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大野朝臣東人に関しては、プロフィールをしっかり拾っていないので、実は詳しい経歴が頭に入っておりません。
しかしこの人は、奈良時代の前半の代表的な武官です。
養老四(720)年以降に多賀城の前身になる多賀柵が作られ、恐らくそこに置かれた鎮守府に将軍として赴任しています。
天平元(729)年に功労者への叙位を奏上していますので、赴任はそれ以前です。
恐らくは神亀元(724)年の反乱以降になるのでしょう。
そして出羽柵が秋田村に移ると、そこまでに至る経路を開拓したいと申し出て、天平九(737)年に持節大使として、兵部卿の藤原麻呂が1000の騎兵を率いて着任します。
藤原麻呂は中央から派遣された総責任者で、道の開通のために実際に軍を率いて行くのは東人です。
そして麻呂に率いられて来た副将や、陸奥に派遣されていた官人たちは、この行軍の後方支援のために、玉造や新田、牡鹿などの柵(き)に配備されます。
東人は二月二十五日に多賀柵を出発して、四月の初頭までに百六十里を開通させたが、残雪が多く、農耕期にも入ってしまったため、兵士らを解散させたと四月十一日に報告しています。
恐らくは、これを四月十四日の日付で麻呂が中央に言上して、その後に都に帰っているのだと思うのですが……時は天平九年、都ではこの何年か続いていた豌豆瘡流行のピークを向えることとなります。
壊滅的になった太政官組織の再編のため、東人も召還された可能性があります。
天平十一年四月、この時に陸奥按察使、鎮守府将軍に加えて大和守でもあった東人は、参議に任命されていますので、在京だったのは間違いありません。
そして次に大野東人の名前が出てくるのは、天平十二年九月、大宰府で藤原広嗣が兵を起こし、その鎮圧のために大将軍に任命される時です。
亡くなるのはこの二年後ですので、決して若かった訳ではないはずです。
父親の果安(はたやす)も壬申の乱の時に名前が出て来る武官です。
東人自身も若い頃から、武官として過ごして来たのでしょう。
この人の息子たちは、殆ど目立った活躍もしていないようなのですが、娘の仲智(なかち)は藤原永手の内室になって、尚侍(ないしのかみ)兼尚蔵(くらのかみ)として後宮の最大実力者に上り詰めています。
子供たちの内で、一番父親に似ていたのが、案外この人かもしてません(~_~;)
しかしこの人は、奈良時代の前半の代表的な武官です。
養老四(720)年以降に多賀城の前身になる多賀柵が作られ、恐らくそこに置かれた鎮守府に将軍として赴任しています。
天平元(729)年に功労者への叙位を奏上していますので、赴任はそれ以前です。
恐らくは神亀元(724)年の反乱以降になるのでしょう。
そして出羽柵が秋田村に移ると、そこまでに至る経路を開拓したいと申し出て、天平九(737)年に持節大使として、兵部卿の藤原麻呂が1000の騎兵を率いて着任します。
藤原麻呂は中央から派遣された総責任者で、道の開通のために実際に軍を率いて行くのは東人です。
そして麻呂に率いられて来た副将や、陸奥に派遣されていた官人たちは、この行軍の後方支援のために、玉造や新田、牡鹿などの柵(き)に配備されます。
東人は二月二十五日に多賀柵を出発して、四月の初頭までに百六十里を開通させたが、残雪が多く、農耕期にも入ってしまったため、兵士らを解散させたと四月十一日に報告しています。
恐らくは、これを四月十四日の日付で麻呂が中央に言上して、その後に都に帰っているのだと思うのですが……時は天平九年、都ではこの何年か続いていた豌豆瘡流行のピークを向えることとなります。
壊滅的になった太政官組織の再編のため、東人も召還された可能性があります。
天平十一年四月、この時に陸奥按察使、鎮守府将軍に加えて大和守でもあった東人は、参議に任命されていますので、在京だったのは間違いありません。
そして次に大野東人の名前が出てくるのは、天平十二年九月、大宰府で藤原広嗣が兵を起こし、その鎮圧のために大将軍に任命される時です。
亡くなるのはこの二年後ですので、決して若かった訳ではないはずです。
父親の果安(はたやす)も壬申の乱の時に名前が出て来る武官です。
東人自身も若い頃から、武官として過ごして来たのでしょう。
この人の息子たちは、殆ど目立った活躍もしていないようなのですが、娘の仲智(なかち)は藤原永手の内室になって、尚侍(ないしのかみ)兼尚蔵(くらのかみ)として後宮の最大実力者に上り詰めています。
子供たちの内で、一番父親に似ていたのが、案外この人かもしてません(~_~;)
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