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随分以前に、平城宮の朱雀門や大極殿の復元建設現場を何度か見に行ったのですが、この時は確か基壇化粧を終えてから、礎石の上に柱を立てて降りました。
さ~て、甲賀寺の本尊建立現場ですが、モノが五丈を越える鋳造仏なので、基壇化粧なんて御堂を建てる段階で行うんでしょうねぇ……などと、今日もベーシックな事で悩んでいます。
基壇の上に須弥壇を設け、そこに蓮華座が乗って、更に仏様が座っているという姿なのですが、東大寺の江戸復興の絵図や絵巻を見ると、最初の開眼供養は露座のままで行われています。
もっとも、江戸復興の時には、奈良・鎌倉以来の基壇も須弥壇もあったので、絵図で見る限りはそちらが出来上がっているのですが。
では東大寺での天平宝字年間の開眼の時は……続日本紀に記事が現れる時、既に金堂が出来ているので、基壇は勿論、須弥壇も整備は終わっていたはずですね。
結局、この辺り、何れも参考にならない……って事?(゚_。)?(。_゚)?
まぁ、常識から考えて、鋳造が終わるまで本尊は土山の中、基壇化粧も須弥壇化粧も無意味ですわね。
本日、丸一日雨天。
猫相手に悩んでおりましたが、一向に進みません……明日は一日、出かける予定なのに(゜.゜)
雨、やんでくれないかなぁ……(-_-)
さ~て、甲賀寺の本尊建立現場ですが、モノが五丈を越える鋳造仏なので、基壇化粧なんて御堂を建てる段階で行うんでしょうねぇ……などと、今日もベーシックな事で悩んでいます。
基壇の上に須弥壇を設け、そこに蓮華座が乗って、更に仏様が座っているという姿なのですが、東大寺の江戸復興の絵図や絵巻を見ると、最初の開眼供養は露座のままで行われています。
もっとも、江戸復興の時には、奈良・鎌倉以来の基壇も須弥壇もあったので、絵図で見る限りはそちらが出来上がっているのですが。
では東大寺での天平宝字年間の開眼の時は……続日本紀に記事が現れる時、既に金堂が出来ているので、基壇は勿論、須弥壇も整備は終わっていたはずですね。
結局、この辺り、何れも参考にならない……って事?(゚_。)?(。_゚)?
まぁ、常識から考えて、鋳造が終わるまで本尊は土山の中、基壇化粧も須弥壇化粧も無意味ですわね。
本日、丸一日雨天。
猫相手に悩んでおりましたが、一向に進みません……明日は一日、出かける予定なのに(゜.゜)
雨、やんでくれないかなぁ……(-_-)
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