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うめぞー、思案中

明日は歴史作家「うめぞー、執筆の合間に思案中」

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白壁王と藤原仲麻呂が、天平十二年の筑紫での出来事の事を話している場面を考えていて、ふと疑問に思ったのですが……
この時に大宰少弐の藤原広嗣は、都に対して下道(吉備)真備玄昉を天皇の側から除く事を要求したと物の本にありますが、本当にこれだけの理由なのかな?

この年よりも数年前、新羅より帰国した日本の使者が、この大宰府管内に豌豆瘡(天然痘)を持ち込んでいます。
この流行はあっという間に都まで伝わり、天平七年から九年にかけては、西日本一体に夥しい罹患者と死者を出しているはずです。
都での一応のピークは九年で、その後は急速に収まっているかのように史書には見えますが、衛生状態が現代とは比べ物にならない時代の事、その余波は更に何年かにわたって続いていた可能性はないのでしょうか?
殊に都周辺よりも暖かいはずの九州では、流行はもう少し続いていたのかも……?

時の大宰府は帥は空席、大弐は高橋安麻呂ですが、本官が右大弁だったので遙任している可能性が極めて高く、ここの長官は実質的に少弐の藤原広嗣だったとは、今までも多くの学者先生の御指摘される通りだと思います。
だからこそ、在地の勢力を広く頼む事が出来て、都からも大掛かりな討伐隊が出る事になったのでしょう。
しかしですよ、長官職の若い者(多分二十六歳くらい)が一人で気勢をあげた所で、大宰府の猛者らが呼応するものなのでしょうか?????

管内では数年来の疫病によって、かなりの疲弊が見られていたのでは?
これを当地に赴いた広嗣は、度々、都に奏上する事があったのでは??
『続日本紀』を眺めていても、大宰府での賑給記事のようなものは見当たらないような……
都の公家らにとっては、あまりに遠い西国の話、殆ど実感することなく、いろいろな事が後手に回っていたのかもしれません。
それとも、この処置に関して上記の官吏と坊主が、何やら太政官に詰まらぬ意見でも言ったのか?
この二人は共に、遣唐使でしたから大宰府の様子は決して知らないはずないでしょうけれど。

ところで玄昉って何処の寺の出身なんでしょう?
これが良く分からないんですよね。
法相宗とあるから、興福寺か薬師寺かになるのでしょうか。
福智院や海龍王寺の開祖という伝承は聞いた事があるのですが。
義淵僧正の弟子というのは、何処に書かれていたかしら、薨伝かな?
やっぱり坊主が絡んでくると、良く分からないんですよね(~_~;)
こういうところに引っかかってないで、適当に書き流して、さっさと次に進むべきだとは分かっているのですがねぇ……(-_-;)
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