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向日丘陵には100年余りの間、100メートル級の古墳がいくつも造成されたそうです。
元稲荷古墳から北の方に歩いて行きますと、いくつもの古墳を見ることが出来ます。
もしかしたら、こいつもその内の一つではと思われるのが、宮内庁指定の『高畠御陵』、直径65メートルの円墳だそうです。
看板には『桓武天皇皇后 天之高藤廣宗照姫之尊 高畠陵』とあります。
この女性の名前は藤原朝臣乙牟漏(ふじわらのあそみおとむろ)、式家の良継の娘です。
皇后となったのは延暦二年の四月、面白い事に叔父で右大臣の田麻呂が亡くなった一月後の事です。
もしかしてこの堅物そうな叔父は、最後まで姪の皇后就任に反対していたのかもしれません。
そして亡くなったのは延暦九年、三十一歳の若さでした。
ここから物集女車塚(もずめくるまづか)古墳を経て、郵便局の次の角を左に入ると、住宅街の中にこんもりとした森が見えます。
これが『淳和天皇火葬塚』、丸塚山古墳です。
周囲に家が建て込んでしまっているので、何処から入ればよいものやら……
私はこの辺の時代になると全く不勉強でして、物集女の地で荼毘に付された天皇が、どこに葬られたのやら知りません。
いや確か、遺言によって散骨されたと、何かに書いてあったような気が致します。
ともあれ、この場所は宮内庁の陵墓扱いになっているようです。
淳和天皇は嵯峨天皇の異母弟に当たる御方です。
さて『物集女車塚古墳』ですが、江戸時代の陵墓調査の時、ここが淳和天皇の御陵ではないかとされたのですが、後に別の場所が選定されたため、こちらは天皇の霊柩車を埋めた塚だろうという伝承が生まれたそうです。
大きさの割には高さがあるので、墳丘の斜面は30度近くあります。
後円部には横穴式石室があり、二上山から切り出した凝灰岩で作られた組み合わせ式の家型石棺が納められています。
時代は六世紀の後半、継体天皇を迎えた乙訓(弟国)の地の王は、北陸勢力とも関係が深かったのではないかと推測されています。
元稲荷古墳から北の方に歩いて行きますと、いくつもの古墳を見ることが出来ます。
もしかしたら、こいつもその内の一つではと思われるのが、宮内庁指定の『高畠御陵』、直径65メートルの円墳だそうです。
看板には『桓武天皇皇后 天之高藤廣宗照姫之尊 高畠陵』とあります。
この女性の名前は藤原朝臣乙牟漏(ふじわらのあそみおとむろ)、式家の良継の娘です。
皇后となったのは延暦二年の四月、面白い事に叔父で右大臣の田麻呂が亡くなった一月後の事です。
もしかしてこの堅物そうな叔父は、最後まで姪の皇后就任に反対していたのかもしれません。
そして亡くなったのは延暦九年、三十一歳の若さでした。
ここから物集女車塚(もずめくるまづか)古墳を経て、郵便局の次の角を左に入ると、住宅街の中にこんもりとした森が見えます。
これが『淳和天皇火葬塚』、丸塚山古墳です。
周囲に家が建て込んでしまっているので、何処から入ればよいものやら……
私はこの辺の時代になると全く不勉強でして、物集女の地で荼毘に付された天皇が、どこに葬られたのやら知りません。
いや確か、遺言によって散骨されたと、何かに書いてあったような気が致します。
ともあれ、この場所は宮内庁の陵墓扱いになっているようです。
淳和天皇は嵯峨天皇の異母弟に当たる御方です。
さて『物集女車塚古墳』ですが、江戸時代の陵墓調査の時、ここが淳和天皇の御陵ではないかとされたのですが、後に別の場所が選定されたため、こちらは天皇の霊柩車を埋めた塚だろうという伝承が生まれたそうです。
大きさの割には高さがあるので、墳丘の斜面は30度近くあります。
後円部には横穴式石室があり、二上山から切り出した凝灰岩で作られた組み合わせ式の家型石棺が納められています。
時代は六世紀の後半、継体天皇を迎えた乙訓(弟国)の地の王は、北陸勢力とも関係が深かったのではないかと推測されています。
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