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昨夜より東大寺修二会の試別火に入っています。
26日には惣別火入りし、28日には練行衆は参籠宿所に入り、3月1日から本業が始まり、15日まで毎晩、観音堂に入る僧侶の足元を照らす大きなたいまつが上がります。
この修二会を始めたのは、奈良時代の名僧として知られる実忠和上(じっちゅうかしょう)です。
最近では『頭塔』を造った人として、クローズアップされる事も多いようですが、実忠さんといえば『お水取り』、こちらの方が、今でも通りは良いかもしれません。
この画像は先日の『なら瑠璃絵』の時に、奈良国立博物館の新館にプロジェクターで映し出されていた『二月堂縁起』に描かれた実忠和上です。
『二月堂縁起』に寄れば、実忠和上は笠置寺の龍穴から都卒天に行き、十一面観音の悔過の行法を学んで、それを戻って来てから実践されたそうで、この行法が今に至るまで修二会として続いているのだそうです。
『東大寺要録』に寄れば、この方は神亀三(726)年に生まれて、没年は不明ですが、弘仁六(815)年には有名な『東大寺権別当実忠二十九ケ条』を記した事になっているので、九十歳までは生きていたという事になります。
和上が十一面悔過法要を始めたのは天平勝宝四(752)年、大仏建立と同じ年だという事です。
この時にはまだ二月堂は当然ながらありませんので、前身となる金光明寺の頃の観音堂ででも行ったのかもしれません。
そして大同四(809)年まで、約六十回(計算では五十八回)にわたって参籠を続けたと縁起は言っています。
修二会を始めた時は二十七歳(数え)、最後の参籠は八十四歳(数え)……大した御方です。
ところで私は、この実忠和上と唐招提寺の如法師がしょっちゅう、ダブるんですわ。
まあ、私の書いた与太話の中で、実忠師と親王禅師(早良親王)、如法師と開成親王が常にコンビを組んでいるようなところがあるので、これも原因なのですが、実忠師も如法師もコーカソイド系の外国人らしいんですね。
これで昔から、この二人を時々、ゴッチャにするような所があった訳です。
如法師は鑑真大和上の弟子なので、いつ日本に来たのかははっきりしているのですが、実忠師となりますと、本当に外国人なのかも実のところ良く分からないようです。
確か、以前に書いていた話の中で、二十数年ぶりに東大寺を訪れた五百枝王が、この実忠師に再会して早良親王の事を話すようなシーンを書いていたのですが、ここでも不思議な色の目をした老僧とか何とか、言わせていたはずですわ(^^ゞ
実のところ、実忠さんって本当に外国人だったのでしょうかね?