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「高を括っていて、気がついたら大宰少弐にでもなっていたら、俺は笑うぞ」私は不敵に言い返す。
「皇族を少弐に付けた例など、未だかつて俺は知らぬが、勘繰れば、まあ、御身を大宰府に遠ざけたい御仁は確かにおられるな」雄田麻呂は口の端で小さく皮肉げに笑う。
これだけの事を書くのに、またもや天平勝宝年間からの大宰少弐への任命者を調べる破目になってしまいました(^_^;)
しかし……肝心の天平宝字年間の人事が殆ど見えない(ーー;)
そうすると今度は大弐の人事も調べにゃならんのか?!?!
一応の傾向として、確かに諸王はおりませんねぇ。
良く分からないのですが、官位の幅が少々あって、外従五位下から正五位上まで見られます。
高位の人は神護景雲年間あたりから多く見られるので、この頃から大宰府の重要性が増したと考えるべきなのか、中央での高位者が余って来たのか(^^ゞ
どう考えるにしても、もう少し広い時代幅での人員を見てみないと、はっきりした事は言えませんけれどね。
しかしこの狭い間でも、少しは面白い事が分かります。
例えば小野朝臣田守という人、天平宝字元年の閏五月に任官し、その後に遣新羅使となった後、帰ってきてからまた少弐になっています。
対外問題のエキスパートの一人なのでしょうか、語学にも堪能だったのかもしれません。
そして並べてみると、なかなかにそうそうたるメンバーです。
藤原乙麻呂、石上宅嗣、紀広純、淡海三船、大伴家持など、後々に高官となる面々の名前も見えています。
後々の時代には大宰府は高官にとって左遷地のような印象を与えるのですが、対外的に問題も多いこの時代、地方官に限らずともトップ人事に入って来る場所のようです。
もっとも中流公家(後に言う受領階級)には、後々になっても、できたら行きたいと望む場所なのでしょうけれどね。
忘れていたけど、湯原王の官職を考え直しませんといけませんわ。
天平宝字年間の後半は、左大弁も右大弁も人事が分かっているから、変な割り込みをさせる訳には行きませんしねぇ。
ところで伯父上は正四位下だったっけ、上だったっけ?
お前が勝手に設定したんだろうってσ(^◇^;)
それにしてもですよ……昨日から聴いている曲(昨日の記事参照)、だんだん変な方向に想像が漂って行きまして、今や早良親王のテーマ曲になりつつある(ーー;)
いやむしろ、粟生江内親王かな……いずれにしても“あなた”と呼ばれている相手は同じだと思うんだが……(-_-;)かなり重症だ(・.・;)
……にしても、このバージョンはすごいかも。
画像と歌詞の内容はあまりに関わりがないのだけれど、決して違和感が無い様な……むしろあり過ぎて逆に妙なのかな?