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この女性は市原王と能登女王の間に生まれた長女です。
生年は不明ですが、私の設定では天平宝字元(757)年の生まれ……確か以前に書いた話では、うちのスメラミコトが内舎人として任官した年には、生まれていた事になっていたのでσ(^◇^;)
そうすると同母弟の五百枝王とは三つ違いになりますか。
『続日本紀』での初出は天応元(781)年、祖父の光仁天皇により、弟と供に二世王(孫王)として認められ、従四位下を叙位されます。
この人が誰の内室で、子供が何人いたのか、その類はどうやら分かりません。
しかし従弟の嵯峨天皇の時には、尚侍として後宮女官の最高位にたっています。
どうやら私のプランではこの女性、生涯独身で終えそうな気が致します。
気が向けば誰か皇族の内室にもなりそうですが、さて、誰が良いものやら考え付かなくて(゜.゜)
そもそも、彼女の子供の時からの座右の銘(?)は「叔父上様のお妃になるの」……これが災いしています。
親馬鹿(これはこの一家にほぼ共通する性質でしょうか)な両親はこの言葉を受けて山部王に対し、その心積もりでいろと常日頃プレッシャーをかけているのですが、さて、これがどうなるかと申しますと、巧くは行かなかったようです。
祖父の白壁王が即位した時、伊勢斎宮の候補として、酒人内親王共々に名前が挙がるのですが、結果は歴史書に見る通りです。
そして山部親王が立太子すると、その妃候補の一人として再び名が挙がるのですが、これに対しては五百井女王自身が拒否をしてしまいます。
さて、どうして私はこういう設定をしたのでしょう……これを時々考えるのですが、これは完全に女王の性格と考え方に起因しているのでしょう。
現代風に申しますと、彼女は仕事と家庭の両立を望んでいたのです。
中務卿宮と呼ばれた頃の山部親王は、皇族官僚の内では最もエリートコースに乗っていたはずです。
遠からず参議となり、いずれは中納言、大納言、そして大臣の椅子も待っているだろうと、周囲は考えていたかもしれません。
この頃の女性官僚(?)はたいていが高官の内室で、夫婦そろって官界と後宮を牛耳っていた事も珍しくありません。
五百井女王が子供時代から考えていたのは、どうやらこのような姿だったのでしょう。
しかし皇太子はいずれ天皇になる身、どう考えても大臣にはなりません。
そして周囲を固める藤氏の軋轢の下では、たとえ孫王でも皇后になるのはあまりに難しかったでしょう。
両親とも皇族で、父親を早くに亡くしている女王には、官界での後ろ盾がないも同然ですから。
かくして、色恋よりも政界で生きる事を自らの道と選んだ五百井女王は、後宮に並み居る海千山千の女孺や内侍らの間を強かに泳ぎ回り、二官八省一台六衛府の官人らも軽くいなして、キャリアウーマンの道を突き進むのでした(@_@)
う~~~ん、弟よりも余程に男らしいかも(ーー゛)
こういう事を本日、行きつけの喫茶店にて考えていたのでしたm(__)m
生年は不明ですが、私の設定では天平宝字元(757)年の生まれ……確か以前に書いた話では、うちのスメラミコトが内舎人として任官した年には、生まれていた事になっていたのでσ(^◇^;)
そうすると同母弟の五百枝王とは三つ違いになりますか。
『続日本紀』での初出は天応元(781)年、祖父の光仁天皇により、弟と供に二世王(孫王)として認められ、従四位下を叙位されます。
この人が誰の内室で、子供が何人いたのか、その類はどうやら分かりません。
しかし従弟の嵯峨天皇の時には、尚侍として後宮女官の最高位にたっています。
どうやら私のプランではこの女性、生涯独身で終えそうな気が致します。
気が向けば誰か皇族の内室にもなりそうですが、さて、誰が良いものやら考え付かなくて(゜.゜)
そもそも、彼女の子供の時からの座右の銘(?)は「叔父上様のお妃になるの」……これが災いしています。
親馬鹿(これはこの一家にほぼ共通する性質でしょうか)な両親はこの言葉を受けて山部王に対し、その心積もりでいろと常日頃プレッシャーをかけているのですが、さて、これがどうなるかと申しますと、巧くは行かなかったようです。
祖父の白壁王が即位した時、伊勢斎宮の候補として、酒人内親王共々に名前が挙がるのですが、結果は歴史書に見る通りです。
そして山部親王が立太子すると、その妃候補の一人として再び名が挙がるのですが、これに対しては五百井女王自身が拒否をしてしまいます。
さて、どうして私はこういう設定をしたのでしょう……これを時々考えるのですが、これは完全に女王の性格と考え方に起因しているのでしょう。
現代風に申しますと、彼女は仕事と家庭の両立を望んでいたのです。
中務卿宮と呼ばれた頃の山部親王は、皇族官僚の内では最もエリートコースに乗っていたはずです。
遠からず参議となり、いずれは中納言、大納言、そして大臣の椅子も待っているだろうと、周囲は考えていたかもしれません。
この頃の女性官僚(?)はたいていが高官の内室で、夫婦そろって官界と後宮を牛耳っていた事も珍しくありません。
五百井女王が子供時代から考えていたのは、どうやらこのような姿だったのでしょう。
しかし皇太子はいずれ天皇になる身、どう考えても大臣にはなりません。
そして周囲を固める藤氏の軋轢の下では、たとえ孫王でも皇后になるのはあまりに難しかったでしょう。
両親とも皇族で、父親を早くに亡くしている女王には、官界での後ろ盾がないも同然ですから。
かくして、色恋よりも政界で生きる事を自らの道と選んだ五百井女王は、後宮に並み居る海千山千の女孺や内侍らの間を強かに泳ぎ回り、二官八省一台六衛府の官人らも軽くいなして、キャリアウーマンの道を突き進むのでした(@_@)
う~~~ん、弟よりも余程に男らしいかも(ーー゛)
こういう事を本日、行きつけの喫茶店にて考えていたのでしたm(__)m
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