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昨日の事は本ページの方にUP致しましたのでそちらを参考して頂ければ幸いです。
時々時雨れる、少し不安な空模様でしたが、昼過ぎに行った時にはそこそこの見学者が来ておられました。
昨年の調査に引き続き、八釣山の裾に広がる大規模な建物郡跡の調査です。
調査している明日香村教育委員会では、天武天皇の末の皇子である新田部親王の屋敷跡である事を期待しているようですが、今のところ確証に値するものは出土していません。
掘方のサイズからしても相当に太い柱が立てられていたようですが、殆どが抜き取られているようです。
恐らくは平城遷都に伴なって、この屋敷も移築されたのでしょう。
ここで注目すべきは、柱穴の中から出土した礎板石と思われる切石です。
この黄色い四角い石は、天理市で取れる砂岩だそうです。
有名なところでは、同じ明日香村の酒船石遺跡で石垣として使用されています。
恐らくは、そこから崩れた石垣の石材を取って来て転用した物と考えられます。
切石の小口面が斜めに切られているのが、石垣に使用していた時のカット面と合うのだそうです。
しかし、柱穴の深さの割にはかなり上の方で出土していて、これが本来の根石で、柱穴自体がかなり削平されているのか、若しくは建物の柱を抜き取った後に、同じ場所に何らかの建物を建てて、その時にこの石を使用したのか、今のところは解釈の分かれるところだそうです。
さて、ここが新田部親王の宮か否かはともあれ、七世紀の高位者の屋敷の姿がこの先更に解明される事に興味が湧きます。
時代は藤原京に都が移った時代、それでも旧都飛鳥は高位高官らの住まいが点在していたのでしょうか。
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