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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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天平神護元(765)年当初の太政官の推定メンバー
  (*)は不確定的

大臣禅師   道鏡
右大臣   従一位   藤原朝臣豊成
大納言   正三位   藤原朝臣永手
中納言   従三位   白壁王
        従三位   藤原朝臣真楯
参議     従三位   藤原朝臣清河
        従三位   山村王  (*)
        従三位   和気王  (*公卿補任による)
        従三位   吉備朝臣真備
        正四位上  中臣朝臣清麻呂
        正四位下  石川朝臣豊成
        従四位下  藤原朝臣縄麻呂 (*)
        従四位下  粟田朝臣道麻呂 (*公卿補任による)
        従四位下  弓削御浄朝臣浄人 (*)


この二年前のメンバーが6月29日の記事にあげてありますが、ずいぶん大幅に変更があるものですわ。
理由は調べればすぐ分かるのですが……
しかし、新たに参議になった人の任官時期がはっきりしないのが、どうしてこんなに多いんでしょうねぇ。
相変わらず諸王の名前が散見されるのですが、こいつが少したつと白壁王以外は消えて行く……

結局、称徳女帝には皇家親政の意思は大してなかったのかもしれない?
こう結論付けて果たして良い訳??
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私の中で南家豊成の息子どもは、案外、影が薄い……
何せ父親ですらも弟らの陰に隠れて、存在感が希薄……
その父親(祖父)は、それなりのインパクトのある御仁なのにねぇ……

この南家の右大臣の息子らで誰が曲者かと申しますと、四男の縄麻呂(ただまろ)です。
この人の母親は北家房前(ふささき)の娘だそうで、どうやら正妻の息子という扱いのようです。
何と申しましても、二十一歳で早々に従五位下に叙せられているのは、嫡子扱い以外の何でもなさそう。
そしてその四ヶ月後に侍従に任命されてます。
ちなみにこの時には、既に孝謙天皇が即位しています。
この後はかなりのブランクがありまして、更には、天平宝字元年の『橘奈良麻呂の謀反事件』で父親や兄が関与を問われたためか、出世のスピードはもたついています。

しかし淳仁天皇の御世になっても侍従は続けているようで、七年に礼部(治部)大輔になった時も侍従との兼任になっているます。
この人の次のステップが始まるのは、『恵美仲麻呂の謀反(八年の乱)』の後です。
『続日本紀』には何の記述もないのに、従四位下・勲三等に叙せられます。
いったいこの壮士、何をしたんだ……(--〆)
天平神護二年には正四位下民部卿・勅旨大輔・侍従で見え、更には近江守(相変わらず藤原南家の独占職?)にまでなっています。
もしかしたら参議になったのもこの辺りかも知れません。
もし『八年の乱』の時の任命なら、まだ三十六歳……一体何をしたんだ、この壮士(?_?)

ただ南家は光仁天皇の時代になると、少々旗色が悪い(?)ですから、もう少し長生きをするべきだったのかもしれません。
縄麻呂の亡くなったのは宝亀十年、従三位中納言兼中衛大将、勅旨卿、侍従で五十一歳。
従二位大納言が贈られていますが、後数年長生きして桓武天皇の時代にまで活躍できれば、大臣のポストも待っていたかもしれません。
北家の魚名も失脚するしねぇ……この後は北家が斜陽気味?
この人が亡くなったおかげで、兄の継縄や従兄弟の是公、式家の田麻呂の出世街道も開けたのかもしれませんけどねぇ……

以上のプロフィールはともあれ、果たしてこの壮士、何をしたんだ、『八年の乱』および『和気王謀反未遂』の時に……(ーー゛)

天平宝字七年の太政官人事

大師(太政大臣)  : 藤原恵美朝臣押勝

御史大夫(大納言) : 文室真人浄三(智努王)

中納言        : 藤原朝臣永手
              藤原朝臣真楯
              氷上真人塩焼(塩焼王)
              白壁王

参議           藤原朝臣清河
              藤原朝臣御楯
              藤原朝臣弟貞(山背王)
              藤原恵美朝臣真先
              藤原恵美朝臣訓儒麻呂
              藤原恵美朝臣朝獦
              中臣朝臣清麻呂
              石川朝臣豊成

(゜.゜)う~ん(゜.゜)……何なんだ、この偏りまくった人事は。 
藤原恵美家(南家)と北家のケンカみたいだわ、まるで……(・.・;)
藤原さんだらけもすごいんだが、皇族出身者が四人もいる(ーー;)
この次の年に、大幅な人事異動(?)があるのですが、ここでもまた、別の意味で偏った編成になるんですよ。
それにして見目立つのは、やはり諸王の名前が散見される事です。

聖武天皇が皇家親政を考えた事は確かなのでしょうが、この編成を見ていると、娘の孝謙・称徳天皇も別の形で考えていたのだと思われます。
やっぱり皇族官人を避けて通れないのねぇ、この時代……(-_-;)
しかし、系統が分からないのよね、諸王の殆どって。

ところでまったく別の話。
今日、地元の歴史などに詳しい方から、広陵町にある箸尾御坊(教行寺)の近くのお寺の話を聞いたのですが、何でもこのあたりに門跡寺が最近まであったとか……
チョイと複雑な話らしいので、調べてみようと思ったのですが、少なくともネット上で検索しても寺の名前はともかく、それらしい話は全く出てきません。
う~~~~ん、やっぱり複雑な事情があるんでしょうねぇ。
それにしても地図で見ると、このあたりってお寺だらけです。
一度機会があったら行ってみようかしら。

大炊王と並んで、キーパーソン中のキーパーソンです。
舎人親王家の孫ですが、末子の大炊王(淳仁天皇)よりもかなり年上だと思われます。
天平宝字八年辺りの動きを見ていると、叔父の天皇を売るような形で伸し上がる印象を否めないのですが、その後に謀叛を企てるという動きとの矛盾が、なんとも気にかかります。
謀叛計画が本当にあったとしたら、目的はなんだったのでしょう?
やはり、この二ヵ月後の淡路公(大炊親王)の死と関連付けて良いものなのでしょうか。

まぁ、この無難な路線で考えるとしてだ……和気王は兵部卿になったのよねぇ。
基礎知識の欠落を今日も思うのですが、兵部卿という役職、八つの衛府への影響力ってどの程度あるのでしょうかね。
兵部省ってのは一応、武官の人事を司るのだから、衛府の上に立つ事は確かなのですけど。

近衛大将 藤原蔵下麻呂、
中衛大将 吉備真備、
外衛大将 藤原田麻呂、
左衛士督 藤原是公、
右衛士督 小野小贄、
左兵衛督 山村王 
右兵衛督 藤原楓麻呂

思いっきり、濃いメンバーだわ(^_^;)

この下のメンバーなんて、もっと濃厚なんですけどね……うちのスメラミコトもやっぱり濃いのか?
それよりも謀叛騒ぎのメンバーとの接点をでっちあげねばσ(^◇^;)
誰の兄かって言いますと、雄田麻呂の兄です。
この人には同母兄はいない(といっても、名前も来歴も不明の兄が二人いますが)ようですので、当然ながら異母兄です。
とりあえず申しますと、次兄の宿奈麻呂ではありませんし、長兄の広嗣でもありません。
その下の清成(種継の父親)でも、長兄と共に戦死した綱手でもありません。
そういう訳で残るのは、その下の兄、田麻呂です。

この人、後々、右大臣にまでなるのですが、私の中ではかなり影の薄い人です。
おまけにプロフィールを書き出してみますと、史書への初出は40歳の時(天平宝字五年)、この年にようやく従五位下に叙位されています。
おまけにこの時の推定役職は礼部少補(治部少補)……すっごい、意外だわ(^_^;)
その翌年に遣唐副使に任命された時には、左虎賁衛督(左兵衛督)で見えるから、若いときからのバリバリ武官だと思っていたもので。
治部省っちゅうたら、代々の長官は大抵が皇族か真人姓の人で占められていて、四等官も皇族が圧倒的な印象があったんですけどねぇ(~_~;)

そもそも、何で田麻呂の兄は、こうもスロースターターなんでしょう?
六歳上の兄、宿奈麻呂の五位への叙位は三十一歳の時、十歳年下の弟の雄田麻呂は二十八歳の時、十二歳下の蔵下麻呂は三十歳の時になるのに、この人だけ極端に遅いんですよね。
母親の関係ですかねぇ……(ちなみに誰かは判りません)

それでも式家の兄弟にありがちに、『恵美仲麻呂の謀叛』の後に、出世コースに乗って来るんですね。
光仁朝の末期には、この人が藤氏の氏長になるのかな?
いや、北家の魚名の方が一つ上(極官は左大臣)ですか。
それに光仁天皇は、式家よりも北家の方を重用しているみたいですからねぇ。

それは兎も角、参議入りは結構早い時期だし、兵部卿や中務卿も歴任して中納言になるのは宝亀十一年。
天応元年には東宮傳に任命されて、正三位大納言、そして翌年には右大臣ですか……
しかし、この晩年も考えてみると、かなり微妙ですねぇ。
薨去が延暦二年の二月、姪の乙牟漏の立后が四月ですから……(ーー;)

晩年はまぁ、良しとしまして、遣唐副使任命の頃、これが今回の話の時点なんですよね。
困ったな、兄や弟、甥はしつこく登場するのに、この人が名前しか出てこない……(-_-;)
藤原朝臣種継という人のプロフィールを考えているのですが、晩年は兎も角、四十前までがなんとも地味で釈然としません。
これに比べると、叔父の雄田麻呂(百川)はかなり派手というか煩雑です。
恐らく種継は、若い頃からずっと授刀衛府(近衛府)にいて、地方官を兼任していたようですが、雄田麻呂は矢鱈滅鱈に兼任官が多いのが目に付きます。
それも三十代の半ば、孝謙女帝の時代になってからの事です。
これは異母弟の蔵下麻呂も同様ですが、この人は明らかに『恵美押勝(恵美仲麻呂)の乱』での功労による、破格の出世の賜物です。

雄田麻呂はとにかく忙しいんです。
今までに書いた話の中でも、時に遊行女婦(うかれめ)通いはするけれど、仕事もきっちりこなし、上官からの覚えも芳しく、家族サービスにも怠り無い、絵に描いたようなA型人間です。
そして宝亀年間になると、平気で顎で使うような私的な頼みをする、困った親王(言わずと知れたうちのスメラミコト)のお守りまで加わります。
それがあまりに横柄な頼み事だと、平気で甥の種継に振る事になります。
種継も公務以上に、私用が忙しいんですね?

さて、雄田麻呂にしても蔵下麻呂にしても、共に四十代で亡くなっています。
昔で言えば初老の域とは言え、官界では一番油ののった時期、案外この兄弟、怨霊云々なんて事よりも、忙しすぎて過労で倒れたんじゃないのかと私には思えます。
北家の八束(真楯)と千尋(御楯)も突然、亡くなってますしねぇ……(-_-;)
永手もそれなりの年(五十八歳)とは言え、本当に突然だし……

もしかして種継も延暦三年の暗殺騒動なんか無くても、この親戚連中と同じように早死に(この時代なら、そうとも言えないのかもしれませんが)していたかもしれませんわねぇ。
誰よりも人使いの荒い人が直属上司(?)だしなぁ……
そう考えると、参議式部卿が直々に突貫工事の立会いする事自体が、結構不自然に思えるようなσ(^◇^;)

授刀衛府(たちはきのえふ)の配属されたうちのスメラミコトの階級は員外大尉(たいじょう)、上司に当たるのは、佐(すけ)の百済朝臣人足や督(かみ)の藤原朝臣御楯という事になります。
百済人足の方はあまり接点はないと思うのですが、藤原御楯は公私共に関係があるような御仁です。
何せ御楯もスメラミコトも同じ人の娘婿になりますので……

さて、この御楯をもう少し具体的に登場させるとなると、どういうキャラクターにしましょうかね。
異母兄の永手や真楯(八束)とは、相当違う性格にしようと考えてはいるのですが、その兄どものキャラクターも実は決まっていない(--〆)
まぁ、永手は割合に常識人だと思うけど、八束は真面目そうに見える食わせ者だと思うわ……具体的な根拠は一切無し(-_-)
連中の父親は四人兄弟の内では、一番の良識派のはずなんだけれど。
父上はどちらかと言えば、永手とは仲が良いらしいのですが、もしかしたら気は八束の方が合うのかも?……こちらの根拠も極めて曖昧(-_-)

いや、永手も八束も置いておいて、むしろ考えなけりゃならないのは御楯の方でしたわ。
北家の兄弟って私の頭の中では、南家や式家に比べると少々、印象が曖昧なのよねぇ。
魚名と楓麻呂なんて殆ど具体的に考えた事ないわσ(^◇^;)

チョイと調べたい事があって、昭和63年の正倉院展図録を眺めておりました。
この図録の最後に『雑物出入継文(全巻)』というやつが載っています。
明治時代の正倉院文書整理の弊害とでも言うべきでしょうか、この頃、バラバラになっていた文書類を、とにかく関連ありそうな物同士、表紙だろうが背紙だろうが構わずに繋げるような事をしてくれたそうです。
お陰でこのような『継文』がいくつも出来上がっているらしいです。

この文書だけ解説がないのですが、東大寺正倉に納められたり出されたりした物の記録である事は確かです。
古いもので天平勝宝四(752)年、新しい方では弘仁二(811)年、各々の文書の長さはまちまちです。
この途中に出て来る『宝亀十年十二月六日』が、本日の問題(^_^;)
宝亀十年は西暦779年、光仁天皇の御世です。

      双東大寺正蔵
治葛肆両
 右親王禅師何請
       宝亀十年十二月六日
中納言藤原朝臣縄麻呂 奉

とまぁ、若干出ない文字がありますが、こんな具合に書かれています。 
親王禅師が薬草の葛を請求したのだと思うのですが、問題となるのは日付なんですよ(-_-;)
こいつは割り合いに有名な史料なのですが、私は実のところ全然気に留めておりませなんだ。
『親王禅師』が誰かといいますと、早良親王の事として今のところ反論を聞いた事もありません。
つまり、この人って父親の崩御の二年前にはまだ、東大寺にいたって事になるのか?
そうすると還俗したのはいつになるんだ???
う~ん(゜.゜)、こいつをやっぱり踏まえるべきなのか、いや、親王禅師は果たして一人なのか?
とりあえず、書く準備をしている話には関係しないが、この辺を頭に入れて置かないといけませんわ。

『余豊北に在り、余勇南に在り』

ある史料を眺めていて、注釈にこのような『旧唐書』にある一文が載っていました。
余豊も余勇も人の名前です。
前者は結構な有名人、しかし後者は誰?
この二人、同じ余姓ですから同族なのは間違いありませんが、関係は兄弟なのか従兄弟同士か、叔父と甥なのか、もっと遠い間柄なのか???
吉野宮瀧にいた風神--この画像に深い意味無し(-_-)
支持者らにとっては、彼らは間違いなく担がれる御輿的な存在だったのでしょう。
ではこの二人は同等な存在なのか、どちらかがより重要な存在なのでしょうか?
いやむしろ、彼らを担ぎ上げていたのは、もしかしたら別々の集団なのかも知れません。

ある目的のために尽力する集団が複数存在していた時、それぞれが意思の疎通をスムーズに図れないような状況なら、各集団のリーダーの何人かは、それぞれに担ぎ上げる存在を見つけ出す事は、充分にありえる事でしょう。
そして、事の進行につれて各集団が集まってきた時、複数の頭ができている事に気付くのかもしれません。
そうなった時、担ぎ上げられた彼らはどうなるのでしょう……う~ん、何か別の方向に話が進み始めたな(-_-;)

先日に賜姓云々をぼやきましたが、渡来系人の長たらしい姓をすっきりと地名のような姓にしてしまうのを始め、ランクアップするついでに同じ氏姓に収めてしまうのは、もしかして戸籍を少しでも整理するためなんだろうかと、特に根拠もなく漠然と考えてます。
戸籍の整備は、どれだけの正丁がいて、どれだけの税収、労力、兵力が得られるのかを把握するためですね……考えていて、何となく気分が暗くなりますわ(-_-;)

それはともあれ、神護景雲三(769)年三月、大国造(おおくにのみやつこ)道嶋宿禰嶋足(みちしまのすくねしまたり)の申請により、数十人の人々が十八の氏姓を下賜されています。
道嶋嶋足という人は、一番最初には丸子嶋足という名前で出てきます。
天平勝宝五(753)年に牡鹿連(おしかのむらじ)を賜姓され、更には天平宝字八(764)年、恵美押勝の乱の始めに武功を立て、牡鹿宿禰の姓と従四位下の位をもらいます。
初出の時には大初位下という、下から三番目の位階だった人が、十一年後には四位ですから、破格の出世をした一人に数えられます。
この後天平神護二(766)年には道嶋宿禰嶋足で見えますので、これ以前に三度、賜姓されています。
延暦二(783)年に正四位上で亡くなるまでに、中央武官のエリートや諸国の国司などを色々努めました。

名前などからも伺えるよう、この人は陸奥国の出身です。
兵役で都にやって来て衛士か兵衛になり、上司の覚えが良かったのか、授刀衛府に配属になり、中間管理職くらいになって、ある時ある場所での武功によってエリートコースに踏み込む事になりました。
破格の出世の以前を見ても、この御仁、割合に都住まいが合っていた人なのかもしれません。
そして陸奥の顔役(?)となった嶋足は、雄勝(おがち)や桃生(もものふ)に城柵も完成し、多賀城の整備も成って佳境に入った陸奥経営に貢献するように、神護景雲元年十二月に陸奥国大国造に任命されます。
三年の賜姓の申請も、陸奥出身の後輩らの中央への従属を促すものでしょう。

ところで宝亀十一年三月、伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が陸奥国按察使を殺害して多賀城を焼き払って謀反するという大事が起きます。
切っ掛けは道嶋本盾という人との諍いのように書かれていますが、まあ、それだけではないでしょう。
この時に件の嶋足が何をしたかと申しますと……不明です(-_-)
この時は近衛府の中将を始めとした中央の官職を得ていたので、陸奥の方にはあまり目が向いていなかったのかもしれません。

そしてこの三年後に亡くなるのですが、『正四位上道嶋宿禰嶋足卒しぬ』とあるだけで、どのような官職に付いていたかは書かれていません。
既に桓武天皇の御世、もしかして、陸奥国のイザコザの責任を取って職を辞していたという可能性も考えられたり……
ともあれこの後、長きに渡る陸奥への出兵が始まる事となります。
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