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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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これは『平城京天平祭』の大極殿院天平神護元年の八月に和気王が謀反未遂事件を起こし、この時の罪状として、先祖の御霊に祈願した内容が『続日本紀』に記されています。
流罪になっている皇族を都に呼び戻す事と、仇敵の男女二人の死を望むという内容なのですが、ここで言われている人たちは、さて、誰の事なのでしょう。

和気王という人は舎人親王の孫です。
父親は嫡男の三原王、和気王はその嫡男なので、親王家の直系という事になるようです。
一旦は岡真人を賜姓されて臣下になりますが、叔父に当たる大炊王(淳仁天皇)が即位して舎人親王に天皇位を送った事で、再び孫王として皇族の列に加わります。

この事件の時、既に三原王は故人で、和気王も既に四十代ではないかと思われます。
叔父の大炊王は舎人親王の末子で三十二~三歳、こういう年齢の逆転は別に珍しい事でもないでしょう。
ちなみに大炊親王は既に廃帝として淡路に配流されていて、二人の異母兄の船親王と池田親王も一族もろとも流罪になっているようです。
和気王が都に呼び戻したいとする皇族は、この舎人親王家の人たちで良いのでしょう。
何せこの頃には、新田部親王家の孫王らは全滅に等しいし、長親王家の人たちは文室真人を賜姓されていますし、誰も流罪にはなっておりません。

では、和気王の仇敵とされる男女とは誰?
定説では称徳女帝と道鏡禅師だとされていますが、これが何となく疑問(゜レ゜)
のちの事を考えても分かるように、女帝が居なくなれば道鏡禅師など簡単に覗ける存在でしょう。
この時に道鏡は法王はおろか、太政大臣禅師などというチャラけた位にも就いておりませんから、実質的な階級は僧綱の内でしか通用しないのでは?

以前にこんな事を踏まえながら、この辺を書いていたのですが、次はそれを引きずって何か見えて来ないかなぁと、無味乾燥にも見える記事を眺めているのですが……さても、如何せん(メ・ん・)?
ただ今、座礁中です゚(゚´Д`゚)゚
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どうでも良いけど、生せんと君相も替わらず、ツジツマ合わせついでに、昔書いた話を読み直しております。
我ながら、時々意味不明箇所が出てきます(・_・;)
多分こういう箇所は、後から挿入したり書き直したところでしょう。
これもワープロソフトの悪いところかもしれません。
簡単に出来るので、前後をしっかり確認しないで文章を加え、読み直してみると同じ事を二度言っていたり……σ(^◇^;)

もっとひどいのは、ある物事について、前にも後にも説明がない……(ーー;)
例えば藤原小黒麻呂の母方の叔父について、何やら言っているのですが、それって一体誰の事??
父方の叔父ならば永手なり八束なりの事で、しっかり話の中にも登場しているので分かるのですが……
小黒麻呂の母親は大伴道足の娘なので、出世街道に乗っている母方の叔父とは、伯麻呂の事となります。
確かこの御仁、白壁王の飲み友達の一人という設定があるのに、一度も具体的に登場していない人だわ(^▽^;)

それにしても、藤原種継が出て来るとノリが軽くなるのは何故(・・?
もっと軽いのは坂上苅田麻呂だったり……?(__!)?(!__)?
山部王も酒が入ると、時々、キャラクター変わるしなぁ……( ̄_ ̄ )。o0○

本日の意味なし画像は、平城京天平祭で踊ってたせんと君……少初位なんだよ。
古代蓮の花天平神護~神護景雲年間の、もっとも有名な事件って何だろう……と、『続日本紀』を眺めております。

隅寺の仏像の中から舎利が出て来た(ヤラセ)事件とか、道鏡禅師を法王にしちまったぜ~、なんてのは天平神護二年の事ですが、これだけじゃ話にならなくて、結局は宇佐八幡神の託宣を経て、女帝の崩御、法王失脚、新たな天皇の擁立、即位という流れになってしまうんですよね……(゜_゜>)
この辺、宝亀二年~三年あたりの話を書いた時に、前哨の事件として、藤原百川や山部親王にあ~でもない、こ~でもないとひねくり回させていたので、逆に書き難かったりします。

この辺りを全然別の視線から眺めた時、何か奇妙な事でも潜んでないかしらねぇ……ってのか、これを見つけるのが今回の下準備の最初なんですけどね。




日曜日に『平城京天平祭』を見てきたので、そいつの報告なんぞもしようかなと、カメラのメディアから出した画像を眺めておりましたが、相変わらずどこか間の抜けたような画像ばかり……
それでも、気が向いたら画像だけでも上げますかε-( ̄ヘ ̄)┌
 
藤原宮跡の蓮先日に上げた話の次に来る話を読み直しておりました。
何せ、白壁王の経歴というか、この話に至るまでのプロフィールが少々変更になってしまったので、その辺のツジツマあわせを忘れない内にしておいた方が良いでしょうから。

そちらの内容とは少々違う事で、とんでもない事にふと気づいてしまいました。
主要登場人物(なのかな、一応)が若干一名いない……(ーー;)
誰かと申しますと、藤原蔵下麻呂です。
この人の年齢を考えてみると、山部王の内舎人任官の時、やはり内舎人をしていてもまったく不思議じゃない……
出雲介になるとしたら、多分、次の年だと思うし。
藤原薩雄(ひろお)は出て来るのに、蔵下麻呂を忘れてるのって、かなりの問題なんじゃないの?(--〆)?
さて、どうしようかな……今からワザとらしく絡めようかな(゜.゜)




先週だったかその前だったか、件の大河ドラマを眺めていたら、最後のドラマ紀行で、韮山の『真珠院』が出て来ました。
確か3~4年前に帰った時、『願成就院』に行ったついでに、立ち寄ったはずです。
あの時にしこたま写した写真、外付けのハードディスクのどこかに入ってるはずなのですがσ(^◇^;)

真珠院よりも願成就院に久々に行きたいです。
三年前の『芸術新潮』の『運慶』を先日より眺めていて、何となく欲求が増殖中ですね。
至近距離どころかカブリツキで、運慶の毘沙門天像や不動明王像が見れるんですわ(^_^)v

やっぱり慶派は良いわ~
奈良博のパスポート更新したから、また『頼朝と重源』展、見に行きましょうっと。
この特別展、はっきり言って慶派三昧です(^。^)

その前に、京博の『大出雲展』にも行かねば……
そして、年末までに一度、田舎に帰らにゃ……ナタ、どうしよう、シマコと留守番できるかなぁ(゜-゜) 
このところのサボタージュは、いつものサボり癖もあるのですが、実は半缶詰状況に自分を追い込んでいるためです。
例によって自分で締め切りを切って、何やら書いている訳で、その追い込み状態にあるというところです。
本当だったら今日は、東大寺の解除会に朝から行こうと思っていたのですが、仕事は進まず、おまけに寝不足……つい、ロンドンオリンピックの開会式を眺めておりました。
奇妙なセレモニーだなぁと思ったのは、子供ホスピタルとファンタジーの世界の演目……
好みの問題なんでしょうけど、何かイギリスの文化って独特の暗さがあるのねぇ……その辺、チョッと苦手かも(゜.゜)

東大寺西塔の辺りにいた鹿私の好みなんざ、さて置き、相変わらず分からないでお茶を濁そうとしている事が多々出て来ます。
その一つが『駅鈴』というヤツ……

こいつは早馬の使者に貸し出される物で、街道の一定の距離ごとに置かれた『駅』という中継施設で、これを見せなければ換えの馬やら食料やらももらえないし、休憩さえさせてくれなかったというパスポートのような物です。
天皇崩御などに当たって固関の使者を出すとなれば、最低でも三人が一時に出て行く事になるので、それから考えても、数は一つや二つではなく、複数あったようで、使者の階級によって貸し出される鈴も違っていたようです。

天平十七年九月に難波宮に行幸した聖武天皇が、そちらで病気になり、一時は危篤状態にまで陥った可能性もあり、十九日に“使を遣して、平城宮の鈴・印を取らしむ”という状況になります。
この時には更に、全ての孫王も難波宮への参集を命じられます。
印は天皇の御璽と太政官印ですから、一つずつあれば良いはずなのですが、鈴(駅鈴)となるとどのくらいの数があって、どう管理していたんでしょう……別に、それを書く必要もないのですがσ(^◇^;)

ところで平城と難波の間にも駅はあったはずで、この時、天皇の不予を伝えに平城に送られた使者は、やはり駅鈴を所持していたのでしょうか?
この程度の距離ならば、馬も換えずに一気に走った……可能なの(・・?
それとも、もしもの時の事を考えて、行幸に幾つかは持って行く決まりでもあったのか、陪都の難波にも常備されていたのか……本当に、どうでも良い事にこの度も引っかかっておりますε-( ̄ヘ ̄)┌
うちの白壁王は二十一歳で平城の本社(?)にて就職(?)しまして、数年後に難波に転勤になりました。
更に数年の後、南山背の恭仁に職場が移りましたので、父親の残した加茂の別業に妻子と共に移っております。
ただ今の話の進行上では、近江国甲賀郡紫香楽村に転勤になりまして、こちらにも家を建てて単身赴任(一時は、二人の息子がおりましたが)しております。

そういう訳でこの御仁、平城の左京北一条第の他にも、難波別業、加茂別業を所有して、更に安普請などと言いながらも紫香楽にも家があるという、とんでもない事になっております。

返り咲きの藤:興福寺にて現在私が何とな~く気になっているのが、それぞれの家の管理を誰がしているのかという事です。
一応は四位の諸王ですから、家政機関なんぞが持てるようでして、宅司なんぞも任命できて、資人もそれなりにいて、所属する人数も決まっている訳です。
それ以外にも家人やら奴婢やらもいると思われますが、こちらの使用人らは主の所有扱いになるので、上限はあるかもしれませんが、多少の融通は利くかと思われます。
多分、一族の家同士で、こういう人達の移動もあったでしょう。
まぁ、下の方の使用人は良いにしても、問題となるのは家を預かるような上級の使用人です。

宅司は本宅にいるとすると、恭仁京に遷都した天平十三年以降は、加茂別業(実は京外にある設定です)が本宅になるということなのでしょうかね(゜.゜)
平城の北一条第は別宅扱いで、ここの管理は誰がするんでしょう?
家知事とか任命しようかしら(゜_゜>)
でも、加茂別業は御内室の実家(倭史氏)が管理している事になってるのから、家知事はこっちに置こうかなぁ(・・?
次に難波が都になった時にはどうしましょう……それよりも、こちらの家には誰がいるんだ、この時?(゚_。)?(。_゚)?
更には単身赴任先の紫香楽ではどうなるんでしょ(゜レ゜)
現代小市民の感覚では、全然、分かりませんわσ(^◇^;)

本日の意味無し画像は、興福寺南円堂で返り咲きに下がっていた藤の花です。
ちなみに右近の橘は、2センチくらいの青い実が結構ついています。
秋には数センチのオレンジ色の実になるはず(^_^)v




ついでのボヤキ……

土曜日にNHKの『サラリーマンNEO』の特集番組でやっていた『超大河ドラマ 戦国サラリーマン・ヒデヨシ』とかいうコント、これもしかして、ここ何年かの大河ドラマ制作スタッフへの、痛烈なる逆説のオマージュだろか…・・・だとしたら、ここの制作陣、滅茶苦茶強気だなぁ( ̄▽ ̄)。o0○いや、天晴れ
袋角に夏毛の雄鹿ども 随分以前に、平城宮の朱雀門や大極殿の復元建設現場を何度か見に行ったのですが、この時は確か基壇化粧を終えてから、礎石の上に柱を立てて降りました。

 さ~て、甲賀寺の本尊建立現場ですが、モノが五丈を越える鋳造仏なので、基壇化粧なんて御堂を建てる段階で行うんでしょうねぇ……などと、今日もベーシックな事で悩んでいます。

 基壇の上に須弥壇を設け、そこに蓮華座が乗って、更に仏様が座っているという姿なのですが、東大寺の江戸復興の絵図や絵巻を見ると、最初の開眼供養は露座のままで行われています。
もっとも、江戸復興の時には、奈良・鎌倉以来の基壇も須弥壇もあったので、絵図で見る限りはそちらが出来上がっているのですが。

 では東大寺での天平宝字年間の開眼の時は……続日本紀に記事が現れる時、既に金堂が出来ているので、基壇は勿論、須弥壇も整備は終わっていたはずですね。
結局、この辺り、何れも参考にならない……って事?(゚_。)?(。_゚)?
まぁ、常識から考えて、鋳造が終わるまで本尊は土山の中、基壇化粧も須弥壇化粧も無意味ですわね。

 本日、丸一日雨天。
猫相手に悩んでおりましたが、一向に進みません……明日は一日、出かける予定なのに(゜.゜)
雨、やんでくれないかなぁ……(-_-)
日曜日に京都市西京区の方に行ったのですが、そいつのメモ権報告はまた日を改めて……
何やら今日も、矢鱈に眠いです(+_+)

武官の束帯の裾は、割合に短いです……奈良時代くらいにはあまり、文官と武官が明瞭に別れているような状況ではなかったようで、そいつは装束でも同様のようです。
考えてみると、うちの主人公クラスの連中で武官は、若干二名、叔父と甥の関係で、後の連中は割合に文官というか、首から上で御奉公(何に?)の面々ばかりです。
え~と、別に装束や官職の事を言いたい訳ではなくて、忘れているのは、うちのキャラクターらの趣味の類です。

書きながらチョロチョロとつじつま併せのために、読み直したり、昔書いたものを眺めたりをしておりますと、登場人物に奇妙な設定をしている事があって、それを作者がしっかり忘れている場合があったりします。
今回、見事に忘れているのが、白壁王の特技です。
この御仁に何の特技があるかって、実は琴の演奏だったりします。
箏ではありませんで、琴です。
今回の違いは十三弦と六弦ではなく、柄が有るか否かというか、横か縦かというか……まぁ、総じてうちの連中が弾くのは琵琶の類、それも月琴とか阮咸(げんかん)とかいう楽器です。

この琴を武官である百済王(くだらのこにきし)氏の親戚連中(内室の父親だったり祖父だったり)が、見事に弾きこなしてくれるという、奇妙な設定が確かあったはずなんですね。
更には、いつぞに書いた話の中で山部王が、「母親の曾祖母という人は泗沘(さび)の王宮でも一二を争うほどの月琴の名手だった」という類を言っており、その親戚関係で白壁王も若い頃から、この楽器を習っていたらしいんです……って、自分の書いた事なのに、ほぼ忘れておりましたσ(^◇^;)

まぁ、白壁王に無理して弾かせなくても良いのですが、せめてチョクチョク登場する御内室には演奏して頂きましょうかと、差し挟むようなシーンを考えておるのですが……
結局、何もさせずに終わったりして( ̄▽ ̄)。o0○
俺はナタ今、すご~くベーシックな事が分からなくて悩んでおります。
地上部が15メートルの柱を立てるとしたら、地下部分は何メートルほどとれば良いのでしょう?
この場合は勿論、掘立柱です。
柱よりもかなり大きな堀方で穴を掘って落とし込むのは良いとしまして、その後、どうやって柱を真っ直ぐ立てるんでしょう?
かなり高い足場を組んで、そこに滑車でも設置して引き上げる……
そうすると、滑車を置く高さは最低でも何メートル必要?

マジ、私は空間認識と物理学的な発想が苦手です(-_-;)
……っちゅうか、数学がだめなのねσ(^◇^;)

このような訳で、毘盧舎那仏の体骨柱が建てられなくて困っております。
まぁ、適当に流しますが、近い内に図書館にでも行って調べて来る事と致します。
こういう事ばかりしているから、話が全然進まないのね……ε-( ̄ヘ ̄)┌




時々、気が向くと診断マーカーなんぞで遊んでおります。
#怨霊系男子 http://shindanmaker.com/234536 というのが、あるところで紹介されていたのでやってみました。

 今日うめぞーさんにぴったりの怨霊は『龍となった元斎宮・井上内親王(奈良)』です!怨霊と怖がらず、頼りにしてみてはどうでしょう。

(゜-゜) 確かに頼りになるかも、四六時中、奈良町に会いに行ってますから。
元祖・怨霊系女子ですね。
今日もつまらない疑問(-_-;)

寺院に賓客がやって来て住持が歓待するとします。
現在であれば本房とか寺務所とかに、来客用の場所があると思うのですが、昔々にはどうだったのでしょう?

ていかかづら時は天平十六年の冬、場所はいつものように大和の金光明寺、住持は良弁師で、客人は玄蕃頭です。
初っ端から分からないのは、この時の金光明寺にどのような施設があったのか(゜.゜)
現在の東大寺の上院地区の一部が、この寺のはずなのですが、この頃にはまだ観音堂(二月堂)や手向山八幡宮はありません。
当然ながら金堂(大仏殿)や講堂、東西の塔も戒壇院もありませんので、現在の中心伽藍の辺りは山野だったかもしれません。

そもそも、この時の金光明寺には何人くらいの僧侶がいたのでしょう?
金鍾山房が出来た時には九人の僧侶が選ばれ、天平十三年の国分寺建立の詔の後に大和国分寺となったのならば、少なくとも二十人の僧侶が住む事になりますので、それなりに大きな寺だったのだと思います。
では、住持の良弁師はこの寺の何所にいたのか……まあ、僧房のどこかに住んでいたのでしょう??
その僧房はどの辺りにあったのでしょう……(・・?

現在、東大寺の上院地区に行っても良く分かりますように、寺の各施設は山の麓から中腹にかけて広がっていますが、金光明寺の頃には、山の中腹が中心だったのでしょう。
本尊のおられる御堂が僧房や食堂よりも下にあったとは思えませんので、元々のこれらの建物は、後には他の施設に建て替えられたと思われます。
いずれにせよ、住持らが朝廷からの客人を迎えるのは本堂ではないと思うので、僧房や食堂のどこかで良いのでしょうか……やっぱり分からない?(゚_。)?(。_゚)?
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うめぞー
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