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この人の生年は分かりませんが、亡くなったのは養老三(719)年二月五日です。
『日本書紀』に最初に名前が出てくる時は、粟田臣真人、天武十(681)年十二月、小錦下(従五位下相当)の位をもらった時です。
この時に三十歳前くらいと考えますと、それこそ文武天皇朝以降にコンビ(?)を組む事になる藤原朝臣不比等と、あまり変わらない年齢になるようです。
それでも、もっと年上になるという説もあるようですが、取り敢えずは同世代と考えておきましょう。
この御仁が何で有名かと申せば、大宝元(701)年に三十二年ぶりに再開された遣唐節刀大使として唐に渡り、かの女帝、武則天に大いに気に入られたというところでしょうか。
まぁ、大宝律令の制定にも貢献していますが。
遣唐大使に任命された時は直大弐(従四位上相当)、出航の前には正四位下参議に任命されています。
多分、四十代半ばでしょうから、官界では一番油が乗っている時期でしょうか。
そして帰国した翌年、慶雲二(705)年には従三位中納言になっています。
更に和銅元(708)年に大宰帥にも任命されていますが、この時は恐らく遥任でしょうか。
そういう訳で、この人が大宰府にいたのはいつか?
実は朱鳥年間と申しますか、日嗣皇子称制の頃です。
まぁ、普通の日本史年表では、鸕野大后の称制時代として、持統天皇元年~三年にしておりましょうが。
筑紫大宰(つくしのおおみこともち)という役職で、三度ほど見えています。
年齢や経歴から考えて、後に言うところの大宰少弐くらいに考えれば良いのでしょうかねぇ。
朱鳥四年(持統三年・689年)、四月十三日に日嗣皇子の草壁皇子が亡くなります。
何と、このたった七日後、筑紫に新羅の船が着いたようです。
表向きは先帝崩御の弔問のようですが、まぁ、あまりに微妙なタイミングで……
この頃には耽羅(済州島)は新羅の属国でしょうから、この辺りを基地として何らかの様子を察知して、様子を探るような船を出していると考えるのも、穿ちすぎか否か……
『日本書紀』の記述によれば、新羅弔問使節の身分が低い事を理由にして入京を拒み、七月までは大宰府に留めて帰国させています。
この時の筑紫大宰が、まさに粟田真人その人です。
新羅使節が帰国した二月後、筑紫大宰は別の人に代わりますので、粟田真人は都に帰った事でしょう。
そして翌年の正月、鸕野大后は即位式を上げて持統天皇となります。
天武天皇の崩御の後という微妙な時期に、この切れ者とも言える人物を外交の最先端たる大宰府に置いたのは、さて、日嗣皇子でしょうか大后でしょうか……
私の設定では前者ですが、いずれにしても為政者からは常に、『出来る男』として認識されていた人のようです。
粟田朝臣としては最高位、正三位にまで昇りますが、養老三(719)年になくなった時の官職や年齢は『続日本紀』には書かれていません。
『日本書紀』に最初に名前が出てくる時は、粟田臣真人、天武十(681)年十二月、小錦下(従五位下相当)の位をもらった時です。
この時に三十歳前くらいと考えますと、それこそ文武天皇朝以降にコンビ(?)を組む事になる藤原朝臣不比等と、あまり変わらない年齢になるようです。
それでも、もっと年上になるという説もあるようですが、取り敢えずは同世代と考えておきましょう。
まぁ、大宝律令の制定にも貢献していますが。
遣唐大使に任命された時は直大弐(従四位上相当)、出航の前には正四位下参議に任命されています。
多分、四十代半ばでしょうから、官界では一番油が乗っている時期でしょうか。
そして帰国した翌年、慶雲二(705)年には従三位中納言になっています。
更に和銅元(708)年に大宰帥にも任命されていますが、この時は恐らく遥任でしょうか。
そういう訳で、この人が大宰府にいたのはいつか?
実は朱鳥年間と申しますか、日嗣皇子称制の頃です。
まぁ、普通の日本史年表では、鸕野大后の称制時代として、持統天皇元年~三年にしておりましょうが。
筑紫大宰(つくしのおおみこともち)という役職で、三度ほど見えています。
年齢や経歴から考えて、後に言うところの大宰少弐くらいに考えれば良いのでしょうかねぇ。
朱鳥四年(持統三年・689年)、四月十三日に日嗣皇子の草壁皇子が亡くなります。
何と、このたった七日後、筑紫に新羅の船が着いたようです。
表向きは先帝崩御の弔問のようですが、まぁ、あまりに微妙なタイミングで……
この頃には耽羅(済州島)は新羅の属国でしょうから、この辺りを基地として何らかの様子を察知して、様子を探るような船を出していると考えるのも、穿ちすぎか否か……
『日本書紀』の記述によれば、新羅弔問使節の身分が低い事を理由にして入京を拒み、七月までは大宰府に留めて帰国させています。
この時の筑紫大宰が、まさに粟田真人その人です。
新羅使節が帰国した二月後、筑紫大宰は別の人に代わりますので、粟田真人は都に帰った事でしょう。
そして翌年の正月、鸕野大后は即位式を上げて持統天皇となります。
天武天皇の崩御の後という微妙な時期に、この切れ者とも言える人物を外交の最先端たる大宰府に置いたのは、さて、日嗣皇子でしょうか大后でしょうか……
私の設定では前者ですが、いずれにしても為政者からは常に、『出来る男』として認識されていた人のようです。
粟田朝臣としては最高位、正三位にまで昇りますが、養老三(719)年になくなった時の官職や年齢は『続日本紀』には書かれていません。
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