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古代の朝鮮半島に百済・新羅・高句麗の三国があった事は、高校の歴史の教科書にも出てくるとおもいます。
辰韓、弁韓、馬韓、楽浪郡、帯方郡……?なんて更に古い時代も、加耶諸国も取り敢えずは置いておきまして、六~七世紀の話です。
私は新羅だけをどういう訳か、シンラと昔から呼んでいて、ルビを振るにもシラギと振りにくいという変なくせを持っています……他の二国をペクチェとかコグリョと呼ぶ事は滅多にないんですが。
この三国の歴史を書いた史書が『三国史記』で、高麗時代の十二世紀に成立しました。日本でいえば平安時代の末、この時代に書かれた奈良朝以前の歴史を考えますと……どこまで信じて良いんでしょうσ(^◇^;)
『百済の変』とか『黄山』とか言っているのは、新羅と唐によって百済が滅亡した時の戦乱の事です。
西暦660年、新羅王金春秋(武烈大王)は唐との連合を図る事で、百済の王都を落とします。そして百済王を始めとした王族の殆んどは唐の捕虜となり、ここに百済は滅亡します。
王都(泗沘)に敵の軍を入れまいと、最後の激戦が黄山で繰り広げられた事は、『新羅本紀』に見えています。
この後、百済の再興を願う人々が、日本に亡命(人質とも見えるが…)していた王子の豊璋の帰国を願い出て、更なる復興の戦いが起こる事は『日本書紀』が一番詳しく記しています。
この頃の新羅王は金法敏(文武大王)、真鳥は子供の頃にこの人と会った事があると回想している訳です。
金法敏についてはこちらを→ http://www.geocities.jp/sen_2jp/shinra.htm
ついでに金春秋はこっち→ http://www.geocities.jp/sen_2jp/tonhe.htm
きのうてむじんが
そしてきのう大王の、唐も成立♪
いや、新羅はね
その頃の新羅はと言えば、春秋は既に故人、長子の法敏が即位していて、手強い百済軍とだらしない唐軍とに手を焼いていた訳ね、分かる?
大体、唐はピンポイントで百済の王都だけを落として、さっさと兵を引くような事するから、余計に百済領内がシッチャカメッチャカ、戦乱状態になるんだよ。
とにかく高宗としちゃ、宿敵高句麗打破に執念燃やしてたらしくて、百済の事は新羅に任せたからね……これじゃ、勝てる戦も勝てんわぃ(-_-メ)