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つい何ヶ月か前に、内裏が二つある云々の発掘成果が発表されておりましたが、現地説明会にも行っていないし、資料もダウンロードしておりませなんだ(-_-;)
いずれにしても私が知りたいのは宮町遺跡よりも、かつて紫香楽の宮跡とされていた寺跡の方でして、こいつが果たして『続日本紀』で言うところの『甲賀寺』なのか否かという極論です。
まぁ今現在の状況では、他に候補地がないのだからほぼ確定なのでしょうけど……
それでこの何日か、果たして重要なのかどうなのか分からないけれど考えていたのが、『試し』の事です。
試しというのは、何かを作るに当たって、前もって試しに作ってみるという試作品の事です。
例えば東大寺ミュージアムに30cm程度の弥勒如来坐像があったと思います。
以前には奈良国立博物館の常設展に並んでいた像ですが、これは昔から『試しの大仏』と呼ばれていたとか。
しかし毘盧舎那仏ではないから別物なのでしょうが、姿形からそのように言われるようになったと聞いた事があります。
この像の事はとりあえず良いとしまして、このところ考えているのは、聖武天皇が紫香楽で最初の造仏を考えた時の事です。
当然ながら仏師を始めとしたプロジェクトチームは、このような御仏の尊像を造ろうと思っておりますと、一尺などとは言わず、もっと大きなサイズで試作品を示したのだと思います。
これを紫香楽で試作したのだとしたら、天皇に披露する機会は何度か行われた行幸の早い時期なのでしょうか。
それとも恭仁(この時の都はここです)に造仏所があって、そこで行われたのでしょうか。
東大寺ができる以前の事なので文献資料にはまず出て来ず、勝手に想像してくださいの範囲ですわ……
この造仏所、恐らくは埋文調査で分かるような施設とは、何となく考え難いんですよね。
金銅仏の鋳造でもしていたのならまだしも、塑像や乾漆仏の作成がメインの時代の事ですから、遺構や遺物としてどの程度が残るものなのか。
恭仁にしても紫香楽にしても、山城と近江の国分寺が後に建立されていますから、そこの造仏所があっても誰も不思議には思いませんしねぇ……
何か、こういう所が具体的に決められないと、話が展開して行かないんですね(゜.゜)
仮に紫香楽に工房があって、天皇の行幸があったとしても、時の仏師の位では直接に仏像の説明なんぞ出来ないので、五位以上の造仏司(造寺司)長官が説明に当たったのでしょうけれど……
相変わらず、こういうツジツマというか、無用な考証が引っかかって来て整理がつかない……
こうなって来ると、この類の考証をまるっきり無視しているどこぞの大河ドラマが、ある意味、恨めしくなってくるような……って、そこに落ちるのか(--〆)
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