×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
京都府の向日市には、この辺りでも有数の前期古墳群があります。
しかし、この乙訓郡という所は、奈良からと申しますか、近鉄沿線からはとても行きにくい地域で、現地説明会だと言ってもついつい二の足を踏んでしまいます。
お陰で長岡京関係の現説にすら、この数年、行っておりません(-_-)
久々に一念発起して『元稲荷古墳後方部後端の調査』の現説に行って来ました。
しかし、阪急に乗るとなると、一度大阪に出るか京都に出るかして、地下鉄なりJRに乗り換えて梅田か四条烏丸から乗らなけりゃならないんですよね……
かくして大阪経由で阪急京都線の特急に乗って、長岡天神で乗り換えて、西向日駅までやって来ました。
駅を降りて長岡京大極殿跡の方向に歩いて行きますと、何故なのか造成工事のフェンスに囲まれているじゃありませんか(・.・;)
どうやら市で土地を買い上げて、公園をもう少し整備するつもりのようです。
さて、古墳は式内社の『向日神社』のすぐ隣の公園にあります。
今までの調査で、きわめて古い構造の竪穴式石室を持つ前方後方墳で、前方部最上段に特殊器台と壺形埴輪が立てられていた事が分かっています。
大和(おおやまと)古墳群などでの調査成果から、3世紀の3/4半期にまでさかのぼれる可能性もあります。
新聞報道で盛んに言われていたのは、これら画像の葺石の出土についてでしょうか。
従来見慣れた葺石という観念からすると、随分小さな石を使用してるのが良く分かります。
近くの川で採取した川原石だそうです。
こちらの古墳の範囲確認調査は、かなり進んでいるそうですが、後方部の北側は昔の土取りによって断崖のようになっています。
このために後方部がどの程度残っているのかが不明だったそうで、この度の調査により墳裾が検出されて、墳丘規模もほぼ明らかになりました。
墳長は約92メートル、後方部の高さは7メートルもあるとの事です。
石が細かいためなのか、基底部に根石を並べる事もせず、最もポピュラーな小口積みも所々に見られますが、葺石の葺き方には統一性がないとの事です。
しかし、こちらの画像の二段目の斜面には、根石の列が見られ、裏込めらしい細かい石までが見られるそうで、初段の斜面よりもかなり残りは良い様子です。
もう一つ新聞などで報道されていた『讃岐系二重口縁壺』ですが、口縁部分だけが二段目の埋土の中から埴輪片と共に出土したそうです。
墳頂からの流土の中に含まれているのですから、これらの壺や埴輪も墳頂上あった事が分かります。
特殊器台と言い、この壺と言い、いずれもこの古墳の被葬者と瀬戸内地域の関係を示すものです。
文献には殆ど現れない3世紀末から4世紀の倭国は、これらの発掘成果の積み重ねで、少しずつ姿を現して行くと同時に、それにも増して分からない事も教えてくれるものです。
しかし、この乙訓郡という所は、奈良からと申しますか、近鉄沿線からはとても行きにくい地域で、現地説明会だと言ってもついつい二の足を踏んでしまいます。
お陰で長岡京関係の現説にすら、この数年、行っておりません(-_-)
久々に一念発起して『元稲荷古墳後方部後端の調査』の現説に行って来ました。
しかし、阪急に乗るとなると、一度大阪に出るか京都に出るかして、地下鉄なりJRに乗り換えて梅田か四条烏丸から乗らなけりゃならないんですよね……
かくして大阪経由で阪急京都線の特急に乗って、長岡天神で乗り換えて、西向日駅までやって来ました。
駅を降りて長岡京大極殿跡の方向に歩いて行きますと、何故なのか造成工事のフェンスに囲まれているじゃありませんか(・.・;)
どうやら市で土地を買い上げて、公園をもう少し整備するつもりのようです。
さて、古墳は式内社の『向日神社』のすぐ隣の公園にあります。
今までの調査で、きわめて古い構造の竪穴式石室を持つ前方後方墳で、前方部最上段に特殊器台と壺形埴輪が立てられていた事が分かっています。
大和(おおやまと)古墳群などでの調査成果から、3世紀の3/4半期にまでさかのぼれる可能性もあります。
新聞報道で盛んに言われていたのは、これら画像の葺石の出土についてでしょうか。
従来見慣れた葺石という観念からすると、随分小さな石を使用してるのが良く分かります。
近くの川で採取した川原石だそうです。
こちらの古墳の範囲確認調査は、かなり進んでいるそうですが、後方部の北側は昔の土取りによって断崖のようになっています。
このために後方部がどの程度残っているのかが不明だったそうで、この度の調査により墳裾が検出されて、墳丘規模もほぼ明らかになりました。
墳長は約92メートル、後方部の高さは7メートルもあるとの事です。
石が細かいためなのか、基底部に根石を並べる事もせず、最もポピュラーな小口積みも所々に見られますが、葺石の葺き方には統一性がないとの事です。
しかし、こちらの画像の二段目の斜面には、根石の列が見られ、裏込めらしい細かい石までが見られるそうで、初段の斜面よりもかなり残りは良い様子です。
もう一つ新聞などで報道されていた『讃岐系二重口縁壺』ですが、口縁部分だけが二段目の埋土の中から埴輪片と共に出土したそうです。
墳頂からの流土の中に含まれているのですから、これらの壺や埴輪も墳頂上あった事が分かります。
特殊器台と言い、この壺と言い、いずれもこの古墳の被葬者と瀬戸内地域の関係を示すものです。
文献には殆ど現れない3世紀末から4世紀の倭国は、これらの発掘成果の積み重ねで、少しずつ姿を現して行くと同時に、それにも増して分からない事も教えてくれるものです。
PR
この記事へのコメント