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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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白壁王の息子にも拘らず、曲者の要素が見当たらないって、チョッと私には痛い御仁ですわね。
史書に名前の見える光仁天皇の親王は、山部親王早良親王稗田親王他戸親王(以上、年齢順)の四人ですが、うちではもう一人、一番上に開成親王がいます。
この人、私の設定では山部親王の向こうを張るくらいの曲者ですσ(^◇^;)
それはともかく、稗田親王ですね。

『続日本紀』に見える記事は三箇所のみ。
最初は宝亀六年二月に無位から四品に叙位された時。
次は天応元年四月、異母兄の山部皇太子の即位に伴い、三品になった時。
最後は同年十二月、薨去の記事です。
ここには享年が三十一歳と見えていますので、生まれたのは天平勝宝三(751)年となり、早良親王よりも一つ年下になります。
件の超当てにならない『本朝皇胤紹運録』によりますと、生母は尾張女王と見えるそうです。
尾張女王はやはり『紹運録』に、湯原親王の娘と見えているそうです。

稗田親王の子供としては、大同三年に亡くなった葛野王が稗田親王の四男と記させているとか。
三十一歳で亡くなったにしても、少なくとも四人の子供がいたって事ですね。
他には高橋王という人もいたみたいです。

ともかく胡散臭い『水鏡』にでしたか、他戸親王が廃太子された後、新たな皇太子を選定するに当たって、藤原浜成(京家)がこの親王を推したという記事が見えるのは。
一応理由としては、母親の身分を上げているのですが、浜成の失脚時に氷上川継との縁戚関係を上げているところから見ると、もしかして稗田親王にも娘を嫁がせている可能性は否定できませんねぇ。
その娘の子供を後押しして、自らが外祖父として納まろうというパターンですね、既に親王は故人ですから。
いずれにしても、本人は殆ど表に出てこない、これでもかと言うほど影の薄い人です……
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