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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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相変わらず大した疑問でもないのですが……
時は天平十六年、年が明けた時、聖武天皇恭仁宮におられました。
正月節会が終わった頃合で難波宮に行幸が行われます。
ところがここで安積親王が亡くなるという事件が起きますが……恭仁には戻りません。
そして難波遷都に向けての動きが見られるのですが、遷都の宣言の前、二月末に三嶋路経由で紫香楽に行幸してしまいます。

平城宮跡 兵部省にてこの頃の紫香楽には、既に離宮はあったと思われます。
だから天皇はこの地に長く留まる事となります。
三月の始めに難波では遷都の詔が出されて、大楯と矛を門に立てるというセレモニーも済んでいます。
正式に都とされた難波は、元正太上天皇左大臣に預けられた状況です。

こう見てみますと、三つの地の内で聖武天皇にとって一番重要なのは紫香楽という事になるのでしょう。
この近江国の片田舎では、国家的な大事業が始まっておりました。
それがかの有名な総国分寺(甲賀寺)の建立です。
二年前に出した国分寺建立の詔の仕上げというところでしょうか。
では、天皇の行幸があった頃、甲賀寺の状況はどのようなものだったのでしょうか……
まあ、離宮の中心から延びた朱雀路を寺の北門に合わせて、伽藍配置の設計図くらいは引けていたでしょうか。
寺を置くための低い丘の木を伐採して、高い所を削り、低い所を埋め……恐らく造成中でしょう。

しかし、天皇は離宮に長く留まる事になりますので、政の一部はここに移されたはずです。
例えば太政官や中務省、宮内省や皇后宮職(皇后も同行していたらですが)、治部省もかな?
役所が移れば役人も来る、その衣食住も確保しなければなりません。
ここでまたもや、離宮周辺では建設ラッシュが始まります……
そうなると、甲賀寺の建設現場の資材やら労力やらは、一時的にそちらに吸い上げられる?(゚_。)?(。_゚)??(゚_。)?(。_゚)?
何とな~~く、本末転倒のような気がするのは私だけ?(・・??




ところで先ほどまで、『隠岐島黄金伝説……』なにやらいうドラマを途中から、斜めに眺めておりました。
これって高橋克彦の『南朝迷路』だな、もしかして?
でも、あの話って、最後は全部、若者達の茶番劇でしたで終わるんじゃなかったっけ……何しろ読んだのが十数年前なので、殆ど記憶に無いσ(^◇^;)
殺人事件の部分は加筆??まぁ、どうでも良いか、全体的に軽いノリみたいだし(-_-)
 
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こちらは飛鳥寺の大仏です。日本で官寺として一番最初に作られた寺院は、大阪の四天王寺ですが、その次に続くのは、さて、法隆寺?川原寺?百済大寺?

とりあえず飛鳥に都にあった時代の大寺はと考えますと、
百済大寺から高市大寺と名前の変わる大官大寺、それから皇家の法要の場として日本書紀にも度々登場する川原寺、更に蘇我氏の仏教のよりどころともなっていた飛鳥寺、少し時代が下って天武・持統天皇朝に建てられた薬師寺というところでしょうか。
官寺として法隆寺も入るのかな?
豊浦寺とか坂田寺とか橘寺は大寺ではなさそうな……それよりも橘寺は尼寺ですね。

さて、大宝二年十二月二十五日、持統太上天皇崩御により「四大寺に設斎す」と記事が見えます。
都が藤原京にある時代ですから、この四大寺は一般に、大官大寺(大安寺)、薬師寺川原寺(弘福寺)、飛鳥寺(元興寺)だとされています。
飛鳥寺は元々、蘇我氏の氏寺ですが、本宗家滅亡の後は官寺扱いになっています。

和銅三年、平城遷都の後にこれらの寺はどうなるかと申しますと、大官大寺が大安寺、飛鳥寺が元興寺と名前も変わり、薬師寺も西ノ京に建立されますが、川原寺は移っておりません……
では『南都四大寺』はないのか?
ここに割り込んでくるのが、藤原氏の氏寺である山階寺改め興福寺でしょう。
天平十七年以前、平城の大寺といえばこの四大寺となります。

ところで『南都七大寺』という言葉もありますが、これがまた良く分からない……(゜.゜)
大安寺元興寺薬師寺興福寺法隆寺を加え、更には大和金光明寺から昇格した東大寺が加わるまでは分かるのですが、最後の一寺は何所なの……?(゚_。)?(。_゚)?
平城に移されなかった川原寺を入れるという説もあるし、西大寺が建立されたらここが入るとも?
人によっては、唐招提寺を入れる人もいるみたいだけれど、この説は法隆寺に替えてという前提だったような……
平城で最後に建立された勅願寺は秋篠寺だと思いましたが、ここは大寺という程ではないようですから、多分入らないでしょう。

まあ、現在私が問題にしているのは、天平十六年現在の平城の僧綱が拠り所としている大寺ですから、南都の四大寺で良いのでしょう。
この時の興福寺金光明寺は、イメージ的にかなり親密だったように思えるのですが、やはり何れも藤原氏出身の光明子皇后が大きく関わるためなのでしょうかね?
多分、この時には金光明寺の大徳は良弁で良いと思うのですが、この人は興福寺の出身で良いのでしょうか……法相宗の僧侶の師弟関係図などを見ていると、良弁も義淵の弟子として出てきますので、私は勝手に興福寺出身と解釈しているのですが( ̄▽ ̄)。o0○

それにしても坊主が矢鱈に介入してくると、分からない事が急に増えて困りますわε-( ̄ヘ ̄)┌
 
奈良の八重桜原木:知足院にて “金光明寺の大般若経を運びて紫香楽に致す。”

この記事は天平十六年三月十四日で、この前の月の二十五日に天皇は紫香楽に入っています。
ところが、天皇不在の難波宮にて二月二十七日、

“左大臣詔を宣りて云はく「今、難波宮を以って皇都とす(後略)」”

という具合に見えます。
まぁ、結構有名な記事ですが、遷都の宣言をする前に天皇は離宮の方に出かけてしまい、残された太上天皇(元正女帝)と左大臣(橘諸兄)が遷都の詔を読み上げるという、なんとも異様な自体です。
この様子は、大阪歴史博物館の難波宮コーナーでの映像で再現されていますので、御存知の方も少なからずおられるかと思います。

難波宮はとりあえず置いておきまして『金光明寺』です。
これは国分寺の正式名称『金光明四天王護国寺』の略でしょうから、大和国分寺の事と考えられています。
『東大寺要録』によれば、大和の『金鍾寺』を天平十五年の四月より『金光明寺』の名前に改めて南都の七大寺と同等にあつかえ云々の命令が出ているとか(いつもの事ながら、一次資料を当たってないんです・゚・(ノД`;)・゚・)
しかしですよ、国分寺は難波にも近江にもあってしかるべきですので、大和とどうして決められるのやら……やはり『大般若経』の存在が決めてなんでしょうかね??
六百巻にも及ぶ経典が、そんじょそこらの寺院にあるとは思えませんからねぇ。
でも、四天王寺にはあってしかるべきなのかな??
紫香楽に続いて、難波宮でも『大般若経』の転読が行われた記事が三月十五日に見えますから。

相変わらずの疑問が、この頃の東大寺の位置づけですわ。
うちの仲麻呂にして「あの壮士が坊主で良かった」と言わせた良弁師が、大徳を務めているので間違いはないと思いますが、光明子皇后から見ても既に興福寺以上の存在になろうとしているような?
私は勝手に、『金鍾山房』が出来た時に抜擢された僧侶の多くは、興福寺から皇后によって引き抜かれたのだろうと考えておりまして、皇后の崇敬を受けて当たり前の寺だと位置づけています。
そして次第に、藤氏の『興福寺』をしのぐ存在として、皇家の『金光明寺』になりつつあったんだろうなぁなどと妄想しております。

さぁて、そろそろ、藤氏をバックに控える皇后と、玄昉なんぞ押しのけて総国分寺のトップを狙いたい良弁師の駆け引きが裏で始まるのかなぁ……( -」)φ
紫香楽じゃ、まだ、寺院造成地の地鎮祭段階だってのにねぇ……

本日の意味無し画像は、東大寺の知足院にある『奈良の八重桜』の原木です。
花が咲いている時に映したのですが、何の花なのかさっぱり分かりません……σ(^◇^;)
おびただしいヤドリギの木いつものように意味不明の画像は、奈良北町のとある場所で見た木です。
よくもまぁ、これだけのヤドリギが生えたものかと感心する代物です。
東大寺の転害門を入った所にある幼稚園のあたりにも、矢鱈にヤドリギのくっ付いた木があったと思うのですが、こっちの方が更に多いような気がします。
これだけっくっ付いていると、元の木が何なのか遠めでは良く分かりません……(゜-゜)

今現在、書いている話の事。
ここでの時は天平十六年閏一月です。
場所は難波だったり平城だったり、はたまた紫香楽だったり……恭仁の造営はただ今凍結されています。
紫香楽に離宮があらかた出来たので、次は隣接地で大寺の建立にかかりたいと目白押しの公共事業なのですが、予算枠が決まっているので新都造営と大寺建立を同時に出来ないという状況です。
そこで天皇は、即位の最初に手をつけた難波に一旦、お引越しをしようと考えました。
……と、まぁ、こういう状況なんですね。

橘の花とりあえず視察という事で行幸が行われますが、ここで安積親王薨去という、とんでもない展開になります。
さて、我らが白壁王が何をしているのかと申しますと、その葬儀の監督官の一人です。
場所は平城京内、一七日(初七日)から七七日(四十九日)まで、七日ごとに法要が行われますので、難波にせよ恭仁にせよ、帰っている暇はありません。

この話の内では、この時の平城宮の主は皇太子の阿部内親王で、東宮院を住まいとしている事になっています。
白壁王はここに呼び出されるのですが……
そこにまた、名前の思い出せない件の内舎人が御出迎えに来るから苛つくじゃありませんか……(*_*;

察するに作者うめぞー、こいつが案外気に入っているのかもしれません。
痩せて小柄だが品性卑しからずなどと言われている内は良いのですが、何度目かに現れた時には、あのひ弱な若造と罵られ、果ては左大臣の犬呼ばわり……
この後に出て来る予定の東大寺の僧侶も、小坊主だの使い走りだのと、結構勝手に呼んでいます。
ちなみに呼んでいるのは、白壁王、藤原仲麻呂、豊成あたりです。
もしかしたら左大臣も呼んでいるかも……(-_-;)

しかし、話の展開がうまく行かないからって、脇役に当たっちゃいけませんわ(・.・;)
参考までに二枚目の画像は、興福寺南円堂の右近の橘です。
今年もたくさん蕾がつき、ようやく開き始めました。
 
東大寺開山堂前の枝垂桜滋賀県の甲賀市(かつての甲賀郡信楽町)にある宮町遺跡から、え~と、何が出てたっけ?
つい何ヶ月か前に、内裏が二つある云々の発掘成果が発表されておりましたが、現地説明会にも行っていないし、資料もダウンロードしておりませなんだ(-_-;)
いずれにしても私が知りたいのは宮町遺跡よりも、かつて紫香楽の宮跡とされていた寺跡の方でして、こいつが果たして『続日本紀』で言うところの『甲賀寺』なのか否かという極論です。
まぁ今現在の状況では、他に候補地がないのだからほぼ確定なのでしょうけど……

それでこの何日か、果たして重要なのかどうなのか分からないけれど考えていたのが、『試し』の事です。
試しというのは、何かを作るに当たって、前もって試しに作ってみるという試作品の事です。

例えば東大寺ミュージアムに30cm程度の弥勒如来坐像があったと思います。
以前には奈良国立博物館の常設展に並んでいた像ですが、これは昔から『試しの大仏』と呼ばれていたとか。
しかし毘盧舎那仏ではないから別物なのでしょうが、姿形からそのように言われるようになったと聞いた事があります。

この像の事はとりあえず良いとしまして、このところ考えているのは、聖武天皇が紫香楽で最初の造仏を考えた時の事です。
当然ながら仏師を始めとしたプロジェクトチームは、このような御仏の尊像を造ろうと思っておりますと、一尺などとは言わず、もっと大きなサイズで試作品を示したのだと思います。
これを紫香楽で試作したのだとしたら、天皇に披露する機会は何度か行われた行幸の早い時期なのでしょうか。
それとも恭仁(この時の都はここです)に造仏所があって、そこで行われたのでしょうか。
東大寺ができる以前の事なので文献資料にはまず出て来ず、勝手に想像してくださいの範囲ですわ……

この造仏所、恐らくは埋文調査で分かるような施設とは、何となく考え難いんですよね。
金銅仏の鋳造でもしていたのならまだしも、塑像や乾漆仏の作成がメインの時代の事ですから、遺構や遺物としてどの程度が残るものなのか。
恭仁にしても紫香楽にしても、山城と近江の国分寺が後に建立されていますから、そこの造仏所があっても誰も不思議には思いませんしねぇ……

何か、こういう所が具体的に決められないと、話が展開して行かないんですね(゜.゜)
仮に紫香楽に工房があって、天皇の行幸があったとしても、時の仏師の位では直接に仏像の説明なんぞ出来ないので、五位以上の造仏司(造寺司)長官が説明に当たったのでしょうけれど……
相変わらず、こういうツジツマというか、無用な考証が引っかかって来て整理がつかない……
こうなって来ると、この類の考証をまるっきり無視しているどこぞの大河ドラマが、ある意味、恨めしくなってくるような……って、そこに落ちるのか(--〆)
東大寺の毘盧舎那仏よりも以前に、最大クラスの金銅仏といったらどのような例があるのかと、昨日来考えておりました。

飛鳥寺の釈迦如来から始まって、山田寺の仏頭だの、法隆寺の釈迦三尊仏だの、薬師寺の薬師三尊像などが思い出せたのですが、大きくても丈六仏のサイズでしょうか。
一丈六尺(約4.8メートル)といっても、立ち上がった時の高さがそれなので、坐像は約半分、2.5メートル前後というところでしょうか。
立像としては、薬師寺の日光、月光菩薩で3メートルくらいでしょうか。
何せこの時代、銅を調達するのが一苦労どころの騒ぎじゃないでしょうから、仏師が丈六仏を造るとしても、塑像だったり乾漆像だったり、木彫像あたりが多くなるでしょう。

役の行者?聖武天皇が未だかつて無いほどの巨大な尊像を造ろうと考えた時、どうして五丈を越えるサイズがいきなり出て来たのか、こいつをまた考えておりました。

まぁ、一番よく言われるのは、唐帰りをひけらかす玄昉とかいうろくでもない坊主がいて、唐の洛陽郊外にある石窟寺院の話をして云々……要するに龍門石窟の毘盧舎那仏石造のサイズを意識したのではないかという説が有力です。
世界遺産にもなっている、武即天をモデルにしたという伝承のある磨崖仏ですね。
これが確か、17メートルを超えていたと思うので、15メートルを超えていたという奈良時代の東大寺毘盧舎那仏に匹敵する訳です。

しかし、石窟寺院ですから岩壁を掘りぬいている訳で、東大寺のように平らな場所に基壇を築いて、そこに骨組みになる柱を立てて、土や何かを盛り上げて型となる像を作って……というような工程とはかなり違うんですよね。

2~3メートルの像や梵鐘くらいしか造っていなかった技術者達に、いきなり15メートルの大仏を造れと命じる過程は、果たしてどういうものだったのやら、今度はそれが分からなくなって来ます……(゜.゜)
かの国中公麻呂も、理屈としては八回程度に分けて鋳造して行けば可能と判断したにしても、決断するまでにどれだけの紆余曲折があったんでしょう(・・?
実際に始めたら、その何十倍何百倍もの困難があったのでしょうけど……
この時期の二官八省その他の人事を、もう一度検討してみないとなぁ(゜_゜>)

今日の画像は、職場の近くにある石仏で、高さはせいぜい40センチ程度です。
チョイト見難い場所にあるので、歩きながら変な御地蔵様があると眺めていたのですが、立ち止まって見直してみれば、こりゃ、役行者像ですね……?(゚_。)?(。_゚)?

二宮金次郎さんです。丈六の金銅仏といえば、次の日曜日(15日)に京都府の木津川市で『国宝 蟹満寺釈迦如来坐像の再検討』というシンポジウムがあるんですね。
行こうかな~と思っていたのですが、この日は春日大社の国宝の大鎧の修復が終わったので、記念の講演会もあって、そっちに随分前から申し込んでいたのでした……
さて、どちらに行くべきか……蟹満寺の方は10時に始まるので、家を出るのが平日と変わらない(゜_゜)
少しでも寝坊したら、春日大社だわねε-( ̄ヘ ̄)┌

こちらの画像は石像つながり(?)で、今時珍しい二宮尊徳こと金次郎さんです。
現代バージョンにしたら、本の替わりにスマホいじってる像になるのかな( ̄▽ ̄)。o0○


 

祓戸の儀 本日3月13日、春日大社で最も重要な御祭の『春日祭』です。
この様子はまた後日、報告致しますm(__)m

ところで『春日大社』は、神護景雲二(768)年、時の左大臣の藤原永手が四柱の神々を春日野に迎えて、現在のような大きな社殿を造ったとされています。
昨年の『正倉院展』にも出品していた『東大寺山堺四至図』は天平勝宝八(756)歳に描かれた地図で、ここではまだ春日大社ではなく、『神地』の文字が御蓋山の麓に見えています。

私が現在、書いている話は天平年間が舞台、当然ながら春日大社はない時代です。
況してや、平安初期に始まった『春日祭』も行われている訳もありません(-_-)
後に氏長となる藤原永手はまだ二十代、南家の曲者兄弟から見れば北家の若造あつかいです(-_-;)

木星と金星……(゜.゜)もう一つ加えて言えば、この時代にはまだ『東大寺』もありません。
前身と思われる『金鍾寺』もしくは『金鍾山房』はあったでしょうけれど。

現在行われている『修二会』も当然ながら行われておりません。
こちらは天平勝宝四(752)年に始まったとされますが、件の『山堺四至図』には『観音堂』は見られず、『羂索堂』の北側に井戸の表示がありまして……若狭井?
何でも最初の修二会は『笠置寺』で行われたとされているようです。
観音堂(二月堂)ができたのは、さて、いつなんでしょうね。

ちなみに実忠和尚は、天平年間の中期、まだティーンエイジャーではないかと思われます。
出家はしていたのかな、果たして?
私の話の中には、若い実忠師は出て来る予定はありません。
その代わり、三十代と思われる道鏡師は出てきまして、白壁王と一緒になって良弁僧都の悪口(?)を言っております( ̄▽ ̄)。o0○
うちでは良弁師、どういう訳か人気があるようです???(゚_。)?(。_゚)???

ちなみに二枚目の画像は、本日の西の空に出ていた木星と金星ですが、相変わらず何を写しているのか不明の写真ですσ(^◇^;)
 
奈良町で買って来たケーキ ここ毎度ながら困っているのは、主人公がサボタージュ気味という傾向……(゜.゜)
とにかく日和見なのか無関心なのか、状況に流されているのに一向に気づいていない(・.・;)
殊に今回の三十代の白壁王、この御仁、ここまで育ちが良かったかしらと作者が疑いたくなっております。
この甚六がどうして二十年後に、ああも挙動不審(と、息子には見える)の人物になるのか、聖武天皇朝の後期から孝謙天皇の時代にかけて、一体この一家に何があるんだ???
まあ、色々あるのよ、表面上は分からないけれど( ̄▽ ̄)。o0○

こうも悠長な白壁王にただ今、発破をかけようとしているのが、バリバリの皇后派で通っている湯原王(作者は無謀にも、この御仁に皇后宮大夫をさせていたりする……)だったりしまして、ここにまた兵部卿と民部卿という藤原南家の兄弟がチョッカイを出そうとしております。
それを傍目(もしくは横目、白い目)で見ている太上天皇だの右大臣だの知太政官事だの造宮卿だの刑部卿だの中務卿だの……しかし、皇族率の高い話しだなぁε-( ̄ヘ ̄)┌

どうも風邪気味(インフルエンザではありません、多分)で、執筆のペースがかなり落ちています。
明日も一日中、奈良市にいる事になりそうだし、もう少し腰を落ち着けて書かないといけませんわ……
昨日に桜井市と天理市で、現地説明会のハシゴがあったのは重々に承知しているし、向日市でも長岡京関係の現説があった事も分かっておりますが、この三日くらい風邪気味でして、雪までちらつくような寒い日となれば、家で大人しくしておりました。
熱が殆どでないのでインフルエンザではないでしょうけれど、そのお陰で直りにくいんですよね、私の風邪というヤツは(・.・;)
それはともかく、この二日、引き篭もって書いておりました。

正倉院、解体修理中結局、大同年間は脇に置いておきまして、天平年間の話です。
既に大方が書きあがっているモノの書き直しなので、今のところは変にスムーズに話が進んでおりますが、その内につまずくのは目に見えております(-_-;)

しかし、うちの白壁王と藤原仲麻呂はどうして、こうも仲が良いんだ?
世間話だろうと政治の話だろうと、この二人が余人を交えずに始めると、やたらにテンション上がるんだが(゜.゜)
だいたい仲麻呂は白壁王に対して口が軽すぎる……やっぱり、この男には友達がいないのか(ーー;)

この画像は先月末くらいに移した東大寺正倉院の様子です。
ただ今解体修理のため素屋根に覆われて、来月には事前に申し込んだ人たちに向けて、現場の見学会も行われます。

それにしても……今日のNHK大河ドラマは、いつにもなくつまらなかったε-( ̄ヘ ̄)┌
ざっと一週間、サボっていた訳ではなく静岡の方におりまして、本日の早朝に戻って来ました。
多分また、今月末か来月初旬に帰る事になるかもしれませんが、取り敢えずはまたも日常が始まります。

私の日常は放っつき歩くよりも書く事……そういう訳で、再び構想の練り直しから。
大同年間はとり合えず置いておきまして、天平年間を中心とした話となります。
さて、ボチボチ始めますか。
おまえは誰か
HN:
うめぞー
性別:
非公開
自己紹介:
明日は歴史作家!

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