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天平十二年九月三日、筑紫にて大宰少弐藤原朝臣広嗣が兵を挙げます。
本人の言い分では、自らは逆賊ではなく、二人の侫臣を除けという要求で兵を挙げたという事ですが、この知らせに聖武天皇は、大野朝臣東人を大将軍に任命して一万七千の兵力を徴発して筑紫に投入します。
ところが十月二十六日、聖武天皇はこういう状況にも拘らず、「思う所ある故に東に行く」と、四百もの騎兵を引き連れて伊勢への行幸を実施するのは有名な所です。
そして十月二十九日、河口頓宮(関宮)に留まる天皇の元に、広嗣を捕らえたという知らせが届きます。
ここでの東人の言上では、これは十月二十三日の事です。
ところがよくよく記述を読んでみますと、天皇がこれを知ったのは十一月三日のようです。
そして法に則って処断をした後に報告せよとの勅が出されるのですが、その後の十一月五日には「一日に広嗣と綱手を斬刑に処した」という報告が入ります。
筑紫と伊勢のタイムラグが何日あるのかは、これから調べなければなりませんが、奇妙なのは捕縛の知らせが入った二日後に処刑が行われている事です。
たった二日で、筑紫に命令が伝わるものなのでしょうか、記述が間違っているのか、全権が大将軍に委ねられているのか、どうも腑に落ちない所です。
もしも三日に捕縛を知ったのならば、それ以前に処刑は行われている事になってしまいます。
知らせを受けた天皇がわざわざ命令を出しているのに、その命令が届く前に刑は行われているでは、何とも形にならないように思えるのですが如何なものなのでしょう。
ところで何に脱線したのかと申しますと、捕縛者らの内に綱手(広嗣の弟)の息子らしき、菅成の名前が出てきます。
そして名前は出てこないのですが、この時には種継の父親の清成も参戦していたと思われます。
この二人の弟には子供がいたのですから、長兄で式家の嫡男の広嗣にも子供の一人や二人いてもおかしくないのですが、どうやら何処の記録にもそのような記述は見えないようです。
息子はいなくても、せめて妻女や娘はいたのでは?
それを考えて何となく周辺を眺めているのですが、どうもこの辺はまだ何も見つかりません。
こういう事に脱線しているから、全然話が進まないのかもしれませんわ(*_*;
うめぞーが報告し
Re:報告は筑紫から
報告したのは大将軍に任じられた大野朝臣東人です。
大宰府と都のタイムラグは五日から六日、やはり全権は大将軍に委任され、都に入ってくるのは事後報告と考えても良いのかも?