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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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思い返して具体的な根拠もないままに、私という作者に嫌われている登場人物は何人かおります。
多分思うに、主人公なり主要登場人物が嫌っているために、作者自身がマインドコントロールをされていまして、同様に嫌いになっているんじゃないのでしょうか(~_~;)

今年の始めに書いていた話の中では、藤原仲麻呂橘諸兄奈良麻呂の親子を嫌っておりまして、私もいつの間にかそれに乗せられておりました……(-_-;)
ただ今のところ、山部親王が異母妹の酒人内親王を嫌っておりまして、作者も同調しようとしております。
……っちゅうか、この人の性格のモデルが、私の大嫌いな奴ですかねσ(^◇^;)
こんな奴をモデルにされてしまった内親王に、今更ながら同情しないでもないのですがね(^_^;)

そんな奴の事はともかく、この女性は光仁天皇井上皇后の間に生まれた内親王です。
例の超当てにならない『本朝皇胤紹運録』によりますと、どういう訳か山部親王と同母と書かれています。
その代わりに能登内親王が皇后の娘にされていたりして…・・・(・_・;)

天平勝宝六(754)年の生まれですから、伊勢の斎宮に選ばれた宝亀三(772)年には数えで十九歳、この年まで誰にも嫁いでいないのは、皇后の娘として周囲が立場的に扱いかねていたためなのかもしれません。
一般の理解では、皇后の排斥が中央で起きた後に、この内親王が伊勢斎宮に選ばれた云々という事のようです。
天邪鬼うめぞーは、今回もこういうところに疑問を持っておりまして、『続日本紀』に見える十一月十三日は、斎宮に卜定された日というよりも、野々宮を卜定した日なのだろうと思ってます。
もしもこの人がある立場の人の考えの元に伊勢に追いやられたのだとしたら、母親が云々なので娘も追い払うというよりも、母親を云々するために娘を追い払ったという解釈です。

以前に書いていた話では、井上皇后他戸親王の立場を強化するために、その姉の内親王を当時の皇族官人のトップを走っていた中務宮山部親王に娶わせようとしたという展開になっておりました。
作者同様に天邪鬼な親王は、この据え膳に猛然と反発をしまして、それ以前から何となく嫌っていた異母妹をいっそう嫌うようになった訳です。

そして、内親王を嫌っているはずの皇太子が、何の心境の変化で後宮に迎えてしまうのか、こいつが今の問題ですわ(ーー;)
実は山部皇太子、自分ではなく別の人に押し付けるつもりだったのですが……これが大ハズレの展開となりまして、自ら火の粉を被るような失態(?)と相成ります(--〆)
何かこの御仁も、年を取るごとに性格悪くなってきますわね……(@_@;)

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白壁王の息子にも拘らず、曲者の要素が見当たらないって、チョッと私には痛い御仁ですわね。
史書に名前の見える光仁天皇の親王は、山部親王早良親王稗田親王他戸親王(以上、年齢順)の四人ですが、うちではもう一人、一番上に開成親王がいます。
この人、私の設定では山部親王の向こうを張るくらいの曲者ですσ(^◇^;)
それはともかく、稗田親王ですね。

『続日本紀』に見える記事は三箇所のみ。
最初は宝亀六年二月に無位から四品に叙位された時。
次は天応元年四月、異母兄の山部皇太子の即位に伴い、三品になった時。
最後は同年十二月、薨去の記事です。
ここには享年が三十一歳と見えていますので、生まれたのは天平勝宝三(751)年となり、早良親王よりも一つ年下になります。
件の超当てにならない『本朝皇胤紹運録』によりますと、生母は尾張女王と見えるそうです。
尾張女王はやはり『紹運録』に、湯原親王の娘と見えているそうです。

稗田親王の子供としては、大同三年に亡くなった葛野王が稗田親王の四男と記させているとか。
三十一歳で亡くなったにしても、少なくとも四人の子供がいたって事ですね。
他には高橋王という人もいたみたいです。

ともかく胡散臭い『水鏡』にでしたか、他戸親王が廃太子された後、新たな皇太子を選定するに当たって、藤原浜成(京家)がこの親王を推したという記事が見えるのは。
一応理由としては、母親の身分を上げているのですが、浜成の失脚時に氷上川継との縁戚関係を上げているところから見ると、もしかして稗田親王にも娘を嫁がせている可能性は否定できませんねぇ。
その娘の子供を後押しして、自らが外祖父として納まろうというパターンですね、既に親王は故人ですから。
いずれにしても、本人は殆ど表に出てこない、これでもかと言うほど影の薄い人です……
この人は割合に目立たない気がするのですが、藤原南家豊成の四男にもかかわらず、正妻の息子らしく兄らを差し置いて出世しているように思える人です。
亡くなったのは宝亀十(779)年で享年が五十一歳(数え)と見えますから、生まれたのは天平元(729)年になりますね。
この人、孝謙天皇の頃からずっと侍従をしている印象があるのですが、結構、色々な官を兼任しています。

神護景雲四(770)年八月四日に称徳天皇が崩御した後、『策を禁中に定めて白壁王を皇太子に擁立した時のメンバーに入っているのに、殆どこの話題で相手にされていないような印象もあります。
ここで名前の出て来る公卿らで、藤原氏以外といいますと、吉備真備石上宅嗣くらいですからねぇ。
でも、藤原氏といっても京家以外の三家の代表は参加してるんですよね。
本当にこの頃の南家って、立場が微妙なのかもしれませんわ。

そしてですね、この人、藤原百川と同じ年に亡くなっています。
百川は七月九日、縄麻呂は十二月十三日です。
百川の場合は、井上内親王の祟りの云々をあちらこちらで言われているのに、どうしてこの人は相手にされていないんでしょうねぇ……もしかして、陰が薄いのかしら(ーー;)
中納言従三位兼勅旨卿侍従勲三等』という肩書きを持ち、亡くなった時に『従二位大納言』を贈られているのですから、太政官の重鎮の一人でしょうに。

宝亀の初に中納言を拝し、尋(つ)ぎて皇太子傅、勅旨卿を兼ねぬ』と見えておりまして、私はてっきり中納言になった宝亀二年に他戸親王皇太子傅になったのだと思っていたのですが、この年の前後に就任の記録が見えません。
ちなみに他戸親王が立太子した時に皇太子傅(東宮傅)に就任したのは、大納言大中臣清麻呂です。
という事は……宝亀四年の山部親王の時?(・・??
三十七歳(数え)の皇太子に四十五歳(数え)の東宮傅……何か、変?(?_?)?
ちなみに東宮学士もしっかり任命されてたかな……日置蓑麻呂(兼大学頭)ですわ。

このようなプロフィールの人なのですから、白壁天皇や山部皇太子との関わりが浅いという事は、決してないのですよね。
なのにどうして、様々な出来事で問題視されないのでしょう??
やっぱり、この人は私にとっては曲者中の曲者の一人なのかも……(~_~;)
不退寺の多宝塔業平寺こと『不退寺』です。
今日、奈良へ行った用事は『まちなか1300年祭』よりも、こちらの多宝塔の特別開帳がメインです(^^ゞ
二層目が失われていますが、鎌倉時代に建てられた塔で、重要文化財に指定されています。
開帳されるのは年に一度だけ、五月二十八日の業平忌の日だけですが、今年は三十日までの三日間に延長されていましたので、ようやく行ってまいりました。

この寺に来るのは久々ですが、どういう訳か今の今まで勘違いしていたかも知れない事があるんです。
行かれた方はご存知かと思いますが、山門を入るとすぐ右手に池があって、その向こうに多宝塔が見えるのは、写真などでも良く撮影されています。
この濁った池なのですが、私の記憶では水が湧いて水面に紋が立ち、底から常に泥が撒き上がっていたような……いったい、何処の記憶やら、アメンボは浮いているけど水紋はたっていない(・_・;)

実はこの寺の周辺、私が勝手にとある人物の屋敷のあった場所に比定しております。
だから、平城上皇がここに屋敷を構え、阿保親王在原業平が住む事になったという、かなり強引な解釈にまで持ってこれる訳です、真偽はともかくσ(^◇^;)
こう書いて行くと、とある人物なんてわざわざ書くのがおこがましいですね(ーー゛)

本堂では業平公の画像も開帳されていましたが、こちらはそれ程古い物ではなさそうです。
しかし、考えてみれば、この方のプロフィールって全然知りませんわ(ーー;)
世間に膾炙しているイメージも、美男で女性遍歴が豊富、歌に巧みな風流人?
これって果たして、何処まで正しいんでしょう??
兄(行平)には劣るにせよ、政権の変わり目で昇進具合に変化があるって事は、この御仁もそれなりに官界での存在感はあったのではないのかしら???
もしそうならば、この御仁の持っていた野心は何なの????
この御仁にとって、父親、祖父はどういう存在になるんでしょう?????
もしも父親がもう少し長生きしていたらという思いは、無いはずも無いでしょうしねぇ……

何かの折に、私が在原業平という人物を書く事になっても、きっと女性との逢瀬に明け暮れるよりも、自分の居場所を求めるために不器用に足掻くような、要領の悪い美男子になりそうな気がします。
というか、むしろ業平よりも父親の阿保親王の方が面白そうな気がするんですけどね。
こんな事考えていると、ますます、ズルズルと話が伸びてゆくじゃないの……(~_~;)

これから書くつもりの話には、以前に書いた下敷きがあるのですが、こいつがまた酷くまとまりも悪くて要領も得ない、変に尻すぼみの内容で終わっています。
主人公も変えるつもりですし、恐らくはかつての三倍くらいの長さにして、要するに全面的に書き直しをしなければなりません。
そういう訳で、以前に書いた話はほぼ参考にしない方が良さそうです。
それでも一応、その頃にブログに書いていた与太事を読んでおりました。
そして、ある記事を読んで思った事……

私が軽く問題にしたのは、大伴古麻呂継人の父子です。
以前に書いた話でも、この親子、主人公たちの会話には出てくるのですが、彼らの行動には具体的に関わって来ません。
特に息子の方は、具体的な事件が起きるまでに名前が出てくれば良い様な存在でしか扱っておりませんでした。
ところがふと思ったのは、息子の方の事です。

この息子にとって、父親は果たして誇りに思える人だったのだろうか?

天平勝宝四年に遣唐副使としての使命を果たした父親は、恐らくは息子にとって自慢の父親だったのでしょう。
具体的な年齢は親子とも不明ですが、息子の方は到底、成人はしておらず、まだ幼かった頃の事だと思われます。
しかし、その五年後に父親は謀反への連座を問われて、刑死同然に亡くなっています。
この時に息子が成人していたか、この辺りも微妙なところでしょうが、その後の経歴を考えれば、粛清対象には入っていなかったと思われますし、まだ子供だったのかもしれません。

二十年後に父親同様に遣唐使に選ばれて海を渡り、命からがら帰って来た更に七年後、この人自身がまた父親と同様に罪を問われる事となります。
継人がもし、父親の事を幾ばくかでも恨んでいたのなら、処刑を目前にした時にどのように思ったのでしょうか……今回は、この辺りを具体的に書く予定はありませんが、何とも歯切れの悪い事件になりそうな気が致します。

それにしても、本当にあの主人公は働いてくれるのか?
変に小回りの利く白壁王の孫とは思えない腰の重さなんだが……(--〆)

大野朝臣東人に関しては、プロフィールをしっかり拾っていないので、実は詳しい経歴が頭に入っておりません。
しかしこの人は、奈良時代の前半の代表的な武官です。
養老四(720)年以降に多賀城の前身になる多賀柵が作られ、恐らくそこに置かれた鎮守府将軍として赴任しています。
天平元(729)年に功労者への叙位を奏上していますので、赴任はそれ以前です。
恐らくは神亀元(724)年の反乱以降になるのでしょう。
そして出羽柵が秋田村に移ると、そこまでに至る経路を開拓したいと申し出て、天平九(737)年に持節大使として、兵部卿の藤原麻呂が1000の騎兵を率いて着任します。

藤原麻呂は中央から派遣された総責任者で、道の開通のために実際に軍を率いて行くのは東人です。
そして麻呂に率いられて来た副将や、陸奥に派遣されていた官人たちは、この行軍の後方支援のために、玉造新田牡鹿などの柵(き)に配備されます。
東人は二月二十五日に多賀柵を出発して、四月の初頭までに百六十里を開通させたが、残雪が多く、農耕期にも入ってしまったため、兵士らを解散させたと四月十一日に報告しています。

恐らくは、これを四月十四日の日付で麻呂が中央に言上して、その後に都に帰っているのだと思うのですが……時は天平九年、都ではこの何年か続いていた豌豆瘡流行のピークを向えることとなります。

壊滅的になった太政官組織の再編のため、東人も召還された可能性があります。
天平十一年四月、この時に陸奥按察使、鎮守府将軍に加えて大和守でもあった東人は、参議に任命されていますので、在京だったのは間違いありません。

そして次に大野東人の名前が出てくるのは、天平十二年九月、大宰府で藤原広嗣が兵を起こし、その鎮圧のために大将軍に任命される時です。
亡くなるのはこの二年後ですので、決して若かった訳ではないはずです。
父親の果安(はたやす)も壬申の乱の時に名前が出て来る武官です。
東人自身も若い頃から、武官として過ごして来たのでしょう。

この人の息子たちは、殆ど目立った活躍もしていないようなのですが、娘の仲智(なかち)は藤原永手の内室になって、尚侍(ないしのかみ)兼尚蔵(くらのかみ)として後宮の最大実力者に上り詰めています。
子供たちの内で、一番父親に似ていたのが、案外この人かもしてません(~_~;)
久々に『万葉集』なんて開いて何を見ているのかと申しますと……

巻第六、この終わりの方に恭仁京への遷都前後の歌が載っております。
この筆頭が、天平十二年の十月末から始まる聖武天皇の、伊勢を始めとした東国への行幸に随行した大伴家持(当時二十五歳・内舎人)の歌です。
気のせいか、この人、終始、どうでも良さそうに「うちの奥さん、元気にしてるかな~」みたいな歌ばかり詠んでおります。
まぁ、この時、新婚だったらしいですけどねぇ……ε-( ̄ヘ ̄)┌

気が向いたら、こいつの紹介でもするつもりですが、これから何かネタになりそうな事を探すために、もう少し眺めて見ます。
しかし、本当に家持って一種の変人かもしれない……まあ、単純に空気読まないだけなのかな?それで歌詠むのって凄いのかな??いや、歌詠みって周囲はあまり見ていなかったりして???
なるほど、うちの連中がどうして歌を詠まないのか、何となく納得したような??(゚_。)?(。_゚)??
奈良時代に、国中連公麻呂という偉~い仏師がおられました。
葛下郡国中村の出身だそうですから、現在で申しますと大和高田市民ですか?
ところで、この方って本当に仏師なんですかねぇ?
つまり、現在私たちが考える仏師と言いますと、ノミだの木槌だので仏像を彫り上げて行くのを想像してしまうのですが、この方の代表作品と申しますと、何をおいても東大寺金堂の御本尊、毘盧舎那仏です。

五丈(約15メートル)を超える大きさだったと言いますから、どうあがいても一人で行う仕事ではありませんし、後の工房のように親方の下での分業制を取っていたと考えるのも、何か違うような……
工房と言うよりも巨大コンビナートみたいなものでしょう、毘盧舎那仏の造営現場となると。
そうなると公麻呂さん、親方と言うよりも工場長、いや、現場監督かな?
技術者と言うよりも監督官とか、プロデューサーみたいな人だったのかしら??

そもそも、この人ってこの職に着く前には何してたのかしら?
大和の片田舎の渡来系技術者では、都に出てきたとして……(゜.゜)、どこかの金匠工房にでもいたのかしら、それとも造宮省みたいな土木関係の司に属していたのかしら?
どうも前者では似合わないような気がするのねぇ……
知識は人一倍あったでしょうが、技術の方は決してトップでなくても良かったのかも知れません。
金工技術者は配下には大勢いても、現場の総責任者であるこの人が、直接に手を出すような必要はなかったでしょう。

さて、では再び最初の疑問、この方の得意分野は何にしましょうか。
五丈を超える仏の座像をまず、塑像で造るのですから美術プロデュースか?
そして本格的に鋳上げなければならないのですから、鋳造技術者??
ここでは実に多くの工人が働く事になるのですから、その人たちを効率的に使う監督官??
やっぱり、どれも必要、総合技術プロデューサー????

そのようにのたまわれてお出掛けになったのは聖武天皇です(゜_゜)
天平十二年から十六年の初めまでに、留守官を置くという記述のある行幸が、実に十回ほどあります。
留守官の人数は一人しか書かれていない時から、数人の名前が連なっている場合まで、かなりばらつきがありますが、割合に高位の人、つまりは大臣から参議、閣僚クラスの人が多いようです。
実はこの時に、常連的に名前の見える方がおられます。
まぁ、置かれている立場とか、天皇の個人的な都合や好みを鑑みても、何となく多くなる理由も分かるような……σ(^◇^;)

そういう訳で複数回、名前の見える方を上げてみましょう。

 二回 : 橘諸兄(左大臣)  大伴牛養(兵部卿)
 三回 : 藤原仲麻呂(参議・民部卿)  紀飯麻呂(右大弁)
 四回 : 藤原豊成(参議・兵部卿)  巨勢奈弖麻呂(中納言)
 七回 : 鈴鹿王(知太政官事)

いけませんわねぇ……このような面子が並ぶと、とにかく滅茶苦茶物騒な妄想が沸いて来てしまいますわ(@_@;)
北宮王家はまだ、ある意味健在なのね、そして十数年後を見よって……( -」)φ~

大した事じゃないのですが、橘諸兄の経歴って、何となく長屋王に似ているような……
皇族官人として割合に無難なコースに乗り、時の為政者の薨去によってクローズアップされるのも同様、参議だの中納言もすっ飛ばして、行き成り大納言に大抜擢される所なども。
そして言いたくは無いけれど、息子らが一緒になって謀反騒ぎ……(ーー;)
これによって、次の勢力の台頭を生んでいる……もっとも長屋王の場合は本人の騒ぎだったけどねぇ。
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