×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
本日3月13日、春日大社で最も重要な御祭の『春日祭』です。
この様子はまた後日、報告致しますm(__)m
ところで『春日大社』は、神護景雲二(768)年、時の左大臣の藤原永手が四柱の神々を春日野に迎えて、現在のような大きな社殿を造ったとされています。
昨年の『正倉院展』にも出品していた『東大寺山堺四至図』は天平勝宝八(756)歳に描かれた地図で、ここではまだ春日大社ではなく、『神地』の文字が御蓋山の麓に見えています。
私が現在、書いている話は天平年間が舞台、当然ながら春日大社はない時代です。
況してや、平安初期に始まった『春日祭』も行われている訳もありません(-_-)
後に氏長となる藤原永手はまだ二十代、南家の曲者兄弟から見れば北家の若造あつかいです(-_-;)
もう一つ加えて言えば、この時代にはまだ『東大寺』もありません。
前身と思われる『金鍾寺』もしくは『金鍾山房』はあったでしょうけれど。
現在行われている『修二会』も当然ながら行われておりません。
こちらは天平勝宝四(752)年に始まったとされますが、件の『山堺四至図』には『観音堂』は見られず、『羂索堂』の北側に井戸の表示がありまして……若狭井?
何でも最初の修二会は『笠置寺』で行われたとされているようです。
観音堂(二月堂)ができたのは、さて、いつなんでしょうね。
ちなみに実忠和尚は、天平年間の中期、まだティーンエイジャーではないかと思われます。
出家はしていたのかな、果たして?
私の話の中には、若い実忠師は出て来る予定はありません。
その代わり、三十代と思われる道鏡師は出てきまして、白壁王と一緒になって良弁僧都の悪口(?)を言っております( ̄▽ ̄)。o0○
うちでは良弁師、どういう訳か人気があるようです???(゚_。)?(。_゚)???
ちなみに二枚目の画像は、本日の西の空に出ていた木星と金星ですが、相変わらず何を写しているのか不明の写真ですσ(^◇^;)
この様子はまた後日、報告致しますm(__)m
ところで『春日大社』は、神護景雲二(768)年、時の左大臣の藤原永手が四柱の神々を春日野に迎えて、現在のような大きな社殿を造ったとされています。
昨年の『正倉院展』にも出品していた『東大寺山堺四至図』は天平勝宝八(756)歳に描かれた地図で、ここではまだ春日大社ではなく、『神地』の文字が御蓋山の麓に見えています。
私が現在、書いている話は天平年間が舞台、当然ながら春日大社はない時代です。
況してや、平安初期に始まった『春日祭』も行われている訳もありません(-_-)
後に氏長となる藤原永手はまだ二十代、南家の曲者兄弟から見れば北家の若造あつかいです(-_-;)
もう一つ加えて言えば、この時代にはまだ『東大寺』もありません。
前身と思われる『金鍾寺』もしくは『金鍾山房』はあったでしょうけれど。
現在行われている『修二会』も当然ながら行われておりません。
こちらは天平勝宝四(752)年に始まったとされますが、件の『山堺四至図』には『観音堂』は見られず、『羂索堂』の北側に井戸の表示がありまして……若狭井?
何でも最初の修二会は『笠置寺』で行われたとされているようです。
観音堂(二月堂)ができたのは、さて、いつなんでしょうね。
ちなみに実忠和尚は、天平年間の中期、まだティーンエイジャーではないかと思われます。
出家はしていたのかな、果たして?
私の話の中には、若い実忠師は出て来る予定はありません。
その代わり、三十代と思われる道鏡師は出てきまして、白壁王と一緒になって良弁僧都の悪口(?)を言っております( ̄▽ ̄)。o0○
うちでは良弁師、どういう訳か人気があるようです???(゚_。)?(。_゚)???
ちなみに二枚目の画像は、本日の西の空に出ていた木星と金星ですが、相変わらず何を写しているのか不明の写真ですσ(^◇^;)
PR
この記事へのコメント
- <<春日祭
- | HOME |
- 3月11日 東大寺にて>>