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確か藤原縄麻呂の薨伝には、宝亀年間に皇太子傅に就任したと書かれていたはずです。
最初は宝亀二年に立太子した他戸親王の東宮傅だとばかり思っていたのですが、こちらは大中臣清麻呂の役目のようで、そうなると宝亀四年の山部親王の時という事になりそうです。
もしかしたら、大中臣清麻呂が何らかの都合で解任されて縄麻呂に変わった可能性や、二人が一緒に就任したという可能性もありますが、他戸親王が皇太子でいた期間は二年弱なので、やはり山部親王の時で良いのかもしれません。
ここで疑問……この令外官の仕事って何?(?_?)?
『傅』という字は『もり』とも読むようで、皇太子傅となると皇太子を教え補佐する役目と考えられているようです。
しかしですよ、立太子した時の山部親王って三十六歳ですよ、四十五歳の縄麻呂に何を教えてもらおうっていうんですかね?
中務省畑に長々と所属して(ってのは私の設定か^_^;)、太政官のみならず各省や後宮の弱みも良く知っているような御仁と、先の女帝の懐刀的な藤原南家きっての切れ者とじゃ、真っ当な王道なんぞ冗談でも口にしそうな雰囲気じゃない……?(゚_。)?(。_゚)?
それはともかく、この二人は案外、気が合ったのかしらねぇ?
そして式家の藤原百川とも、少々因縁深いかもしれませんね。
縄麻呂も百川も共に高野女帝のお気に入りという印象が拭えないし、共に侍従を勤めていたくらいですから、もしかしたら先朝からの結託をしていたかもしれません。
縄麻呂がもう少し長生きをしていたら、藤原南家は是公も継縄も台頭する事が出来なかったのではないでしょうか。
この三人は殆ど同世代ですが、出世の速度は縄麻呂が一番ですから、色々な面でこの人が豊成や仲麻呂の後を引き継いで南家をリードして行ったと考えて間違いないと思えます。
縄麻呂の母親って誰でしたっけ?北家房前の娘かな??
いずれにしても豊成の息子達は、長男は所在不明?……次男は愚図?……三男は浅はか?
この四男坊が一番優秀なのは間違いないでしょう(~_~;)
このような訳で、これより縄麻呂と百川、更には山部親王の三つ巴(三竦み?)路線を少し考えてみましょうっと。
考えようによっては、滅茶苦茶、濃い連中だわ……(ーー;)
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