×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
この記事は天平十六年三月十四日で、この前の月の二十五日に天皇は紫香楽に入っています。
ところが、天皇不在の難波宮にて二月二十七日、
“左大臣詔を宣りて云はく「今、難波宮を以って皇都とす(後略)」”
という具合に見えます。
まぁ、結構有名な記事ですが、遷都の宣言をする前に天皇は離宮の方に出かけてしまい、残された太上天皇(元正女帝)と左大臣(橘諸兄)が遷都の詔を読み上げるという、なんとも異様な自体です。
この様子は、大阪歴史博物館の難波宮コーナーでの映像で再現されていますので、御存知の方も少なからずおられるかと思います。
難波宮はとりあえず置いておきまして『金光明寺』です。
これは国分寺の正式名称『金光明四天王護国寺』の略でしょうから、大和国分寺の事と考えられています。
『東大寺要録』によれば、大和の『金鍾寺』を天平十五年の四月より『金光明寺』の名前に改めて南都の七大寺と同等にあつかえ云々の命令が出ているとか(いつもの事ながら、一次資料を当たってないんです・゚・(ノД`;)・゚・)
しかしですよ、国分寺は難波にも近江にもあってしかるべきですので、大和とどうして決められるのやら……やはり『大般若経』の存在が決めてなんでしょうかね??
六百巻にも及ぶ経典が、そんじょそこらの寺院にあるとは思えませんからねぇ。
でも、四天王寺にはあってしかるべきなのかな??
紫香楽に続いて、難波宮でも『大般若経』の転読が行われた記事が三月十五日に見えますから。
相変わらずの疑問が、この頃の東大寺の位置づけですわ。
うちの仲麻呂にして「あの壮士が坊主で良かった」と言わせた良弁師が、大徳を務めているので間違いはないと思いますが、光明子皇后から見ても既に興福寺以上の存在になろうとしているような?
私は勝手に、『金鍾山房』が出来た時に抜擢された僧侶の多くは、興福寺から皇后によって引き抜かれたのだろうと考えておりまして、皇后の崇敬を受けて当たり前の寺だと位置づけています。
そして次第に、藤氏の『興福寺』をしのぐ存在として、皇家の『金光明寺』になりつつあったんだろうなぁなどと妄想しております。
さぁて、そろそろ、藤氏をバックに控える皇后と、玄昉なんぞ押しのけて総国分寺のトップを狙いたい良弁師の駆け引きが裏で始まるのかなぁ……( -」)φ
紫香楽じゃ、まだ、寺院造成地の地鎮祭段階だってのにねぇ……
本日の意味無し画像は、東大寺の知足院にある『奈良の八重桜』の原木です。
花が咲いている時に映したのですが、何の花なのかさっぱり分かりません……σ(^◇^;)
PR
この記事へのコメント