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「私も長年、官界に身を置いて来た。御身の生き方を否定する訳がない。この世界で生きるのなら奇麗事は、そうだな、歌にでも詠めばよかろう。祖父や曾祖父も、そのようにして世を渡って来たはずだ」
どうも私は、常識人にこういう事を平気で言わせたいらしいです。
『東大寺写経所』の舎人から官人生活を始め、写経長官になり、恐らくは『皇后宮職』や『治部省』に身を置きつつも、『造東大寺長官』を長く務めて来たのが市原王です。
この人についての考察は、今まで結構してきたので、今更繰り返すのも面倒なのですが。
最近では、こういう与太も飛ばしましたか↓
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/334/
相変わらず困った事に、この人については『正倉院文書』では割におなじみの感があるのに、『万葉集』での活躍がまるで浮かんでこない……
いや、別に大伴家持とお友達してるのが鬱陶しいとか、そういう次元じゃなくって、殆ど歌人として認識してないんです、私の左脳がσ(^◇^;)
恐らくこの人は四位を目の前にして、四十代半ばで亡くなっていると思います。
佐伯今毛人の左遷の後、何度目かの造東大寺長官に返り咲きますが、年が明けるとすぐに吉備真備が後任になっています。
一応、こういう路線↓で構わぬとは思っているのですが……
http://umena.blog.shinobi.jp/Entry/458/
『八年の乱』の時に、藤原縄麻呂が『造東大寺司』の役人に何かを命じている書類が、正倉院文書として残っているらしいのですが、そう考えると縄麻呂はまだ治部省にいたって事になるのかしら。
そうすると↑の事件の時には、この人は免職していないって事か?
そもそも、令外の司である『造東大寺司』と治部省との力関係は、どのようなものだったのでしょうねぇ。
この辺も文書屋さんは、どう捕らえているのかしら?
今日も基礎知識の欠如に悩むのですが、初代の造東大寺長官市原王、下手な治部卿なんぞよりもよっぽど、東大寺大徳(良弁です)からは信頼されていたんじゃないでしょうかね。