このように山部親王から言われているのは、老体の吉備真備、尚蔵(くらのかみ)の吉備由利、そして役立たずの吉備泉の親子です。
吉備由利という女性のプロフィールは、真備の娘か妹となっていますが、阿倍女帝の信任を得ていたというところから、年齢的にも娘と解釈する方が多いようです。
私も娘として書いております。
それも真備が最初に入唐する前に生まれた長女の扱いです。



これからホザキます戯言は、根も葉もない妄想ですので決して信じないで下さいσ(^◇^;)

由利が物心ついた時には父親は唐に渡った後、母親は娘を連れてさっさと再婚します。
天平七年に大宰府から父親帰還の知らせを受けたところで、由利は既に結婚していたし、それ以前より母親から散々に悪口を吹き込まれていたので、顔も覚えていないような父親への思慕の念もへったくれもあったものじゃありません……(ーー;)
それでなくとも、この年の夏から豌豆瘡が徐々に蔓延を初めて、それと共に帰って来た父親では、彼女の中に良い印象はほぼありませんでした。
由利はこの頃、皇后宮職に勤務していて、年も近い事があって阿倍内親王付きの女孺(めのわらわ)を勤めていました。

十八年も唐で様々な学問を学び、様々な書物や物品を見せ付けるように携えて帰って来た父親ですから、これより先、娘の方も色眼鏡で見られるという弊害が由利に降りかかります。
おまけに娘が皇后内親王のすぐ側に上がっていると知った父親は、鉄面皮にも自らを推挙せよなどと娘に迫ります……五位をもらっただけじゃ、気が済まなかったようです。
ところで由利の夫は橘諸兄に仕えておりましたので、こちらにも紹介して欲しいと、横柄な父親は娘夫妻の元に乗り込んで来ます。

そして天平九年、都での豌豆瘡のピークを迎え、壊滅状況の太政官のトップに橘諸兄がのし上がり、真備も従五位上中宮亮になります。
「これで御気が済みましたでしょう、父上様。もう私達には構わないで下さいね」
こういう事になる筈だったのですが……天平十三年秋七月、既に二年前に皇太子となり、恭仁宮にいる天皇の代わりに平城宮に留まっている阿倍内親王に仕える由利の元に、またもや水をかけられるような知らせが届きます。
吉備真備を東宮学士とする……
「何ですって!では父上が平城に戻って来るという事?それとも皇太子が恭仁に行かれるという事?いずれにしても冗談じゃないわよ!!!!!」



このように私の妄想の中でのこの父娘はとっても仲が悪いと言うか、娘の方が父親をかなり嫌っています。
娘が父親のおかげで出世したというよりも、父親が娘を足掛かりにのし上がったという設定です。
そのような訳で、山部親王に命じられた藤原百川が由利の元を訪れ、既に右大臣を致仕している父親にアポイントメントを求めるのですが、かなり良い迷惑だったのではないでしょうか。

「しかし仮にも貴方、参議じゃありません事、既に官職を辞した老人に面談を申し入れるなど、容易い事ではありませぬか。況してや中務卿の御依頼だと仰れば、皇族大好きのあの父の事ですもの、番所繰り合わせて予定を空けると思いますわよ」←岩下志麻の声で^_^;

なら瑠璃絵の時の奈良博
昨夜より東大寺修二会の試別火に入っています。
26日には惣別火入りし、28日には練行衆は参籠宿所に入り、3月1日から本業が始まり、15日まで毎晩、観音堂に入る僧侶の足元を照らす大きなたいまつが上がります。

この修二会を始めたのは、奈良時代の名僧として知られる実忠和上(じっちゅうかしょう)です。
最近では『頭塔』を造った人として、クローズアップされる事も多いようですが、実忠さんといえば『お水取り』、こちらの方が、今でも通りは良いかもしれません。

この画像は先日の『なら瑠璃絵』の時に、奈良国立博物館の新館にプロジェクターで映し出されていた『二月堂縁起』に描かれた実忠和上です。

『二月堂縁起』に寄れば、実忠和上は笠置寺の龍穴から都卒天に行き、十一面観音の悔過の行法を学んで、それを戻って来てから実践されたそうで、この行法が今に至るまで修二会として続いているのだそうです。
『東大寺要録』に寄れば、この方は神亀三(726)年に生まれて、没年は不明ですが、弘仁六(815)年には有名な『東大寺権別当実忠二十九ケ条』を記した事になっているので、九十歳までは生きていたという事になります。

和上が十一面悔過法要を始めたのは天平勝宝四(752)年、大仏建立と同じ年だという事です。
この時にはまだ二月堂は当然ながらありませんので、前身となる金光明寺の頃の観音堂ででも行ったのかもしれません。
そして大同四(809)年まで、約六十回(計算では五十八回)にわたって参籠を続けたと縁起は言っています。
修二会を始めた時は二十七歳(数え)、最後の参籠は八十四歳(数え)……大した御方です。

ところで私は、この実忠和上と唐招提寺の如法師がしょっちゅう、ダブるんですわ。
まあ、私の書いた与太話の中で、実忠師親王禅師(早良親王)、如法師開成親王が常にコンビを組んでいるようなところがあるので、これも原因なのですが、実忠師も如法師もコーカソイド系の外国人らしいんですね。
これで昔から、この二人を時々、ゴッチャにするような所があった訳です。
如法師は鑑真大和上の弟子なので、いつ日本に来たのかははっきりしているのですが、実忠師となりますと、本当に外国人なのかも実のところ良く分からないようです。

確か、以前に書いていた話の中で、二十数年ぶりに東大寺を訪れた五百枝王が、この実忠師に再会して早良親王の事を話すようなシーンを書いていたのですが、ここでも不思議な色の目をした老僧とか何とか、言わせていたはずですわ(^^ゞ
実のところ、実忠さんって本当に外国人だったのでしょうかね?

この人の生年は分かりませんが、亡くなったのは養老三(719)年二月五日です。
『日本書紀』に最初に名前が出てくる時は、粟田臣真人、天武十(681)年十二月、小錦下(従五位下相当)の位をもらった時です。
この時に三十歳前くらいと考えますと、それこそ文武天皇朝以降にコンビ(?)を組む事になる藤原朝臣不比等と、あまり変わらない年齢になるようです。
それでも、
もっと年上になるという説もあるようですが、取り敢えずは同世代と考えておきましょう。

雨の遣唐使船この御仁が何で有名かと申せば、大宝元(701)年に三十二年ぶりに再開された遣唐節刀大使として唐に渡り、かの女帝、武則天に大いに気に入られたというところでしょうか。
まぁ、大宝律令の制定にも貢献していますが。
遣唐大使に任命された時は直大弐(従四位上相当)、出航の前には正四位下参議に任命されています。
多分、四十代半ばでしょうから、官界では一番油が乗っている時期でしょうか。
そして帰国した翌年、慶雲二(705)年には従三位中納言になっています。
更に和銅元(708)年に大宰帥にも任命されていますが、この時は恐らく遥任でしょうか。

そういう訳で、この人が大宰府にいたのはいつか?
実は朱鳥年間と申しますか、日嗣皇子称制の頃です。
まぁ、普通の日本史年表では、鸕野大后の称制時代として、持統天皇元年~三年にしておりましょうが。
筑紫大宰(つくしのおおみこともち)という役職で、三度ほど見えています。
年齢や経歴から考えて、後に言うところの大宰少弐くらいに考えれば良いのでしょうかねぇ。

朱鳥四年(持統三年・689年)、四月十三日に日嗣皇子の草壁皇子が亡くなります。
何と、このたった七日後、筑紫に新羅の船が着いたようです。
表向きは先帝崩御の弔問のようですが、まぁ、あまりに微妙なタイミングで……
この頃には耽羅(済州島)は新羅の属国でしょうから、この辺りを基地として何らかの様子を察知して、様子を探るような船を出していると考えるのも、穿ちすぎか否か……
『日本書紀』の記述によれば、新羅弔問使節の身分が低い事を理由にして入京を拒み、七月までは大宰府に留めて帰国させています。
この時の筑紫大宰が、まさに粟田真人その人です。
新羅使節が帰国した二月後、筑紫大宰は別の人に代わりますので、粟田真人は都に帰った事でしょう。

そして翌年の正月、鸕野大后は即位式を上げて持統天皇となります。
天武天皇の崩御の後という微妙な時期に、この切れ者とも言える人物を外交の最先端たる大宰府に置いたのは、さて、日嗣皇子でしょうか大后でしょうか……
私の設定では前者ですが、いずれにしても為政者からは常に、『出来る男』として認識されていた人のようです。
粟田朝臣としては最高位、正三位にまで昇りますが、養老三(719)年になくなった時の官職や年齢は『続日本紀』には書かれていません。

今頃夏休みです。
そして自主的に缶詰状況です。
猛暑日なので猫もどこかに避暑に出かけて居りません。
お陰でこちらは、汗だくで『おうちカフェ』しながら、書けるところから書いております。
まあ、これがワープロソフトの強み、後でいくらでも編集可能σ(^◇^;)

毎度の事ですが、書いているうちに登場人物が暴走してくれます。
ただ今暴走中が、早良皇太子です(@_@;)
本当に、誰よりも言う事ややる事が過激になって来たわ……
謀反未遂の者をわざと逃がして連座者も芋づるでしょっ引けだの、大伴中納言の事を御老体だとか、あれは文人ではなく危険人物だとか言うし、邪魔者は地方に追いやれと天皇に耳打ちするわ、挙句の果ては甥っ子に、気になる女がいるならば、さっさと子供くらいつくれとけし掛けるし……今までのイメージが滅茶苦茶になってきましたわ(・_;)
やっぱり敵を過激に追い詰めて狩るのが好みなのかしら、さすがは寅年(・・?
数年前まで、寺で経読んでいた人とは思えませんわ……読経よりも、別当や権別当を巻き込んで派閥争い?の方がやっぱり似合うかな(~_~;)

この御仁と昨日の堺雅人ぢゃなくて、大伴継人が出てくると、藤原種継壱志濃王五百井女王も、かつての百川を彷彿とするような常識人になってきます……マジですか?(゚_。)?(。_゚)?
そしてもうすぐ名前が出て来る予定の北家の大蔵卿、出来る事ならあまり前面に出て来ないで下さいね、作者がまたパニック起こしますから……(-_-;)

さて、今のところ割合に仲良しの皇太子と藤原式家の中納言ですが、一度大喧嘩してもらわないと話が進みません。
喧嘩の相手は天皇でも御妃でも良いのですが、派手にやりあうのならやっぱり似た者同士かな……と言うほど、この二人、似ていないような気もするのですが。

ではそろそろ、逃避していないで仕事の続きをしなければ。
シマコが帰って来たけど、「冷たい飲み物入れて」と頼んでも、絶対に何もしてくれないだろうなぁ、邪魔以外は……天地開闢以来、猫がお手伝いなどする訳ないε-( ̄ヘ ̄)┌
すると猫村さんは猫ぢゃなひ……(?_?)

最後(にしたい)主要登場人物が出てきました……最初は全く出て来る予定が無かったのに(・・?
おまけに最初のイメージと全く違う人になっています。
若い頃の藤原種継に匹敵するくらい良く喋りますが、軽快さと言うかオチャラケた雰囲気はありませんね、似たようなプロフィールを持っているのに。
この二人、一時は上司と部下の関係だったのですが、都と任地で離れて仕事をしていました。
本人は、任地でのチョンボを都の上官に庇ってもらったとか何とか、主人公や友人たちに話しておりますが、言うほど面識があった様子もありません。
多分この二人が、直接一緒に仕事をしていたら、かなり気は合うのではないのかな。
それでも立場やら育ちやらが、そいつを許さなかったんだろうなぁ……(ー_ー)

そして最初は出て来る予定だったのに、結局出て来る様子のない大伴家持との関係も捏造する事となりました(ーー;)
やっぱり、こちらの関係は一筋縄じゃ行かなかった。
実父にも養父にも、幾ばくかの恨みを抱いて過ごして来たのに、この人の取る行動は一体何なのでしょうねぇ……作者にはどうも理解が仕切れません(~_~;)

しかしですよ、この人の最終目的は何なのかしら?
史料をある程度、額面どおりに読んでも、やはり分からないのですよね。
今までの謀反のターゲットは、最大実力者もしくは専制君主じゃなかったのかい?
それなのに前段階と言うか、最初の一歩で、一網打尽??
すごく衝動的に行われているようにも思えるんですよね。

それともターゲットを間違っていたのかい、この人?
間違っていたと言うよりも、見くびっていたという方が近いのでしょうかね??
この段階で専制君主は、右腕をもがれて戦意消失するとでも計算していたのでしょうか???
今までの独善的行動も、ブレーンたちに操られてしていたとでも????

そもそも失敗に終わった謀反は、大抵が計画がずさんなのですよね。
今までも、奈良時代に起きた謀反事件をいくつか扱った事があるのですが、これが成功していたところで、次の段階は内部分裂もしくは、部下に寝首を掻かれる……(--〆)
今回もこのパターンでしょうか?????

それはこれから更に捻る内容としまして……またもやこの人のイメージが変?!
こんなナイーブそうなイメージ、全く無かったのに、書いている内に湧いて来てしまいました。
左少弁大伴宿禰継人、何故なのか堺雅人さんの顔してます(・・?

ちっとも出て来る気配がないのに、大伴家持の周辺を色々眺めております。
鎮守府将軍を務めた駿河麻呂が亡くなった後の大伴氏の一臈は伯麻呂で良いのでしょうか。
ようやく気付いたのですが、この人と家持はもしかして同じ年?(゚_。)?(。_゚)?
ただし家持よりも伯麻呂のほうが、歴代天皇の覚えが良かったらしく、出世街道は常に先を歩いているようですねぇ。
光仁天皇とは酒豪同士で気が合ったんだろうか(^_^;)

奈良時代の終わり頃を眺めていますと、大伴氏の人々は何人も出て来るのですが、表面的に見ていると各人がバラバラな印象が否めません。
それぞれの人々を系図上で探してみますと……なるほど、殆どが別々の家の人ですか。
遡って、室屋大連談連金村大連、そして次を継いだのは多分、咋連でしょうか。

この人の三人の息子(長徳馬来田吹負)がそれぞれ家を興して分家し、長徳の息子たちもそれぞれに家を興しているようです。
御行は高市大卿、弟の安麻呂が佐保大納言なので、もしかしたら大伴高市の家、佐保の家とでも呼ばれたのでしょうか、この辺、史料をあまり当たっていないので分かりません。
要するに大伴氏も、家持よりも三代も前から分家が盛んになって、藤原氏同様にそれぞれの家が他との連携など出来ないほどに分れて行くようです。

御行の息子には兄麻呂古麻呂がいるとしまして、兄麻呂の息子は駿河麻呂潔足、古麻呂の息子は継人(伴善男の祖父)となっています。
他の奈良朝後期に見える人の系統を見て行きますと……
家持は勿論、長徳の曾孫、安麻呂の孫、旅人の息子ですね。
古慈斐はと申しますと、吹負の孫、祖父麻呂の息子です。
そして古慈斐の息子が『伊治呰麻呂の乱』に際して征東副将軍に選ばれた益立です。
伯麻呂はと申しますと、馬来田の孫、道足の息子のようです。

各人物の生年が殆ど分からないので、この人達が父親の嫡子なのか庶子なのかが分かりませんが、何となく年を取ってからの息子が多いような気がするのですが(-_-;)
旅人にしても家持にしても、嫡男が生まれたのは決して若い時ではありませんし。
さて問題は、後の藤原北家九条流のように、決定的な覇権を勝ち取った家があるか否かです。
平安時代の事は、情けないくらいに不勉強ですが、一体何人の人が公卿として見えるのでしょう?

ところで伯麻呂の姉って藤原小黒麻呂(北家、鳥養の次子)母親なんですねぇ……
益立は古慈斐の息子だし、天応元年の陸奥への征東軍に見える将軍ら、何か根本的な確執があるみたいですねぇ……(ーー;)
家持と古慈斐って仲良かったのかなぁ?
古麻呂の事もどう見ていたのかなぁ?
『橘奈良麻呂の変』の周辺を見ていても、既にこの家の連携は怪しいように見えるんですけど(~_~;)
意地悪く見ると、古麻呂も益立もスケープゴードに思えてきて……(@_@;)

知っている人には、何を今更な内容です(~_~;)
平城天皇藤原薬子よりも年上の可能性があるんですねぇ……
ただしそう考えると、本当に薬子が尚侍だったのかという方が疑問になるのですが(・・?
まぁ、あの父親(?)の息子(?)がやる事ですから、エコヒイキなんてざらなのでしょうが。

薬子は御存知、式家種継の娘です。
種継に息子は五人いたらしいのですが、娘は何人いたのでしょう……分かりません(・・?
一応、薬子の他には、桓武天皇の後宮に入って甘南美内親王を生んだ女性もいます。
種継の長女か次女か三女かは分かりませんが、薬子は同じ式家の縄主(蔵下麻呂の長子)の内室となって五児(三男二女)の母になります。
縄主と安殿親王(平城天皇)の年齢差は十四歳です。
仮に薬子を安殿親王と同じ年齢と仮定して考えてみましょう。

この時代の女性は十三歳で結婚が出来たはずです。
薬子の長女が皇太子だった安殿親王に輿入れするという運びですから、例えば十六歳で生んだ娘が十三歳になった時は、何と母親は二十九歳ですか。
安殿親王は三十三歳で即位してますから、二十九歳の時は間違いなく皇太子です。
それで、三十歳前後までに五人の母親になる事は可能か?
まぁ、生物学的に不可能という事はありますまい……(-_-;)

ちなみに長兄の仲成は安殿親王よりも十歳年長のはずですから、薬子との年齢関係には特に無理はないでしょう。
安殿親王の皇太子時代の妃には、藤原百川の娘の帯子と、伊勢老人(おきな)の娘の継子がいますが、継子は二歳年上、帯子も多分年上でしょうか。
もしかしたら安殿親王の好みは、同世代で少し年上の女性なのかも(^_^;)
そうなりゃ、一回り以上年下の女の子よりも、その母親の方に目が向くのも分からない心理でもないような、あるような?????
それにしても、長年とまで行かなくても連れ添った奥さんに袖にされた亭主の心理は如何に?
確か、北家にも似たような人がおられましたねぇ……(~_~;)

ところで百川の長男は緒嗣で、三男は継業ですが、次男の名前って分かってるのかしら?
もしかしたら成人前に死亡して、名前は残っていないのかな?
長男と三男の年齢差は五つ、三男は父親の亡くなった年に生まれているから、末っ子で間違いなし?

ついでに……こんなもの見つけて笑ってんじゃねぇって(--〆)

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