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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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この人は割合に目立たない気がするのですが、藤原南家豊成の四男にもかかわらず、正妻の息子らしく兄らを差し置いて出世しているように思える人です。
亡くなったのは宝亀十(779)年で享年が五十一歳(数え)と見えますから、生まれたのは天平元(729)年になりますね。
この人、孝謙天皇の頃からずっと侍従をしている印象があるのですが、結構、色々な官を兼任しています。

神護景雲四(770)年八月四日に称徳天皇が崩御した後、『策を禁中に定めて白壁王を皇太子に擁立した時のメンバーに入っているのに、殆どこの話題で相手にされていないような印象もあります。
ここで名前の出て来る公卿らで、藤原氏以外といいますと、吉備真備石上宅嗣くらいですからねぇ。
でも、藤原氏といっても京家以外の三家の代表は参加してるんですよね。
本当にこの頃の南家って、立場が微妙なのかもしれませんわ。

そしてですね、この人、藤原百川と同じ年に亡くなっています。
百川は七月九日、縄麻呂は十二月十三日です。
百川の場合は、井上内親王の祟りの云々をあちらこちらで言われているのに、どうしてこの人は相手にされていないんでしょうねぇ……もしかして、陰が薄いのかしら(ーー;)
中納言従三位兼勅旨卿侍従勲三等』という肩書きを持ち、亡くなった時に『従二位大納言』を贈られているのですから、太政官の重鎮の一人でしょうに。

宝亀の初に中納言を拝し、尋(つ)ぎて皇太子傅、勅旨卿を兼ねぬ』と見えておりまして、私はてっきり中納言になった宝亀二年に他戸親王皇太子傅になったのだと思っていたのですが、この年の前後に就任の記録が見えません。
ちなみに他戸親王が立太子した時に皇太子傅(東宮傅)に就任したのは、大納言大中臣清麻呂です。
という事は……宝亀四年の山部親王の時?(・・??
三十七歳(数え)の皇太子に四十五歳(数え)の東宮傅……何か、変?(?_?)?
ちなみに東宮学士もしっかり任命されてたかな……日置蓑麻呂(兼大学頭)ですわ。

このようなプロフィールの人なのですから、白壁天皇や山部皇太子との関わりが浅いという事は、決してないのですよね。
なのにどうして、様々な出来事で問題視されないのでしょう??
やっぱり、この人は私にとっては曲者中の曲者の一人なのかも……(~_~;)
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