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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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弓張り月と明星本日(既に昨日)、ようやく奈良国立博物館の『大遣唐使展』を見て参りました。
12時過ぎに入場して、17時まで目一杯かかって、図録や何かを買う暇も無いって……何でそういう事になるんだ?
別に、入場制限もなければ、混雑しすぎていて列が前に進まないなんて事は、ほぼなかったのに(~_~;)
まぁ、また今月中に一度くらいは奈良市に行くと思うので、図録などはその時に買えばよいでしょう。
しかし、重そうな分厚さだわね。
こちらに関する与太事は、そいつを買って来てからにしますわ。
あのように通して見てみると、東アジアの情勢も勿論、国内での勢力均衡など、かなり面白い事が分かりますね。
ちなみに画像は、特に関係なく、この日の夕方に見る事の出来た天体ショーですね。

月と金星の犯それはさて置き、昨日(既に一昨日)から、奈良時代に見える東北関係の記述を『続日本紀』から拾い出しているのですが、これが思いの他、多いようです。
恐らくはこのこの時代以前から、陸奥や出羽への半強制的な移住が、北陸や関東の諸国に課せられ、かなりの規模での開拓が進んでいるのだと思います。
(き)や柵(さく)という単位の村が、入植者らによって蝦夷の地に作られて、国司の管理下に置かれるようになり、これに対して蝦夷の人々が反乱を幾度が起こしています。

神亀年間まで書き出してみたのですが、その三十年弱の間に、三度も反乱の記事が見えます。
これに隼人の反乱も加えれば、四度ですね。

特に藤原不比等の亡くなった年、養老四(720)年の二月には大隈の隼人国司を殺害、中納言の大伴旅人が大将軍に任命されるものの、太政官のトップの死去を受けて呼び戻されています。
更に九月には陸奥で蝦夷の反乱、按察使(あぜち)が殺害される事件も起きています。
翌年の七月に、筑紫からも陸奥からも征討軍は戻って来ていますが、聖武天皇が即位して間もない神亀元(724)年の三月に陸奥国の海道(太平洋岸に住んでいる)の蝦夷が、またもや国府の役人を殺害して反乱を起こしています。
ここで大将軍に任じられるのは藤原宇合です。

ところで養老四年の反乱以降に『鎮守府』の名称が散見されるようになります。
多賀城の発掘などによっても、鎮守府がある程度形になったのはこの時代で、更に整備されたのは藤原恵美朝狩(仲麻呂の四男)が赴任した後だろうという事が、判明しているそうです。
しかし、まだ、そこまでの道程が遠いの何の……この後、藤原麻呂による街道の整備なんぞもあるはずだし、結構、頭に入れて置かなければならない事だらけ。
宝亀十一年なんて、遥かな先ですわ……(/_;)
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