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天平宝字六年十二月一日 「従三位氷上真人塩焼、従三位諱、従三位藤原朝臣真楯を中納言」
『続日本紀』にこのように見えます。
従三位諱(いみな)とは、ここで再三名前の出てくる白壁王(しらかべのみこ)です。
この時に五十四歳、他の二人は四十八歳、もう一人の中納言の藤原永手も四十九歳なので、中納言の内では一番年上となります。
それで白壁王なのですが、中納言になる前はどのような役職に就いていたのでしょう?
これが分かれば苦労しない……(^_^;)?
はっきり言って分かりません、だって、どこにも書いてないんだものσ(^◇^;)
まぁ、普通に考えて、無位無官の人がいきなり太政官入りする訳ゃないわね。
いえ、白壁王は無位ではないです。
二十九歳の時に最初の叙位、孫王(天皇の孫)ですから従四位下になります。
従三位になったのは天平宝字三年、五十一歳の時ですから、取り立てて遅い訳でもありません。
しかし前歴が全く記されておりません。
唯一、天平宝字四年に光明子皇太后が崩御した時、山作司に任命されています。
山作司とは、墓所の墳丘を造営するための臨時の組織で、この時十二名が任命され、そうそうたるメンバーが名前を連ねています。
まぁ、こいつはあくまでも臨時の役職ですからねぇ。
はっきり言って、この御仁が何もしていない訳はありません。
中納言になった後の天平宝字八年九月、大師藤原恵美朝臣押勝が謀反を起こします。
この平定後の叙勲で勲二等が与えられていますから、脇の方でぼや~っと眺めていたのではないでしょう。
その一月後、嫡子(だと思う)の山部王(二十八歳)が無位から従五位下になっています。
この親子が『八年の乱』で何をしたのか……やっぱり書いてないから分からない(-.-)
この後は称徳女帝と道鏡法王の時代に突入します。
天平神護二年一月、正三位大納言(正三位には前々年)
息子の方は十一月に従五位上。
この親子、この奇妙奇天烈な政権下で何をしていたんだ……え~と、大納言と大学頭ですか?
そして次の動きは四年後の神護景雲四年(十月一日、宝亀に改元)。
何もしなくて、果たして皇太子が転がり込んでくるか??!!
史料に何も書いてないから何もしていないでは、与太な物書きは勤まりません。
うちの父上は、思いっきり腹黒いみたいです!(^^)!
頑張れ中納言、とりあえずの仕事は『狐狩り』かね?
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