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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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何とな~く、昨日の歴史ドラマの延長?
正真正銘の戯言です。

安如宝という鑑真和上の弟子の僧侶と、うちの開成王は明らかに東大寺時代からカブります。
多分、当初、この二人は凄~く、気が合わなかったというか仲が悪かったと思います。

天平宝字元年、手嶋王改め開成王は東大寺に入ります。
そして間もなく、戒壇院で過ごす事になります。
鑑真大和上とその弟子たちは、この頃まだ東大寺の戒壇院にいたはずです。
新田部親王の第を下賜されて、唐律招提とするのは同三年の事です。

ティーンエイジャーの内に和上の弟子となって、日本にまで渡って来た愛弟子の如宝にしてみれば、向こうでもこちらでも、寺の中が生活の場でしょうか。
そこに突然、二十歳過ぎまで官人として過ごしてきた、いわば世俗にまみれた、自分よりも若干若い皇族出身のボンボンが和上に弟子入りして来たなんて、かなり気に障るというか、目障りというか、ムカつく存在に見えたことでしょう。

開成王こと手嶋王は十六歳の時から紫微中台にいて、二十歳そこらにして舎人から少忠までを勤めたという、猛者というかエリートというかサラブレッドというか……裏に何かがあるのは、如宝のような箱入り(?)にでも推測はつくというものでしょうか。
とにかく、この弟弟子は胡散臭い存在だったと思われます。
ホンの少し前までは、酒も飲めば、遊興にはうつつを抜かし、挙句は遊行女婦宿には馴染みの遊女までいたらしい???
それこそ投壷でもさせりゃ、藤別清麻呂の顔に墨を塗りたくるくらい朝飯前、紫微中台きっての遊び人で名を馳せていた???←誰からの情報やら、かなりガセが入っているようです(-_-;)
世俗が僧衣を着て歩いている、それこそ破戒僧とは、この男のためにある言葉!?

……と、この間違った情報が払拭されるのは、恐らく唐律招提寺の経営に開成が手腕を振るうようになってからでしょうか。
まぁ、それ以前にも誤解は、少しずつ解けて行ったと思いますけれど……

腐っても(腐ってなどいないけど)皇族、おまけに従四位下という破格の階位まで与えられた、この人の季禄はちょっとした物だったはずです。
下野から戻った時、開成に与えられる季禄の全てが寺の台所に喜捨されている事を知って、ようように弟弟子を見る目が変わったのだと思われます。

この頃には開成の父親は中納言、異母弟は近衛府少将、この連中にゴマをするのも、寺の台所を潤す一つの手立てやも知れぬ、
「教えだけでは食って行けぬのが実情、お上が食わせてくれると言うのなら、それに乗るのも一つの手段だ」との、かつての行基大僧正の教え(この辺、白壁王の口からの出任せの可能性があります)に従って、この国第一の戒律の道場を運営する義務がある、このように開き直った、いえ、悟ったのでしょうσ(^◇^;)
この後のこの二人は、結構、仲が良いはずです。
開成が親王になって都から出奔した後も、寺に戻って来て欲しいという書簡は、度々送っているようですから。

まぁ、こんな事はうめぞーが風呂に入りながら考えた事なので、決して信じないで下さいm(__)m
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ただ今考えている辺りでは、志貴親王家の家長は長子の春日王です(正史には決してこの様な事、これより以下の事は書いてないので、絶対に信じないで下さい)。
天平元年、末弟の白壁王が内舎人になりたいと突然言い出した時、中務省に対して横車を押せる程度の地位にはおりました。
この時の年齢は四十四歳、役職は刑部卿、割合に親しい知人や友人として、内臣の藤原朝臣房前、大蔵卿の鈴鹿王、宮内卿の葛城王などがいた事になってます……以前に書いた話によりますと(^_^;)
そして仲が良いのか悪いのか分からない相手に、左大臣の長屋王がおります。

恭仁京遷都が行われる天平十二年には五十五歳、まだ官界をリタイアする年齢ではないのですが、甲賀寺の造営の頃には散位になっています。
そして亡くなった天平十七年にはちょうど六十歳、ちなみにこの年に白壁王は三十七歳ですから年齢差は二十三歳、長子と末子だけあって親子ほどの年齢差になります。

つまり白壁の生まれた時には、既に成人して家庭も持っておりました。
当然、この末弟が生まれた時の状況も良く理解しています。
父親の志貴親王が亡くなった時には三十一ですから、この後の家の置かれる状況や周囲が向ける目にも、理解や予想は充分についていた事でしょう。
春日にとってはすぐ下の弟たちや息子は、大して悩みの種にはならなかったのですが、下の方の弟たちには少々、厄介をかけられています。
何といっても一番の心配の種は末弟だった事は間違いありません。

父親を何もしていなかった風流人には決して想定しなかった結果、息子もそれなりに目も鼻も利くキャラクターになってしまいました(ーー;)
この長兄に育てられた白壁王も飲んだくれるだけが仕事じゃない、後に猛禽のようだと呼ばれる息子以上に遠望(むしろ遠謀か?)の利く壮士になった事でしょう、ってのか……なってくれにゃ困るんだよ、作者的にはね(~_~;)

さて春日王は、天皇や左大臣らの計画に深入りし過ぎて行く末弟を、果たしてどのような目でみていたのでしょう。
後々、白壁の息子たちから、穏やかで思慮深く、怒らせれば誰よりも怖い人だと評されたこの伯父、やっぱり一筋縄じゃ行かないのかもしれませんわ。
こう考えると、身内の大人たちもかなり厄介な人だらけだわねぇ……どの程度登場させりゃ良いのかなぁ、殊に春日王は絶対に無視の出来ない立場の人だしねぇ(@_@;)
今回書こうと考えている話の登場人物では、この御仁こそが取って置きの曲者でしょうか。
確かに周囲は曲者だらけなのですが……と申しますか、私の書く話の主要登場人物はどれもこれも、一癖二癖じゃすまないような人ばかりなのですが、その上前をはねるのがこの方でしょう(~_~;)
かつて私は、聖武天皇と光明子皇后は、天武天皇と持統天皇にも匹敵する最強の夫婦かもしれないと、何処かで与太を飛ばしておりましたが、今もってこの辺りの感想は変わっておりません。

天平十五年、紫香楽離宮にて『盧舎那仏造営の詔』を発した時の、太政官を構成する面々を見てみますと、

 知太政官事  鈴鹿王 (兼式部卿)
 左大臣     橘宿禰諸兄 
 中納言     藤原朝臣豊成 (兼中務卿、中衛大将)
           巨勢朝臣奈弖麻呂 (兼神祇伯、左大弁)
 参議       藤原朝臣仲麻呂 (兼民部卿)
           大伴宿禰牛養 (兼兵部卿)
           紀朝臣麻呂 

この中で一番厄介に思えるのは、まあ、左大臣でしょうかねぇ。
その左大臣と、表面上は協調しているのですから、ある意味怖いものなしなのかもしれません。

でも今回問題になって来るのは、ここに現れていない人たちとの関係です。
その一人が光明子皇后、そして氷高太上天皇(元正太上天皇)、阿部内親王(皇太子)、更に行基大僧正、そして何よりも今回の主役となる白壁王です。

首(おびと)天皇と白壁王の年齢差は八歳、血縁関係は父親(文武天皇)の従弟なので、そうそう近い訳でも遠い訳でもありません。
何せ他の浄御原(天武)天皇系の二世王らとも、同じ程度の血縁ですから……
しかしこの二人、良く考えてみると共通点がない訳でも有りません。
父親を幼少期に亡くしていて、母親の顔をほぼ知らない、当然ながら親代わりになってくれた人達がいたはずです。
こういう些細に思える辺りが、私の付け込むポイントですね(^_^;)

この御仁の即位後の行動を考えてみると、やはり母方というか皇后の身内は鬱陶しかったのでしょう。
そこで目を向けるのは、やはり父方の家系、しかし浄御原系は母方以上に鬱陶しいかも?
焦点を更に絞って、自らの祖父母や伯父伯母らの周辺に引っかかっていたのが、案外、生い立ちで共感できる白壁王のような、一見、毒にも薬にもなりそうにない人物だったのかもしれません。
いや、天邪鬼うめぞーのプランでは、もっと決定的な要因を用意しているのですがね(ーー゛)
とどのつまり、白壁王は若い天皇にとって、かなり目障りで気の置ける存在になりつつあったんです。

ここにしゃしゃり出てくるのが、多分、橘諸兄、そしてその異父妹とファミリーたちですねσ(^◇^;)
結局は切りたくても切れない、血縁関係はあっちもこっちも巻き込む訳ですわ。
考えようによっては、家に対する不満を常に抱いていたのは、諸兄も共通のような気がします。
だから後々、皇族から臣に下りて橘宿禰の名前を継いだのかもしれませんが。
逆にこの部分は、白壁王とは異なる部分なのかもしれません。

考えれば考えるほど、この三人って面倒な連中に思えてきましたわ。
でもやっはり、一番面倒なのは首天皇、その人なのね。
これに更に面倒な脇役が絡んで来るんだから……ダメだなぁ、全然整理がついてないわ(/_;)
つじつま合わせと記憶のすり合わせのために、またしても昔に書いた、やたらに長い話を読み直しておりました。
件の藤原雄田麻呂、十数年の間でのキャラクターに、ずいぶんと開きがありすぎるんですけど、さて、どうしましょうかね。

天平勝宝八年の頃にはかなり横柄な態度を取っていたくせに、宝亀二年くらいになると、必要以上に腰が低いのだけれど……って、うちのスメラミコトに対してです(~_~;)
まぁ雄田麻呂から見れば、昔は五つ年下だし無位で駆け出しの内舎人に過ぎないし、父親が干されているお陰で官界での後ろ盾も殆どない状況ですからねぇ。
でもその後は、たとえ年下だろうと皇族官人の中では出世頭、押しも押されぬ中務卿宮で侍従……言葉が完全に敬語になってるんですけどσ(^◇^;)

それに引き換え変わらないのは種継だわねぇ。
今も昔も「若翁!」だし……(ーー゛) “わかぎみ”と読んで下さい。
なんか読んでると、雄田麻呂(百川)の弟は蔵下麻呂じゃなくて種継の方みたいに思えて来ますわ。
式家の内部に限らず、種継が一番、とらえどころのないぶっ飛んだキャラクターですからねぇσ(^◇^;)
いずれにしてもうちの雄田麻呂は、この家の中に限らず誰よりも常識人かもしれませんわ。

一番の非常識?
そりゃ、志貴親王に決まってますわ(-_-)
一連の騒ぎの根本は、この御仁の行いにあるのだから……いや、この事を考えると、草壁皇太子の方が更に上かな?????????????????????
この御仁は果たして一般的な古代史ファンからはどう思われているのでしょう。
うちではかなり人間くさい御仁です。
生まれたのは慶雲三(706)年ですから、後の悪友、白壁王よりも三つ年上になります。
従五位下に叙位されて史書に現れるのは天平六年、二十九歳の時です。
二つ年上の同母兄の豊成が二十一歳でさっさと同じ位をもらったのに比べると、嫡子と庶子の違いは大きなものです。

ともあれエリートの典型とでも申しましょうか、この御仁の出世街道は内舎人より始まります。
格に従えば、二十一歳の時のはずです。
そしてその三年後(実は二年半後)には白壁王が同僚となりまして、この二人の腐れ縁的悪友ライフが始まるのです(~_~;)

この頃の仲麻呂は、白壁王の言葉を借りるなら
“垢抜けた美男で、口達者な切れ者”
“友好的な相手には、愛想を欠かさぬ律義者”……は普通の評価、
“ふてぶてしい態度を取るが、結構、神経質で細かい”
“普段が歯切れ良い分、落ち込むとかなり鬱陶しい”
“実はそうとう、根に持つ”、
“酔うとネチネチとしつこく絡む”……などなど(@_@;)

思うに、性格は悪くないはずです。
家柄云々を問われれば確かに藤原南家、しかし、それを笠に着ていては出世などできません。
後ろ盾が大してない祖父が若い頃にしたような根回しや人への気遣いは、天性の性格としてよりも、自然な計算の許に容易くできるようなキャラクターだと勝手に思っております。

兄に比べれば確かに出世はもたついていますが、一般的な上位官人の例からすると、かなり早い部類に入ります。
何せ三十八歳の時には参議となって、中納言の兄と共に太政官における南家の地位固めを始めますから。
父親が生きていれば、この辺りの出世も、もっと早かったのかもしれませんが。

後半生の評価はどうあれ、この御仁の若い頃は曲者と呼ぶには、ややインパクトに欠けるかな……
これが私の与太話に登場する、藤原恵美朝臣押勝と呼ばれるよりもかなり以前の人物設定でした。

しっかし、山部王と関わる頃には、結構、意地悪いオヤジになりつつあるような……(^_^;)
この女性は市原王能登女王の間に生まれた長女です。
生年は不明ですが、私の設定では天平宝字元(757)年の生まれ……確か以前に書いた話では、うちのスメラミコトが内舎人として任官した年には、生まれていた事になっていたのでσ(^◇^;)
そうすると同母弟の五百枝王とは三つ違いになりますか。

『続日本紀』での初出は天応元(781)年、祖父の光仁天皇により、弟と供に二世王(孫王)として認められ、従四位下を叙位されます。
この人が誰の内室で、子供が何人いたのか、その類はどうやら分かりません。
しかし従弟の嵯峨天皇の時には、尚侍として後宮女官の最高位にたっています。

どうやら私のプランではこの女性、生涯独身で終えそうな気が致します。
気が向けば誰か皇族の内室にもなりそうですが、さて、誰が良いものやら考え付かなくて(゜.゜)

そもそも、彼女の子供の時からの座右の銘(?)は「叔父上様のお妃になるの」……これが災いしています。
親馬鹿(これはこの一家にほぼ共通する性質でしょうか)な両親はこの言葉を受けて山部王に対し、その心積もりでいろと常日頃プレッシャーをかけているのですが、さて、これがどうなるかと申しますと、巧くは行かなかったようです。
祖父の白壁王が即位した時、伊勢斎宮の候補として、酒人内親王共々に名前が挙がるのですが、結果は歴史書に見る通りです。
そして山部親王が立太子すると、その妃候補の一人として再び名が挙がるのですが、これに対しては五百井女王自身が拒否をしてしまいます。

さて、どうして私はこういう設定をしたのでしょう……これを時々考えるのですが、これは完全に女王の性格と考え方に起因しているのでしょう。
現代風に申しますと、彼女は仕事と家庭の両立を望んでいたのです。
中務卿宮と呼ばれた頃の山部親王は、皇族官僚の内では最もエリートコースに乗っていたはずです。
遠からず参議となり、いずれは中納言大納言、そして大臣の椅子も待っているだろうと、周囲は考えていたかもしれません。
この頃の女性官僚(?)はたいていが高官の内室で、夫婦そろって官界と後宮を牛耳っていた事も珍しくありません。
五百井女王が子供時代から考えていたのは、どうやらこのような姿だったのでしょう。

しかし皇太子はいずれ天皇になる身、どう考えても大臣にはなりません。
そして周囲を固める藤氏の軋轢の下では、たとえ孫王でも皇后になるのはあまりに難しかったでしょう。
両親とも皇族で、父親を早くに亡くしている女王には、官界での後ろ盾がないも同然ですから。
かくして、色恋よりも政界で生きる事を自らの道と選んだ五百井女王は、後宮に並み居る海千山千の女孺や内侍らの間を強かに泳ぎ回り、二官八省一台六衛府の官人らも軽くいなして、キャリアウーマンの道を突き進むのでした(@_@)

う~~~ん、弟よりも余程に男らしいかも(ーー゛)
こういう事を本日、行きつけの喫茶店にて考えていたのでしたm(__)m
白壁王の内舎人任官に口を利いてくれたのは、時の左大臣、長屋王という奇妙な設定を致しました。
それでなくとも、この家は元々、父親と日並皇子(草壁皇子)との関係で、子供の世代になってもかなりの付き合いはあるという事になっております。
同様にして北宮(高市皇子家)との交友関係、長親王家とも婚姻関係があり、間違っても淡海帝の血筋云々で、孤立したような能天気な設定はしておりません(^^ゞ

さらに父親の仕事の関係で、藤原家とのつながりが結構強いんです。
長兄の春日王が北家の房前(ふささき)とかなり仲が良いので、息子世代の白壁王と鳥飼(とりかい:房前の長子)は同じ年の良い友人となっています。
ところが鳥飼は父親と供に流行り病で亡くなり、すぐ下の弟の永手や八束との交友が始まります。

南家とはどうかと申しますと、ここで何度も書いているように、仲麻呂との腐れ縁がほぼ一生続いております(-_-;)
京家との交流は……無いんです、実は(・・?
問題となるのは式家でしょう。
息子の山部王と雄田麻呂はいつも、面つき合わせて良からぬ話ばかりしているし、蔵下麻呂とは内舎人時代に悪さをした仲、種継に至っては乳母子の仲という具合なのですが、白壁王本人との関係となりますと、殆ど無いような気が致します。
一応、異母兄の湯原王は、若い頃に式部省で宇合(うまかい)の部下だった事になっていますが、やはり白壁王自身は……そうか、攝津職で関連付ければよいか(~_~)

造難波宮司から造恭仁宮司にヘッドハンティングされるんだわね、橘諸兄によって(^^ゞ
攝津職にいた頃は、まだ、宇合は存命だろうなぁ。
その息子たちとの面識は、どの程度あった事にしようかなぁ。
南家や北家に比べると、やっぱり淡白な感じになりそうねぇ……(ーー゛)
天平12年から17年にかけて、主要登場人物は……

白壁王
首(おびと)天皇
光明子皇后
氷高太上天皇
阿部内親王
橘朝臣諸兄
春日王
智努王
大市王
藤原朝臣仲麻呂
藤原朝臣豊成
下道(しもつみち)朝臣真備
大伴宿禰家持
そして
良弁僧都
行基大僧正

やっぱり父上の世代は、滅茶苦茶、濃い……(@_@;)

「私も長年、官界に身を置いて来た。御身の生き方を否定する訳がない。この世界で生きるのなら奇麗事は、そうだな、歌にでも詠めばよかろう。祖父や曾祖父も、そのようにして世を渡って来たはずだ」

どうも私は、常識人にこういう事を平気で言わせたいらしいです。
『東大寺写経所』の舎人から官人生活を始め、写経長官になり、恐らくは『皇后宮職』や『治部省』に身を置きつつも、『造東大寺長官』を長く務めて来たのが市原王です。
この人についての考察は、今まで結構してきたので、今更繰り返すのも面倒なのですが。
最近では、こういう与太も飛ばしましたか↓
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/334/

相変わらず困った事に、この人については『正倉院文書』では割におなじみの感があるのに、『万葉集』での活躍がまるで浮かんでこない……
いや、別に大伴家持とお友達してるのが鬱陶しいとか、そういう次元じゃなくって、殆ど歌人として認識してないんです、私の左脳がσ(^◇^;)

恐らくこの人は四位を目の前にして、四十代半ばで亡くなっていると思います。
佐伯今毛人の左遷の後、何度目かの造東大寺長官に返り咲きますが、年が明けるとすぐに吉備真備が後任になっています。
一応、こういう路線↓で構わぬとは思っているのですが……
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/458/

『八年の乱』の時に、藤原縄麻呂が『造東大寺司』の役人に何かを命じている書類が、正倉院文書として残っているらしいのですが、そう考えると縄麻呂はまだ治部省にいたって事になるのかしら。
そうすると↑の事件の時には、この人は免職していないって事か?

そもそも、令外の司である『造東大寺司』と治部省との力関係は、どのようなものだったのでしょうねぇ。
この辺も文書屋さんは、どう捕らえているのかしら?
今日も基礎知識の欠如に悩むのですが、初代の造東大寺長官市原王、下手な治部卿なんぞよりもよっぽど、東大寺大徳(良弁です)からは信頼されていたんじゃないでしょうかね。

天平宝字六年十二月一日 「従三位氷上真人塩焼、従三位諱、従三位藤原朝臣真楯を中納言

『続日本紀』にこのように見えます。
従三位諱(いみな)とは、ここで再三名前の出てくる白壁王(しらかべのみこ)です。
この時に五十四歳、他の二人は四十八歳、もう一人の中納言の藤原永手も四十九歳なので、中納言の内では一番年上となります。
それで白壁王なのですが、中納言になる前はどのような役職に就いていたのでしょう?
これが分かれば苦労しない……(^_^;)?
はっきり言って分かりません、だって、どこにも書いてないんだものσ(^◇^;)

まぁ、普通に考えて、無位無官の人がいきなり太政官入りする訳ゃないわね。
いえ、白壁王は無位ではないです。
二十九歳の時に最初の叙位、孫王(天皇の孫)ですから従四位下になります。
従三位になったのは天平宝字三年、五十一歳の時ですから、取り立てて遅い訳でもありません。
しかし前歴が全く記されておりません。

唯一、天平宝字四年に光明子皇太后が崩御した時、山作司に任命されています。
山作司とは、墓所の墳丘を造営するための臨時の組織で、この時十二名が任命され、そうそうたるメンバーが名前を連ねています。
まぁ、こいつはあくまでも臨時の役職ですからねぇ。

はっきり言って、この御仁が何もしていない訳はありません。
中納言になった後の天平宝字八年九月、大師藤原恵美朝臣押勝が謀反を起こします。
この平定後の叙勲で勲二等が与えられていますから、脇の方でぼや~っと眺めていたのではないでしょう。
その一月後、嫡子(だと思う)の山部王(二十八歳)が無位から従五位下になっています。
この親子が『八年の乱』で何をしたのか……やっぱり書いてないから分からない(-.-)

この後は称徳女帝道鏡法王の時代に突入します。
天平神護二年一月、正三位大納言(正三位には前々年)
息子の方は十一月に従五位上。
この親子、この奇妙奇天烈な政権下で何をしていたんだ……え~と、大納言と大学頭ですか?
そして次の動きは四年後の神護景雲四年(十月一日、宝亀に改元)。
何もしなくて、果たして皇太子が転がり込んでくるか??!!

史料に何も書いてないから何もしていないでは、与太な物書きは勤まりません。
うちの父上は、思いっきり腹黒いみたいです!(^^)!
頑張れ中納言、とりあえずの仕事は『狐狩り』かね?

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